19.自首を巡る攻防(2)

『アリア――アリア!』


 ぴち、ぴち、と頬に尻尾の当たる感触がして、アリアは目を覚ました。

 ぼんやりと身を起こすと、全身が軋む心地がする。

 固い椅子に腰掛けたまま寝入ってしまったのだから、当然だ。


 蔵の窓から射し込む光は、夕陽と呼んで差し支えなくなっている。

 アリアはあの後、庭園で慌ただしく着替えてから馬車に飛び乗り、即座に蔵に閉じこもると、ルビーを王冠に「戻し」たのだった。


 その間、思考は始終冴え渡り、自分はまったく動揺していないと思っていたのだが、神経は意外にも張り詰めていたらしい。

 作業が終わると、ふつりと気が緩む心地がして、そのまま蔵の中でうとうとしてしまった。


 昼食も取らずに何時間寝ていたのか。

 おかげで嫌な夢を見た。


「いてて……。首もバッキバキだし。このまま凝り固まってポキッと折れそう。バルトも、あたしの首が危機に瀕する前に起こしてよね」

『今おまえの首がまさに危機に瀕してるから起こしてんだよ!』

「はあ?」


 首をぐるぐる回しながら眉を寄せると、バルトはちょろりとテーブルに駆け下り、くわっと牙をいた。


『この蔵に、向かってきてる!』

「ヨーナス様が? ああ、馬車を呼べなくしておいたから、怒ってんのかな」

『違えよ! ラウル・フォン・ヴェッセルスがだ!』


 アリアは数秒黙り込み、それからひくりと口元を引き攣らせた。


「は?」

『ちょっと前から、それっぽい気配が屋敷に漂ってて、気のせいかな、気のせいだよなって思い込もうとしてたんだけど、だんだん蔵に近付いてきてる。もう間違いない。これ、あいつの精霊力だ! とうとう、俺たちを捕まえにきたんだ!』


