21.自首を巡る攻防(4)

「風邪だって。汚名をかぶりまでして、追い払ったはずの病魔から、院長だけが逃げられなかった」


 蔵に響くアリアの声は、震えを押し殺したせいで、低く、くぐもっていた。


 きつく目をつむれば、浮かぶのは暗い雪空。

 雲が重く垂れ込めた、灰色の世界の中で、ひらひらと舞う粉雪と、ベルタの顔に掛かった布だけが、目に痛いほど白かった。


「暴動が収束してからようやく、教会の関係者は青ざめた。長年、慈善事業に貢献してきた高齢の修道女を、獄中死させてしまっては外聞が悪いから。聖職者は訴えを取り下げた後どこかに身を隠して、教会からは、見舞金の金貨が贈られた」


 それは本来、窓掃除で、教会の尖塔から落ちた孤児に贈られるものだ。

 だが同じようなものだった。

 ベルタは叩き落とされたのだ。

 精霊に最も近い、清廉な修道女から、最下層の盗人へと。


 ラウルが顔色を失ってこちらを見ている。

 ヨーナスは今にも泣き出しそうな顔で唇を引き結び、バルトは困ったように、忙しなく床を這っていた。


「でも、院の誰も、そんなの受け取ろうとはしなかった。だってもう、お金ならヨーナス様が手当てしてくれる。一枚ぽっちの金貨で、誰がこの罪を、憎しみを受け入れるの?」


 押し殺しても、押し殺しても、体が浮くほどの怒りが込み上げる。

 拳が白くなるほどの強さで、アリアは金貨を握り締めた。


「だからあたしが引き取った。戒めとして」


 これは形見。

 これはアリアのせいで失われた命。

 これは、罪の証。


 祈るように両手で押し抱いてから、アリアは再びラウルたちと視線を合わせた。


「正直者は馬鹿を見るのよ。精霊はクソほど性格が悪いから、きれいな魂の持ち主を見つけると、すぐ天に召し上げちゃうの。誠意を尽くそうとしたら、絶対に酷い目に遭う」


 その確信は、氷の塊のようなものだった。

 アリアの胸に深く根を張って、どれだけ温かな言葉を注がれても溶けやしない。

 その閉ざされた氷の世界で、アリアは何度も、ベルタの背中に向かって手を伸ばしている。


 待って。

 行かないで。

 そちらに行ってはだめ。


 けれど想像上の彼女は、けっしてこちらを振り返ることはない。

 今、ヨーナスが同じことをしようとしていて、どうしてそれを見過ごせるというのか。


 止めるのだ。今度こそ。

 誠実で、誇りに溢れていて、けれど愚かな行為を。


 涙が滲みそうになり、アリアは乱暴に目元を拭った。


「だから絶対、自首なんてしない――させない。あんたにとっては、『引き換えに傷を負うほうが馬鹿らしい』くらいの、軽い罪なんでしょ? だったらいいじゃない。そのまま放っといてよ。あたしにとっては、傷を負うほうがよっぽど軽いのよ!」


