20.自首を巡る攻防(3)
「僕は、ベルタさんじゃないんだよ」
「…………!」
静かな声に、アリアは弾かれたように顔を上げる。
養父は、つぶらな瞳に悲しげな色を浮かべ、こちらを見つめていた。
「僕は、彼女じゃない。もっと卑怯だし、もっと強かだ。だから……大丈夫なんだ」
『ベルタ……?』
風向きの変わった話に、バルトが戸惑った様子で首を傾げる。
それから、無言で金貨を強く握り締めているアリアを見やり、ふと目を瞬かせた。
彼女が肌身離さず胸に下げている、古ぼけた金貨。
過去を語るたびに視線を落とし、握り締めるときには、決まってやるせなさそうな、強い感情を飲み下すような顔をする。
――墓か、見舞金の金貨を選べんのよ。すごいでしょ?
不意に、なにかが繋がった気がした。
『アリア……もしかして、ベルタって……』
「ベルタという人物は、君にとってどういう存在だ」
バルトの呟きと、ラウルの問いは同時だった。
「もしや、君がよく握り締めているその金貨と、関わりがあるのか」
「…………」
縋るように、アリアが金貨を握り締める。繊細な鎖が立てる小さな音が、夕暮れの蔵に響いた。
「アリア・フォン・エルスター。それが君の事情だというなら、話してほしい。報告を嫌がる、妥当な理由だというのなら」
いつも冷え冷えとしている口調が、ほんの少し、いたわしげに緩められる。
内容次第では、譲歩もありえる――そんな気配が、アリアの頑なな唇を、ようやく動かした。
「……ベルタは……ベルタ・テニエスは、あたしのいた孤児院の院長。……院長
過去形で彼女を語らなければならないとき、声はいつも掠れてしまう。
三年が経った、今も。
「この金貨は……教会から、見舞金と慰謝料を兼ねて与えられた、あの人の唯一の形見」
彼女は強かった。子どもたちを守るためなら、なりふりを構わなかった。
けれど――同じくらい
愚かなほどに。
「彼女は死んだの。子どもたちのために、薬を『盗んだ』から。言いがかりみたいな罪だったのに、馬鹿正直に自首しに行って、そこで、暴動のせいで身動きが取れなくなって……」
喉が震える。
熱の塊が体の奥底から込み上げて、目頭を、鼻先を、じんじんと熱くした。
「死んだの。死んじゃったの。罪にもならない罪を自首しに行って、死んじゃったのよ――」
アリアの琥珀色の瞳が、じわりと涙に揺れた。
震えるアリアからすべての経緯を聞き終えた後、ベルタが漏らした言葉は、愚かな、というものだった。
最初アリアは、もちろん自分に向けられた言葉なのだと思い、肩を揺らした。
だが違った。
老いた院長は、険しい顔で、こう説いた。
あなたはまったく悪くない。
貧しさに付け込んで、年端も行かぬ少女の体を暴こうとした男が、愚かであり、悪いのだと。
アリアは驚いて、反射的に言い返した。
けれどあの男は、自分を愚かだと罵った。
自身でも、迂闊だったと思う。
結局、甘い誘惑に負けて、しかもなにも手に入らず、厄介事ばかりを増やしてしまった。
口を歪め、ごめんなさい、と続けようとしたアリアのことを、ベルタは強く抱きしめた。
そうして、一語一語、噛みしめるように告げたのだ。
もしあの男が、世間が、あなたを愚かだと批判するなら、それは世間のほうが間違っている。
愚かなのはあの男で、あなたはまったく悪くない。
絶対に。誰が、なんと言おうとも。
精霊に仕える聖職者のことを、彼女がこうも悪し様に表現するのは初めてのことだった。
何重にも予防線を張った心を、まっすぐな言葉で、真正面から抱き締められて、咄嗟に言葉も出てこないほどだった。
ただ馬鹿みたいに、唇を引き結んで立ち尽くしていた。
でないと、涙が零れそうだったから。
そしてベルタは、アリアを置いて、その聖職者――エメリヒと言ったが、アリアはその名すら発音したくない――のもとに向かったのだ。
詳細は教えてもらえなかった。
しばらくして帰ってきた彼女は、右手に小さな薬瓶を携えていた。
すっかり怯えた相手が、詫びの品にと差し出してきたという。
院は喜びに湧き上がった。
アリアも歓喜に頬を赤く染め、ベルタに抱きついた。
勝った、と思った。
我らが院長は、悪いやつをこてんぱんにして、弱き者を救うための薬を持ち帰ってくれた。
おかげでフランツは、最悪の夜を生き延びた。
このつらい冬の、最も厳しい夜を、誰一人の命もこぼさず乗り切った。
勝った。
勝ったのだ。勝ち取った。
――だが、それから五日も経たぬ頃のこと。
くだんの聖職者は、ベルタを盗難の罪で訴えた。
支払いもせずに、貴重な薬を持ち去ったというのが、その主張だった。
最初、孤児院の皆はその訴えを、せせら笑いで聞き流した。
だって、とんだ言いがかりだ。
ベルタは盗んだのではない。
恥ずべき罪を犯した中年男から、ささやかな詫びの品を受け取っただけだ。