 どうしよう、とぐるぐるテーブルの上を走り回るバルトに、思わずアリアは叫んだ。


「いやどうしよう、じゃないでしょ! あんたの危機管理能力どうなってんの!? 怪しいと思った時点で確かめに行くか、せめてもっと早く起こしてよ!」

『だっておまえ、途中までめちゃくちゃ幸せそうな顔して寝てんだもん!』

「寝顔観察すんな!」


 八つ当たりしていても仕方ない。


 アリアは、蔵の扉が内側から施錠されていることを確認し、さらに、扉前に骨董品の重厚な机を移動させると、即座に逃亡準備を開始した。

 ひとまず、この破損された王冠を見られてはまずい。古布でぐるぐる巻きにして、麻袋の中に放り込む。


「あれだけの傷を追ったくせに、なんでもう動けんの!? っていうかあいつ、あたしに『逃げろ』って言ったよね!? なのに追いかけてくるの何なの!?」


 あの男、もう気が変わったのか。

 いや、あのときアリアを逃がしたのは、単に「色欲」の影響下にあって頭が混乱していたからで、冷静になった今、当然の使命感を取り戻しただけなのかもしれない。


 むしろ、アリアのせいで手に不要な傷を負ったと、怒り心頭かもしれないわけだ。

 かもしれない、というよりは、確実にそうだろう。

 だってアリアなら、絶対に相手を恨む。


「最悪最悪最悪」


 どさっと乱暴に麻袋を床に投げ出すと、そこに次々と、逃亡生活に必要な道具を加えはじめた。


 現金、足のつかなそうな宝石、着替え、食料。


「ああそうだ、こいつらも返却しに行かなきゃ」


 それから、輝きが十分に回復した他家の宝石も。

 あとなにがあれば、数日生き延びられるだろう。


 今さら捕縛なんてされるつもりはない。

 だって、あとたった二つなのだ。


 屋敷の当主であるヨーナスのもとではなく、蔵に向かっているということは、彼が犯人扱いしているのはアリアだけだということだ。

 それでいい。


 あと二つの宝石を回収しおおせるまで、アリアだけが逃げ回ればいいのだから。


「ねえ、バルト。あたしはあの窓から逃げるから、あんたは――」


 だが、相棒に声を掛けようと振り向いた瞬間、耳が異様な音を聞き取り、アリアの思考は停止した。


 ――カチャ。


 静かに、錠が回る音がしたのだ。

 屋敷中の鍵を隠し、誰も外からは開けられないようにしていたはずなのに。


 ――ズズ、ズズズ……。


 さらには、先ほどのアリアが顔を真っ赤にして、ようやく扉前に移動させた重い机が、いともやすやすと、床を移動している。

 机を押しのけて、扉が開いているからだった。


 徐々に広がる隙間から、外の夕陽が射し込んでくる。


「失礼」


 赤い光を背負い、扉に片手を掛けて佇む彼こそは、もちろん、ラウル・フォン・ヴェッセルスであった。


「鍵は我が家で保管しているものを使わせてもらった。扉が開きにくいのだが、入っていいだろうか。大切な話がある」


 難なく扉を突破してしまった男を前に、突っ込みがいちどきに溢れてしまって、アリアは黙り込むことしかできなかった。


 いやいやいや、開きにくいとかじゃなくて。

 だって封じたわけだから。

 それを、待って、片手で? 

 膂力どうなってんだ。ゴリラか? 

 精霊に愛されし塑像のような美青年の腕にはゴリラの加護が宿っているのか?

 だいたい、なにを神妙な顔で入室許可取ってんだ、押し入り強盗が「お邪魔しまーす」と挨拶するような図になってんだろ自覚しろ!


「アリア・フォン・エルスター」


 こつ、と、高貴な足音を響かせて、彼が蔵の中へと踏み入ってくる。

 彼の背後から、慌てた顔をしたヨーナスが、「ア、アリアちゃん!」と追いかけてくるのがわずかに見えた。


「君に」


 ラウルの薄い唇が動く。

 時の流れがやけにゆっくり感じる。

 胸が高鳴り、冷や汗が滲む。


 とうとう自分は捕まるのか、この男に。

 彼が突き付けるのは捕縛か、交渉か、それとも拷問か――。


 だが、アリアの目の前までやってくると、ラウル・フォン・ヴェッセルスは不意に、かつ優雅に、ひざまずいた。


「求婚しにきた」

「いやなんで」


 咄嗟にそう返してしまったのも、無理からぬことだろう。

 意味がわからず、つい心のままに罵りそうになってしまったが、ヨーナスの目があることに気づき、アリアは咳払いした。


 心配性の養父には「聖騎士になんか全然追い詰められていない」し、「正体も本性も完璧にばっくれてます」と主張しているのだ。

 となれば、あくまで令嬢らしく振る舞わねば。

 「実際には本性が出てしまうほどめちゃくちゃ追い詰められています」と、ヨーナスに気取られるわけにはいかない。


「突然いらして、なにを仰るのでしょうか」


 白々しさを承知で口調を改めると、ラウルはそこには特に反応することなく、跪いたまま律儀に補足した。


「責任を取らせてほしい」

「責任?」


 これには素で、首を傾げてしまう。


 ラウルの左手には、痛々しく包帯が巻かれている。

 どちらかといえば、アリアのほうが責任を取るべき立場のように思うのだが。


 しかし、彼が続けた言葉に、アリアは瞬間的に頬を染め上げた。


「先ほど、私は君に対して、許されざる非礼を働いた。その償いをしたい」


 もちろん、怒りでだ。

 突然きょろきょろと周囲を見回しはじめたアリアに、ラウルは眉を寄せた。


「なぜ周囲を見る?」

「手頃な鈍器はないかと」

「……名誉を汚されかけた君の怒りはもっともだ。だが、いいや、だからこそ、どうか誠意ある対応を取らせてほしい」

「あらまあ。聖騎士様は、春の庭園のように温かなお考えをお持ちですのね」


 てめえの頭は春のお花畑ですか、というのがこの場合の正しい翻訳である。


「つまり、強姦しようとした相手に求婚することが、誠意ある責任の取り方であると?」


 つい強い表現を使ってしまったが、それほどアリアは苛立っていた。


 先ほどの彼は、単に「色欲」の支配下にあっただけだということを、アリアは知っている。

 むしろ彼は被害者であるということも、騎士の命の手を傷付けてまで、自分を逃がそうとしてくれたことも。


 ただ、不本意とはいえ自分が襲いかかった相手に、結婚を迫ることが「償い」になると信じる、その傲慢な発想が受け入れがたかった。

 「ほら結婚してやるぞ、安心したろう?」と思われることが。


「もしわたくしの心情に配慮してくださると仰るなら、金輪際、わたくしの視界に入らないでいただけますか? あなたは二度と、わたくしに会わない、わたくしに触れない」


 その延長で、「烏」のこともあと二回、見逃してくれれば言うことなしなのだが。

 だがラウルは、予想外の返答を寄越した。


「もちろん、君を襲いかけた男が、傍にいては不快だろうと理解している。だから、私は君に、夫婦としての触れ合いは求めない。望むなら、話しかけもしない。視線も合わせない。私の所有する財産はすべて君に譲る。ただし」