 血を吐くような叫びに、ヨーナスとバルトは、顎を引いて押し黙った。


「――そんなことはない」


 だが、ラウルは静かに反論を寄越した。


「君が無茶をするほうがまし、などということはありえない。それにやはり、感情によって、法や秩序が破られることがあってはならない。報告は行うべきだ」

「だから……!」


 アリアは咄嗟に身を乗り出しかけて、それからぐっと拳を握った。

 この男が退かないのは、わかっていた。


 だって客観的に見て、彼の主張は正しい。

 その正しさこそが、アリアを苦しめるのだが、そんなのはベッドから出たくないとぐずる子どもと一緒で、義務を放棄する甘ったれのほうこそがとがめられるべきなのだ。


「だが」


 俯いたアリアに、しかしラウルは意外な言葉を続けた。


「君を苦しめたくはない」


 取られることのなかった手を、引っ込めるのではなく、さらに伸ばす。

 包帯の巻かれた大きな手は、繊細な硝子ガラス細工に触れるように、そっとアリアの頬を撫でた。


「君は法を犯したがっているのではない。単に怯えている。誰かを傷付けたがっているのではない。傷付いている」

「な……」

「ならば、私は君の心を守りたい。報告を止めることはできないが、君がそれを受け入れられるよう、手立てを考える」


 包帯のざらりとした感触が、頬を滑る。

 それは同じ音を立てて、心臓を撫でるかのようで、アリアはなんとも無防備な心地で瞳を揺らした。


「どういう、こと……?」

「いくつか、やりようはあると思う。ひとつは、わだかまりそのものを解消する方法。もうひとつは、報告についての認識を変える方法。実際、王冠破損の原因といい、宝石の所持者といい、気に懸かる点はある」


 彼の優秀な頭脳の中では、今、いったいどんな思考が渦巻いているのか。

 宝石のようなアイスブルーの瞳は物憂げに伏せられ、アリアからは彼の考えを読み取ることができない。


 軽く瞬きをし、視線を上げたときにはもう、ラウルの中で方針は定まっている様子だった。


「どのみち、最近は王都内での小競り合いが多くて、奏上も即日にはできない。陛下へのご報告は最速で明日になるだろう。だから、アリア・フォン・エルスター。君には一日の猶予がある」

「猶予……」

「それまでに、私は私にできる準備を調える。だから君も、君にできる範囲でいいから、よく心を整理してほしい。明日の同じ時間に迎えに来るから――そのときには、私の手を取りなさい」


 最後にそう命じて、彼は静かに手を離した。


 骨張った、けれど意外にも温かだった彼の指先。

 それが遠ざかっていくのを、アリアはなぜだか心細く感じ、ついで、そんな自分に愕然とした。


 悠然とした足取りで去って行く彼を、だからアリアは無言で見守ることしかできなかった。

 バルトが思わしげに、こちらを見上げていた。


「アリアちゃん……」


 静まりかえった蔵で、ヨーナスがぽつりと呟く。

 ラウルの二倍ほども生きているだろう彼は、年甲斐もなく目を真っ赤にし、はなすすった。


「ごめんね」

「……なにが」

「僕が、頼りなくて」


 彼は、アメシストの嵌まった指で、ごしごしと目尻をこすっていた。


「ベルタさんの件、もっと、早く踏み込むべきだった。君が、宝石を盗むと言い出したそのときに。気を遣ったつもりで、結局は、放置しただけだった。君はこんなにも、深く傷付いていたのに」


 ごめん、ごめんね、と繰り返す養父に、思わずアリアは嘆息した。


「人を破れやすいレース飾りみたいに扱うの、よしてよ。そわそわする。っていうか、あの時点でそんなこと言われたら、あたしはキレ散らかすだけだって、ヨーナス様なら知ってるでしょ?」

「う、うん……。たしかに君は、キレ散らかしたろうけど、でも」

「いいのよ。ヨーナス様はすでに、あたしの金づるになってるんだから、それ以上頑張ろうとしなくていいの。性根のねじ曲がった女のために、泣いてやる必要もない。アホじゃないの?」


 素っ気なく言い捨てて、取り出したハンカチでヨーナスの洟を拭いてやる。


「ハンカチくらい持ち歩いてよね。あ、これ返さなくていいから。あと、一緒の洗濯籠に入れたら怒るから」


 しんなりとした布を、ぐいぐいと彼の上着のポケットに押し込んでいると、ヨーナスは唐突に言った。


「君の性根はねじ曲がってなんかない」

「はい?」

「君はいい子だ」


 なぜだか、怒った声だった。

 ヨーナスは、人の良さそうな丸い顔を真っ赤にし、こちらを見つめていた。


「僕を金づるになんて、結局一度もしたことないじゃないか。君が金を使ったのは、すべて孤児院の仲間のためだった。もっと好き勝手に浪費したっていいのに、君ったら、僕に付け込むどころか、楽をさせようとして、金持ちの後妻なんか目指しはじめるし」