だが、エメリヒは巧妙に周囲を巻き込み、自身の正義を吹聴して回った。
世間は、素行の悪い孤児よりも、権威ある彼の言葉を信じた。
暴動のせいで、街の空気は張り詰めたままだ。
誰もが、苛立ちをぶつける対象を求めている。
皆が欲しがる薬を「盗んだ」老婆は、その格好の的だった。
挨拶が減った。
背中を追いかけてくるような敵意の囁きは増えた。
落書きをされた。
院に石を投げられた。
食料を売ってもらえなくなった。
子どもたちは躍起になって噂を否定して回った。
ベルタは相変わらず、そんなことがあっても表情一つ変えず、背中を伸ばして過ごしていたが――ある日、病が収束に向かいはじめた頃、アリアたちにこう切り出した。
ありもしない罪を、自首するというのだ。
皆は止めた。
アリアなど、羽交い締めにしてでもベルタの外出を止めようとした。
けれど彼女は譲らなかった。
疑惑を疑惑のままにして、こちらがいつまでも認めないから、噂がいつまでも続くのだ。
どちらかが罪を認め、罰を受けない限り、永遠に事態は決着しない、と。
そう言うベルタの体は、よく見れば、一層細くなっていた。
もっとも、それは孤児院の誰もが同じことだったけれど。
身を乗り出して反論しようとするアリアを、ベルタは首の一振りで制した。
実は今回の騒動に、自分でも罪を感じているのだと。
彼女の主張はこうだった。
あの男のしたことは到底許しがたい。
よって、詫びを受け取ること自体はあってしかるべきだった。
だが、果たしてそれは薬であるべきだったのか。
あの教区で、薬を取り扱っているのは彼だけだった。
自分が想定外に一つを持ち去ったせいで、一つ、救われなかった命があるかもしれない。
もしそうなら、相手は、その家族は、どれだけつらい思いをしただろう。
それは、今から薬代を払っても、癒やせるものではない。
あのとき自分は、謝罪をもって彼を許し、薬にはきちんと対価を払うべきだった。
あるいは、ほかの品を選ぶべきだった。
なのに、衝動のままに薬を持ち去った。
それは、盗人と蔑まれても、仕方がない行為ではないのか――。
いかにも彼女らしい主張だった。
正しくて、思慮深くて、どうしようもなく、頑固。
黙ってしまった子どもたちの頬を一人ずつ撫で、彼女は告げた。
「精霊の定めた法は、守らねば」
そうして、警邏隊の元へと向かったのだ。
盗難の罰は、自首して返金するのであれば、本来さほど重くはない。
高齢のベルタであれば、調書に署名し、
罪を認め、罰を受け、この事件に終止符を打つ。
それきり、この話は二度と蒸し返させない。
そのはずだったのに――ベルタは、いつまでも帰ってこなかった。
警邏隊の詰め所、そこに併設されている街牢には、その頃、多くの暴動犯が捕まって取り調べを受けていた。
そのため、些細な盗難の事情聴取は後回しにされたのだ。
ベルタは、暴動犯の群れと一緒くたにされて、粗末な牢に放り込まれた。
粉雪の舞う、寒い冬のことだ。
アリアたちはベルタに会いに行こうと必死になった。
連日のように牢に押しかけたが、暴動犯の残党を警戒していた衛兵たちに、乱暴に追い払われた。
年齢を理由に釈放を求めたが、個別の手続きをしている余裕はないと言う。
それでも強く解放を求めると、今度は法外な釈放金をふっかけられた。
子どもたちは日に日に焦りを募らせた。
寒い、病まで流行っていた冬だ。
不衛生な牢に、高齢のベルタが何日も閉じ込められて、無事で済むはずがない。
アリアは今度こそ街路に立った。
純潔でも、歯でも髪でも、なんでも売ってやると思った。
実際にはそこで、ヨーナスと出会った。
彼は転んだフリをする少年を助けようとして、財布を擦られそうになっていた。
お人よしに服を着せたような、ぼんやりした男爵は、きびきびとして厳格なベルタとは正反対だ。
だが一目会ったときからなぜか、アリアは彼のことを放っておけなかった。
もしかしたら、自分に構わず他人に手を差し伸べてしまう在り方が、ベルタと似ていたのかもしれなかった。
「名ばかり貴族」。
けれど、孤児院の子どもから見れば、立派な金持ち。
アリアは、スリの少年を蹴散らして、ヨーナスに近付いた。
彼が押しに弱いのを幸いに、瞬く間に言いくるめ、養女となる約束を交わして、支度金をもぎ取った。
一刻も早く、ベルタを解放する金が必要だったのだ。
ずしりと重い金貨の袋を握り締め、牢へと走る。
これでやっと。
ようやく、彼女を取り戻せるはずだった。
しかし――肩で息をし、牢に飛び込んで行ったアリアが見たのは、白い布で顔を覆われた、冷え切ったベルタの遺体だった。
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