 アイスブルーの瞳は、どこまでも真剣だった。


「夫婦として、罪は分かち合わせてもらう」

「――……は?」

「婚姻をもって、我々は親族となる。エルスター家の犯した罪は、ヴェッセルス家もその責を負う。君たちが国宝を破損したのなら、私もその連帯責任者となる」


 言葉を失ってしまったアリアの前で、ラウルは立ち上がり、その手を取った。


「今回の件、すべてを包み隠さず、陛下に報告に上がろう。――共にだ」

「…………っ」


 振り払おうとしても、振り払えない。

 もがくアリアに、横からヨーナスが身を乗り出した。


「き、聞いたよ、アリアちゃん。君、ラウル殿に思い切り正体を掴まれているどころか、攻防の果てに塔の天辺から飛び降りたり、果てには……襲われかけたんだって!? なにが『あたしは捕まらない』だ、すでにもう、捕まって処罰を受けているも同然じゃないか!」


 どうやらラウルは、蔵に来る前に、これまでの出来事をヨーナスに語ってしまったらしい。

 繊細なヨーナスの心臓を思って、せっかくマイルドな報告に留めてきたのに、台無しだ。


 アリアは、「それは大げさで、実際には――」と言い訳しようとしたが、養父は聞く耳を持たなかった。


「突然よその家の男にやって来られて、『ご令嬢の名誉を汚してしまった。かくなる上は婚姻をもって責任を取りたい』と切り出された僕の気持ちがわかるかい!? 君はなんて無茶をするんだ。たったひとつの、たかが仕事上の失態のために、なんて無茶を!」

「よく現実を見てよ! 傷付いたのはあたしじゃない、その男のほうじゃない! 彼が嘘をついているだけなの。あたしは無事よ。全然平気。無茶なんてしてないったら!」

「いいや、君は無茶の塊だ! もう僕は心に決めた。君がなんと言おうと、絶対に、王冠破損の件は報告する! ついでに、これまで王都を騒がせた『烏』の正体は僕であるとね!」

「そんなぽっちゃりした『烏』なんて、絶対受け入れられないわよ!」

『お、おう、落ち着けよおまえら……。っていうかアリア、口調戻ってんぞ』


 激しい応酬を交わす親子の間で、バルトがおろおろと首を左右させる。


「男爵から聞いたが」


 とそのとき、相変わらずアリアの腕を掴んだままのラウルが、静かに切り出した。


「君が頑なに報告を拒み、『烏』として宝石を回収する道を選んだのは、報告すれば男爵の処分が免れないと考えたからだな」

「そう! そうなんだよ、ラウルくん! たかが業務上過失、べつに報告したところでなんの問題もないと説得したんだけど、全然聞いてくれなくて――」

「たしかに過去、国宝を破損した廉で斬首刑に処された貴族も、いるといえばいるが」

「え」


 一言でヨーナスを青ざめさせてから、ラウルは改めて、アリアの瞳を覗き込んだ。


「それは悪意を持って故意に国宝を傷付けた者で、しかも余罪があったからだ。日頃から忠実であれば、王陛下は、正直に過失を申し出た者に、けっして過剰な処罰など下さない」

「……世の中に、絶対なんてないわ。百の内九十九までが無罪放免となっても、残る一で責任を負わされたら、苦しむのは誰なの? 他人が好き勝手なことを言わないで」

「だからこそ、婚姻を申し出ている」


 手は、アリアの腕を締め付けないよう、そっと触れているだけだ。

 なのに振り払えない。


 アリアががむしゃらに腕を揺すろうとすると、ラウルは今一歩、彼女に迫った。


「婚姻を結べば、私はもはや当事者だ。私は、身内に降りかかる火の粉は全力で払う。そして、ヴェッセルス家にはその力がある」

「…………」

「他人など信用ならないと、君は言いたいのだろう。ならば私は当事者になる。自己保身なら、君も信じられるだろう。原因もわからぬ国宝破損の廉で、処罰など絶対に下させない」