「付け込むにはヨーナス様が貧乏すぎるから、やむなくそうしてるだけよ。あたしは、男爵のみみっちい財産なんかじゃ満足できないの」

「嘘だ。出会ったときから、君は僕を助けくれた」

「ぼんやりした貴族が、あたし以外の子にカモられそうになってたから、蹴散らしただけよ」

「違う!」


 バルトがびくりと尻尾を揺らすほどの声量だった。


「あのとき、僕は貴族の格好なんかしていなかった。騒動に巻き込まれた僕を、周りは誰もが遠巻きに、冷ややかに眺めていたのに、君だけが飛び込んで来てくれた。はきはきした声で相手を罵倒して、きらきらした瞳で睨みつけて、まっすぐな拳でぶん殴った!」

「褒めてるの? けなしてるの?」

「君は、暗闇に突然現われた太陽みたいに輝いてたって、賞賛してるんだよ!」


 当惑したアリアに向かって、ヨーナスは一息に言い切った。


「妻と娘を亡くしてから、僕はまるで、光の射さないトンネルの中をずっと歩いているような心地だった。なにもかもが遠く感じて、暗くて、重くて。周りは腫れ物に触るようにして、近付かない。でも君が――君だけが、あの日、僕にまっすぐ駆け寄ってきてくれたんだ」


 本当はあの日、関係のあった修道院を訪ねて、出家の打診をするつもりだったのだと、ヨーナスは告白した。

 生きる希望も、目的もない。

 財産はすべて投げ出して、俗世を去ってしまおうと。


 けれどそこに、アリアが現われた。


 琥珀色の目は、いつも怒ったように吊り上げられていて、きらきらと輝いている。

 物怖じしない話し方に、躊躇いもなく距離を詰めてくる度胸。


 ちょっと聞いてんの、おじさん! と強く肩を叩かれたとき、ヨーナスの心はどれほど揺さぶられたか知れない。


 誰かの手触りを――娘と同じ、遠慮のないぬくもりを感じたのは、久方ぶりのことだった。


 強い感情を宿した、命の塊のような女の子。

 アリアのことを、ヨーナスはまっすぐに見つめた。


「君は努力家だし、すごく真面目な子だ。養女になった途端、血を吐くような努力を重ねて、品行方正な、文句の付けようのない女の子を演じるようになった。僕が孤児を囲い込んだと醜聞が立たないようにだ。間違っても、売春だと誤解されないように」

「……そっちのほうが誤解よ。単に、行儀のいい女を演じた方が、裕福な独居老人を引っかけやすいからだわ」

「いいや、君は優しい子だ。つんけんしているくせに、本当は身内に誰より甘くて、見捨てられない。なんでもかんでも自分の責任として抱え込んで、途方もない無茶をする」

「してないわよ、そんなこと」


 むっとして否定すると、ヨーナスは一層むきになった。


「いいや、してるね! 具体的には、『私を襲って!』と誘惑のポーズを決めながら盛りのついた男の前に飛び出すような無茶ばかりしてるね! そんなに僕が大切か!」

「全っ然誰のことも誘惑なんかしてないし、全っ然ヨーナス様なんて大切じゃないし!」

「いや絶対周囲を誘惑してるし、君は僕のこと好きだし! いいかい、君が逃げれば逃げるほど、あの男は君を追いかけまわすんだからね! ああいう冷静に見える男ほど、むっつりなんだよ! 僕にはわかる!」

