17.ルビーを巡る攻防(5)

 ラウルが低く、熱を孕んだ声で呟き、ゆっくりと顔を近付けてきた。


「やめ……っ」


 ばっと顔を背けた瞬間、胸元で揺れる鎖の感触。

 その先に繋がっている金貨の存在をふいに思い出し、アリアは弾かれたように目を見開いた。


 ――やめて。離して。


 震える、幼い女の声。


 ――離して……離せ。離せっつってんだろ!


 どれだけ荒々しく振る舞ってみせても、結局は無力な少女――自分。


 のしかかる体。

 耐えがたい重み。熱い息。

 無遠慮に、アリアの体を暴こうとする男。


 ――なに、悪いようには、、、、、、しない、、、。じっとしていなさい。


 地位の高さを理由に、弱者の命を握って弄ぶ、大人の男。


 ――仲間を、助けたいんだろう?


「やめて……」


 気付けば、アリアの唇からは、そんなか細い呟きが漏れていた。

 ああ、だめだ。


 泣いたりなんかしてはいけない。

 縋ってもいけない。


 そんなことをしては、相手を喜ばせるだけなのに。


「やめて……やめ、……離して」


 けれどこらえられない。

 鼻がつんとする。

 喉元まで熱い塊が込み上げ、全身が引き攣るように震えた。


「やだ……っ」


 じわ、と涙を浮かべた瞬間、ラウルが息を呑む。

 彼はぎらりと瞳を光らせたかと思うと、獣じみた素早さで、脇にあった短刀を取った。


「…………っ」


 ぎゅっと目を瞑る。


 ほら。

 弱った獲物なんて、狩られるだけ。


 ――ド……ッ!


 だが、服を切り裂くにしては、やけに鈍い音が響いたことに気付き、アリアは薄目を開けた。


「…………!?」


 思わず、ぎょっと肩を揺らす。

 そう、身じろぎできるようになっている。


 短刀は、ラウル自身の、左手の甲に刺さっていた。


「――……すまない」


 いつの間にか、ラウルが上体を起こしている。


 食いしばった歯の間から、まるで絞り出すようにして紡がれる声。


「本当に、すまない。詫びて済まされることでは、ないが」


 彼は白皙の美貌に汗を滲ませ、息を荒らげていた。


 再び彼の左手を見る。

 腕輪を握り締めていた左の拳を、短刀は深々と、躊躇いもなく貫いている。

 刃で塞がれていてなお、傷口からは血が滲みはじめ、それと同時に、腕輪を握り締める力が、徐々に緩んでいった。


「腕輪を……取ってくれないか……」


 自分自身で腕輪を手放すことは、やはりできないのだろう。

 衝動を堪えるかのように、彼の右手も、短刀を強く握り締めたままだった。


「そして、早く……逃げなさい」

「ちょ、っと……」


 解放されたアリアはと言えば、よろりと身を起こしたきり、動けなくなってしまった。


(なんで突然、正気に戻ったの?)


 一瞬、「乙女の涙」とやらが運よくルビーに落ちたのかと思ったが、いいや、アリアは目を潤ませたものの、涙をこぼしてなどいない。

 バルトのブレスだって、ラウルを掠めることさえできなかった。


 つまり彼は――ただ意志だけで、荒れ狂う大罪を抑え込もうとしているのだ。


「早く」

「でも、その……手は、大丈夫なの? し、止血とか」

「君のほうが大丈夫じゃないだろう!」


 途端に、吼えるように怒鳴りつけられて、アリアはびっくりした。

 この男の大声を聞くのは初めてだ。


「言っておくが、衝動はちっとも止んでいない! 次はなにをしでかすかわからない! いいから、早く……、…………っ」


 ぐっ、と一度深く俯いてから、血を吐くようにして彼は叫んだ。


「さっさと逃げろ!」


 声に打たれたように、アリアは急いで立ち上がった。


 いいや、途中で屈みなおし、ハンカチを使って素早く腕輪を引き抜く。

 力の入らなくなっていたラウルの指から、腕輪はすんなりともぎ取ることができた。


 そのまま、彼を置いて扉へと走る。

 この扉を抜けて、部屋を出るのだ。


 出る。

 出なくては。


(逃げなきゃ)


 だが、扉のノブに手を掛けたまま、アリアは動けなくなってしまった。


 頭が混乱する。


 だって、いったいこの世のどこに、手の甲を刺し貫いてまで、身持ちの悪い女を守ろうとする男がいるというのだろう。


 闇雲な衝動の原因は、すべて呪われた宝石にあるというのに、卑しい女に対して心から詫びる男が。

 身を挺してまで、泥棒を逃がす騎士が。


(せめて……傷を縛るとか、したほうがいいんじゃないの?)


 それともこういう場合は、刃を抜かないほうがよいのだったか。

 いいや、それは止血ができない場合の応急処置だ。

 とにかく、血を止めなくては。

 人を呼ぶとか。

 そうだ、医師。


 迷いがそのまま、足取りとなって表われる。

 じり、と踵を引いたままのアリアを見かねたか、バルトが床から叫んだ。


『おい、アリア。あいつの手から短刀を抜け。俺が血を止めてやる』

「え……?」

ブレスで焼き止めるんだよ。トカゲのしょぼしょぼブレスじゃ、加護なんてたかが知れてるが、血を止めるくらいはできる』


 だがそれは、刺し傷をさらに焼くということではないのか。


『普通の炎とブレスは違えよ! 俺を信じろ!』


 アリアは逡巡したが、結局はバルトの言い分を信じた。

 相変わらず床に蹲っているラウルの元へ、引き返す。


「なにを、している……早く」


 苦痛を堪えた表情のまま、彼が怪訝そうに顔を上げたところに、


「血を止める」


 端的に言い放ち、強引に短刀を引き抜いた。


「…………っ」


 ――ゴ……ッ!


 彼が息を詰めると同時に、バルトが拳に向かって炎を吐く。

 ただしその炎は、いつもと違って美しい青色をしており、拳全体を包み込んだかと思えば、たちまちの内に掻き消えた。


「これは……」


 目を瞬かせる男には答えず、踵を返す。


 そして、今度こそ、アリアは部屋を走り去った。









 走る。

 人払いのされた廊下を走り続ける。


 破れた胸元を、揺れる金貨のネックレスを押さえながら。


『アリア。ごめん。本当にごめんよ。役立たずなトカゲで。……怖い思いさせて』


 肩に乗ったバルトが、小さく呟いたとき、アリアは数拍遅れて、掠れた笑みを返した。


「なに言ってんだか」


 うまく口角は上がっているだろうか。

 いつも通り、瞳は強気に、周囲を睨みつけられているだろうか。


「ほんと男って、女の涙にころっと騙されるんだから」

『…………』


 舐めてもらっては困る。

 アリア・フォン・エルスターは、猫かぶりの性悪女なのだ。

 手段を選ばず、豪胆で、人を騙すことも躊躇わない。


「あんなの、嘘泣きに決まってんでしょ」


 ときどき弱いところを見せたとしたら、それはすべて、演技に決まっているのだから。


 アリアは走った。

 走りながら、不遜に鼻を鳴らした。






 しかし、縋るようにして金貨を握り締めた右手は、細かく震えていた。

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