 夕陽の射し込む蔵の中で、ラウルの声は朗々と響いた。

 相棒のバルトも、どちらの主張に道理があるのかを決めかねた様子で、おずおずと二人を順に見比べている。


 黙り込むアリアに向かって、ヨーナスが「つまりね」と言い換えた。


「ラウル殿は、質草として婚姻を――地位と財産を提示しているんだ。そのくらいの覚悟で、処分は回避する。だから、正直に報告しようって」

「は……」


 思わず、アリアは緩く首を振った。

 主張は理解できても、どんな表情を浮かべていいのかわからなかった。


「なんであたしたちのために、聖騎士サマが、そこまですんのよ……」


 嘲笑を浮かべようとしたが、うまくいかない。

 切れ味を欠いた、皮肉の失敗作だけが、口をぽろりと衝いた。


「あんた、訳ありげな容疑者がいたら、都度求婚して面倒を見るわけ?」

「そんなことはしない」

「じゃあなんでよ。放っておいてよ」

「放っておけるものか」


 少し、ラウルの声が荒くなった。

 完璧な形の眉が寄せられ、なにもかもを見通すような目は、こちらを責めるように細められた。


「君は、とんでもなく危なっかしい人だ。性悪ぶるくせに、身内を守るためなら、いきなり『私を殺して!』と叫びながら剣の前に飛び出すような真似をする。見ていられない」

「ちょっと、言っとくけどそれ、絶対あたしが先に思いついた表現だからね。っていうか、あたしとヨーナス様が同類って、失礼にも程があるでしょ!?」

「失礼だって思うことのほうが失礼だよ、アリアちゃん!?」

「とにかく」


 ヨーナスの突っ込みをさらりと聞き流し、ラウルは強引に話をまとめた。


「婚姻は君に利があるよう万全を尽くす。ひとつの失態を隠すために、いったいどれだけの罪と危険に身をさらすつもりだ? 素直に、起こったことを報告しに行くべきだ」


 ずっと握っていた腕を離し、そこに再び「さあ」と手を差し出す。


「この手を取りなさい」

「…………」


 ラウルが、ヨーナスが、バルトが、答えを待ってこちらを見つめている。

 もはや誰もが――宝石の回収に誰より乗り気だったバルトさえ――、自首すべきだとの意見に傾いているのが、肌でわかった。


 もちろん、アリアだって理解している。

 隠すために盗む、盗むために騙す。

 そんなことを繰り返すより、さっさと過失を報告に上がるべきなのだとは。

 「烏」を捕縛したっていいのに、わざわざアリアに意志を確認しに来てくれる彼らは、信じられないくらいのお人好しだ、とも。


「――……お断りよ」


 だが、結局彼女が突き付けた答えは、それだった。

 細い指は、ラウルの手を取る代わりに、胸に下げた金貨のネックレスを強く握り締めていた。


「自首なんて、しない」

「アリア・フォン・エルスター」


 これには、さすがに冷静沈着で知られる聖騎士も、苛立ちを隠せないようだった。


「なぜそうも頑ななんだ。私の名に懸けて、君たちに過剰な処罰など受けさせないと言っている」

「それくらい軽い罪だっていうなら、このまま見逃してよ。あと二つ、宝石を戻せば、なにも無かったことになるんだから」

「なぜそうまでして、報告を嫌がる。軽重にかかわらず、犯した罪があるなら、申し出なければならない。それが道理だ」

「あたしに道理を説かないで!」


 咄嗟に、アリアは耳を覆った。


 ――やっぱり、こういうことは、きちんとしなくちゃ。

 ――それが道理だ。


 ヨーナスとラウル、二人の声が次々に蘇る。

 あともう一人。


 ――精霊の定めた法は、守らねば。


 しわがれた、穏やかな声も。


「『きちんと』とか、道理とか……。世界一嫌いな言葉よ」

「アリアちゃん。ずっと、言うべきかどうか悩んでいたんだけど」


 そのまま俯いたアリアに、見かねた様子でヨーナスが話しかけた。


「僕は、ベルタさんじゃないんだよ」

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