16.ルビーを巡る攻防(4)

(いやめちゃくちゃ憑かれてんじゃん!)


 腕を掴む手が異様に熱い。

 森のような彼の香りが、ふわりと鼻先を掠める。


 すぐそばに迫ってくる麗しのご尊顔から、アリアは慌てて顔を逸らした。


「ちょ、ちょっと、落ち、落ち着こう! 深呼吸! 話せばわかる! 早まるな!」

「どう……すれば……」


 ラウルはのけぞるアリアの首筋に顔を埋め、やるせない溜め息をこぼした。


「くそ……こんな、……初めてだ」

(もしかして未経験でいらっしゃるんですかね!)


 だとしたら衝撃の事実だ。

 この顔で。


 いやしかし、こうもあっさり「色欲」に蝕まれてしまったことの説明にはなる気がする。


「な、なるほど、衝動。初めての衝動ね。ねえ、ちょっとそこの床を見て、ほら、すごい美女がネグリジェ一丁で倒れてる! 迫るならあっちはどうかな!? ナイスバディだし!」

「君がいい」

「わがまま言わない!」


 不敬を承知で王妃へと関心を逸らそうとするが、なぜか失敗する。

 もしかして、経験豊富な相手は避けたいという、初心者ゆえの嗜好や願望が反映されているのだろうか。


「君がいい……」


 そのまま強く抱きすくめられてしまい、アリアは恐慌状態に陥った。


「私はよくない! 離して! それか腕輪を離して! あんたの異常はそいつのせいだって、もうわかってんでしょ!?」

「離すものか」


 だが、ラウルは熱に浮かされた声で、それを拒否した。


「離したら、君はこのルビーを、奪い去るのだろう。この場から……私から、逃げてゆく」

(いやそりゃ逃げるけども!)


 なるほどこの男、湧き上がる衝動を堪えてでも、こちらを逃がすまいとしているのか。

 たしかにルビーが彼の手元にある限り、アリアとしては立ち去りがたい。


(ど、どうすりゃいいの)


 首に感じる吐息が、熱い。

 鍛えられた腕は、万力のようにアリアの体を締め上げ、呼吸もできないほどだった。


「あ……あーっ、去らない! 全然去らない! 約束する! 信じて! あたしがあんたに嘘をついたことなんてあった?」

「ほぼ嘘しかついていないだろう」

「そうね!」


 渾身の説得も空振りに終わる。

 ひとまず突き放そうと、固い胸板にぐっと手を差し入れたが、するとラウルは苛立った様子で、アリアのことをそのまま床に押し倒した。


「うわあ!」

 そのとき、アリアが頭を打たないよう、さりげなく背中に腕を回しているあたり、この男の運動神経のよさと気遣いが感じられる。


(もしや、意外に閨事に慣れてるとか!?)


 新説が持ち上がり、どちらも等しくありえる気がしたが、それを吟味している場合ではまったくない。


 思考が斜めに逸れていくのは、アリアがそれだけ混乱している証だった。


「宝石に触れた途端、私はおかしくなった。……そういうことなのか。これまで、宝石によっておかしくなった者たちから、君が、異常の源を切り離していたのか」

「ちょっと……重い……っ、離して、ってば!」

「宝石は、異国の王冠に嵌められているものと一致していたな。第三国宝庫所蔵の……王冠。それが、この騒動の発端か?」


 必死にもがくが、鍛えられた体はびくともしない。

 だいたい、体格差がありすぎる。


 ラウルは恐ろしい速さで真相に迫り、睦言を囁くようにして、耳元で凄んだ。


「アリア・フォン・エルスター。真実を話しなさい」

「いいから、離して……離せ、つってんだろ! これ、絶対取り調べの構図として間違ってるから!」


 もちろんアリアは、それどころではなかった。

 爪を立てて体を押しのけようとしていると、ラウルは煩わしげに、片手でアリアの両腕をまとめ上げ、もう片方の手で頬を掴んだ。


「話しなさい」


 ぐ、と、親指が口の中に割り入れられる。


「ふあ……っ!?」

「真実を。もっと詳細を。もっと……」


 予想もしなかった行為に出られ、アリアは思わず喉を引き攣らせる。

 びく、と震えた姿を見て、ラウルのアイスブルーの瞳が、すうと色を深めていった。


「もっと……君がほしい」

(要求すり替わってんじゃん!?)