「キモいこと言わないでよ、ヨーナス様のばーかばーか!」

『もうちょっと精神年齢高めに親子げんかできねえのかよ、おまえら……』


 叫び合っているうちに、どんどん内容が低年齢化してきた口論に、バルトがぼそりと突っ込みを入れる。


 ヨーナスには精霊の声は聞き取れなかっただろうが、彼はふと、「とにかく」と眉尻を下げた。


「君はいい子で、僕の大切な家族なんだ。君が僕を見捨てられないように、僕だって、絶対君に傷付いてほしくない。無茶なんか、してほしくない」

「…………」


 真正面からの言葉に、アリアが怯んだように押し黙る。

 ヨーナスは、小さな子どもにするように、優しく、俯いた頭を撫でた。


「ごめんね。もっと早く言えばよかった。僕は捕まったりしないし、君を置いていきもしないよ。大丈夫だから……怖くないから、事態がこれ以上難しくなる前に、ほかの人の手を借りに行こう」


 ゆっくりと髪を梳く手には、なんの下心もない。

 労りと、感謝と、詫びと。

 それから、どこまでも温かな親愛だけが籠もった、ふくふくとしたヨーナスの掌。


 情けなくも涙が出そうで、アリアは下を向いたまま、床を必死に睨みつけた。


「……どうせ、あたしが納得しようがしまいが、自首しに行くんでしょ」

「うん。それはそうなんだけど。でも、納得してほしいなあ。どうしたらいいんだろう。自首って言葉が重いのかも。報告……連絡……、相談と思うとか、どう?」

「いっそ、密告とか告げ口なら、意気揚々とその日中に登城してやるのに」

「うーん、ぶれない攻撃性だ」


 がくりとうなだれたヨーナスの胸に、アリアはそっと額を押し付けた。

 すると養父は、ごく自然にぽんぽんと背中を撫でてくる。


「君のその苛烈さはどうにかならないものなのか……いや、いい子だけど……大切な娘だけども」


 ぼやく彼は、アリアのほうこそ、どれだけヨーナスを大切に思っているか、わかっているのだろうか。


 そうとも。

 先ほどは否定したが、アリアはヨーナスが大切だった。

 真っ暗な世界に光を射し込んでくれたのは彼のほうだ。

 ベルタを牢に囚われて、息もできないほど追い詰められていたところに、彼だけが手を差し出してくれた。

 上から金貨をばら撒くのではなく、視線を合わせ、手にしっかりと財布を握らせて。

 憐れみも下卑た欲望も込めず、ただ真摯な表情を浮かべ、「よかったら、これを使って」と、アリアの背中を押してくれた。


 ベルタがもういない今、アリアにとって、彼だけが守りたい存在なのだ。

 もう二度と、正直者が馬鹿を見る状況など、許したくない。

 どう言葉を飾ろうと、自首なんて、やはり嫌だ。


(そうよ、密告ならいいのに)


 国宝破損の原因が誰かほかの人間にあって、それを告げるということなら、アリアはすぐにでもラウルの手を取って、いいや、彼が止めても王城に言いつけに行っただろう。


 大げさに騒ぎ立て、思い切り責め立ててやるのに――。


(待って)


 そこまで考えたとき、脳裏にふと、ラウルの声が蘇った。


 ――王冠破損の原因といい、宝石の所持者といい、気に懸かる点はある。


 先ほどの発言は、どういう意味だったのだろう。


(『破損の原因』……。たしかに、王冠はなんで、腐っちゃったんだろう)


 大罪だの、精霊だの、封印だの、超常現象ばかりを並び立てられてしまったから、「そういうもの」となし崩しに受け入れてしまっていたが、そもそもなぜ、封印は解かれてしまったのだろう。


 それに、もう一つ。


(『宝石の、所持者』……?)


 大罪の憑いた宝石の持ち主には、なにか妙な点でもあるというのか。


 頭の奥に何気なくしまい込んでいた違和感のかけらが、不意に繋がってゆく。


 そうだ。

 自分はとうに、その答えをラウルから差し出されていたではないか。


 ――宝石を盗まれたのはどこも、現王陛下に親しく、献身的に尽くす忠臣ばかりだ。


「…………」


 アリアは無意識に、息を呑んだ。

 的外れな推論として、聞き流していたその発言。


 けれど彼の言うとおり、そこに意味があったのだとしたら?

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