 鋭く突っ込んでやりたいところだが、唇が引っ張られてしまってそうもいかない。


 ガンガンと体中が警鐘を鳴らし、強気なアリアといえど、さすがに青ざめてきた。


(まずい、いよいよ「色欲」に蝕まれちゃってる)


 アリアの顔色を見て、ラウルもそれを自覚したらしい。

 はっと目を見開くと、彼は唐突に、頬を掴んでいた手を離した。


「――すまない」


 だが、アリアを解放するかに見えた手は、すぐに拳に握られ、再び床にアリアを縫い止めた。

 掠れた声が悲痛に告げる。


「すまないが……、君のほうで、抵抗してくれないか……」

「いやしてるけど! 全力でしてるけど! っていうか腕輪をさっさと離せよ!」

「指が勝手に、握り締めてしまって……離せない」


 どうやら、自力ではとうてい衝動を制御できない状態であるらしい。

 だが、わずかながら、彼に自我はまだ残っているようだ。


 この機を逃すわけにはいかない。


 のしかかってくる体を押しのけるべく、一層力を込めて胸板を押し返したり、割り開かれた足をじたばたさせたりしていると、ラウルが呻き声を上げた。


「頼むから……一切動かないでくれないか」

「いやどうしろと!?」


 抵抗しろ、けれど動くなと言われ、途方に暮れる。


『アヒア! ほへを使へ!』


 バルトがなにかをくわえ、走り寄ってきたのは、そのときのことだった。

 見れば、先ほどラウルが投擲した短刀である。


 小さな相棒は、アリアの手の届く位置まで短刀を引きずってくると、きっぱりと告げた。


『こんなやつ、刺しちまえ! その隙に、俺が腕輪にブレスをかける! げっぷサイズのブレスでも、こいつに憑いて日の浅い「色欲」なら剥がせんだろ!』


 過激だ。

 だが頼りになる。


(仕留めるのは無理でも、関心を逸らすくらいなら……!)


 アリアは目だけで頷き、短刀をたぐり寄せた。

 きゅ、と掌に力を込めて、覆い被さるラウルの、肩口を狙って振り下ろす――!


 ――パシッ!


 だが、そこそこの速さで揮ったはずの短刀は、振り向きもしない男の手によって、難なく拳ごと受け止められてしまった。

 のみならず、ぐいと力を込められ、拳をこじ開けられる。


 ぽとりと落ちた短刀を、ラウルは向きを変えながら受け止め、アリアの胸元に突き付けた。


 まさにあっという間の出来事。

 彼からすれば、反射で動いただけなのだろう。


「あ……」


 ラウル自身、無意識のうちに刃物を女性に突き付けている事実に、驚いているようだ。

 碧い瞳に、驚愕と罪悪感の色がよぎり、しかしそれらはたちまち、煙るような情欲に塗り替えられていく。


 す……と、そのまま胸元に沈んだ刃先は、ごく静かに、お仕着せの布地を切り裂いた。


「ちょっと……冗談」


 一気に深刻化した事態に、アリアは声を震わせる。

 彼が少しでも力加減を誤れば、肌まで刻まれてしまう。

 その恐怖に、体が硬直した。


「や、やめて。落ち着いて」

「アリア・フォン・エルスター」


 裂かれた面積は、ほんのわずか。

 けれど、布きれと化したお仕着せの合間からは、金貨を下げるための細い鎖と、柔らかな白い肌が覗く。


『おいこの野郎! アリアを放せってんだ!』


 バルトがブレスを吐くべく構えたが、ラウルは軽く眉を潜めただけで、あっさりとトカゲ姿の精霊を振り払ってしまった。


「どいてくれ」


 彼にとっては、その程度の攻撃でしかないのだ。

 悲鳴を上げて飛んでいく精霊には一瞥も向けず、ラウルは短刀を脇に置くと、そっとアリアの頬を撫でた。

 ただし腕輪は、もう片方の手に握られたままだ。


「君がほしい」


 ラウルが低く、熱を孕んだ声で呟き、ゆっくりと顔を近付けてきた。


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