14.ルビーを巡る攻防(2)
さて、それからラウルは、伯爵家の一員として諸々の後処理を済ませ、夜明けが来るのと同時に、王城に向かって馬を駆り出した。
考えるのは、もちろん彼女のことばかり。
こうしている間にも、アリア・フォン・エルスターは、次なる無茶をしでかそうとしているのかもしれない。
そう思うと、手綱を握る手にも力が籠もった。
「殿下」
「ああ、ラウル! もう来てくれたのか! 待っていたよ!」
ところが、殴り込みにかかる勢いで王子の寝室に踏み入ったラウルは――従兄という身分の乱用だ――、コンラートの意外な態度に面食らうことになった。
「……『待っていた』?」
なんと、昼近くまで寝ていることの多い彼が、着替えまで済ませて、そわそわと部屋を歩き回っていたのである。
「えっ、呼び出しに応じてくれたんじゃないの? でもそっか、さっき早馬を飛ばしたばかりだもんね。さすがに違うか。あれ、じゃあ君、こんな朝っぱらから何しに来たの?」
「『
「いやいい。それどころじゃないんだ」
わがまま気質の王子は、尋ねるだけ尋ねておいて、あっさりとラウルを遮る。
つかつかと近付いて、縋るように従兄の手を取った。
「
「……なんだと?」
予想もしなかった命令に、ラウルは長い睫毛を瞬かせる。
コンラートの母、グラティア王妃は、ラウルの叔母に当たる。
物静かながら判断力に富み、貞淑な妻としてシュトルツ王を支える、賢妃と名高い女性だ。
同時に、花を咲かせることを得意とする高い精霊力を持ち、ラウルの目を見ても恍惚としない、数少ない女性でもあった。
母親同士が仲がよいので、ラウルも礼儀正しい敬愛を覚えていたが、私室に呼び出されるほど親密な仲ではないはずだ。
「厄介な毒を盛られた」
だが、続いた言葉で、ようやく意図を理解する。
おそらく彼女は、精霊の特別な加護を要するような、呪いじみた毒を盛られたのだろう。
それとも、親族にしか見せられないような、醜悪な姿にさせられたか。
医師から病状が漏れてはまずいと判断した場合、口の固い身内に看護を任せるのは、王族ではままあることである。
「毒とは、どのような?」
「よくわからない」
ラウルは真剣な声で尋ねたが、コンラートからは頼りない答えが返ってきただけだった。
つい責めるような視線を送ると、彼の主は困惑も露わに肩を竦めた。
「それが、医師がきちんと説明してくれないんだ。『殿下には説明しにくい状態でございます』の一点張り。数日前から興奮状態で、異様な感じがするのは間違いないんだけどさ」
コンラートの話によれば、王妃はここ数日、すっかり落ち着きをなくし、食事の席でも最後まで座り通せず、そわそわと歩き回っていたらしい。
声が震え、息も乱れ、ひどく感情的であるそうだ。
「……あの、冷静で物静かな王妃陛下が?」
「そう。あの母上がだ」
王妃グラティアは、さすがラウルの血縁というべきか、冷静沈着にして品行方正。
冴え冴えとした月のような美貌を持ち、浮ついた振る舞いなど一切見せず、ただひたすら献身的に王に尽くす、そうした女性であった。
「最初、医師の見立ては、『気苦労から来る心の乱れ』だった。でも、症状があまりにひどくなってきて、やがて『興奮作用のあるなにかを盛られた』に変わった。今は、鎮静剤を処方しつつ、毒がなにかを探っている。でも、一つ重大な問題があってね」
王妃の「興奮状態」は日に日に悪化し、今では鎮静剤を飲ませようとすると、医師に襲いかかってくる、というのだ。
「襲うと言っても、相手は細身の女性。体格の大きな兵に押さえさせればいいのでは?」
「僕もそう言ったんだけど、医師が血相を変えて止めるんだ。血の気が多いやつは絶対だめって。まあたしかに、力加減を知らない兵が、うっかり応戦して陛下を傷付けても困る」
それに、と、コンラートも自身に言い聞かせるように、ラウルを見つめた。
「品行方正で知られる王妃陛下が、感情を乱して使用人に襲いかかるなんて、醜聞だ。おしゃべりなメイドや、噂好きの兵なんかには任せられない。だから、口が固くて、親族でもある君に、投薬をお願いしたいんだ。医師も君を推薦してた」
僕がしてもいいはずなんだけど、なぜか医師から強く止められてしまってね。
そう付け足されて、ラウルは頷いた。
「わかった」
投薬に、王妃の安全と社会的な命が懸かっているというなら、重大事だ。
「飲ませてくる。その後に、頼みたいことがあるのだが」
「なんでも言って。でもとりあえず、投薬を頼むよ。これが薬で、陛下の部屋は三階の南端。医師がすでに人払いしてあるけど、くれぐれも内密にね」
繊細な造りのガラス瓶に入った鎮静剤を渡され、ラウルは速やかに王妃の居室へ向かった。
人払いされているのは本当のようで、早朝ということもあり、廊下には誰もいない。
指定された部屋にたどり着くまで、メイドの一人とさえすれ違わなかった。
「王妃陛下。ラウル・フォン・ヴェッセルスです」
ノックして名乗り、待つ。
ややあってから、掠れた声で「入って……」と許可があったので、ラウルは無駄のない動きで入室を果たした。
「王妃陛下。薬をお持ちし――」
いつも通り、淡々と告げようとして、ふいに言葉を切る。
目の前の女性の、あまりに普段とかけ離れた姿に、驚いたからだった。
「ラウル……来てくれたのですね……」
シュトルツ王妃グラティアは、よろりとした足取りで、テーブルセットを回り込む。
甥とはいえ異性の若者の前だというのに、ネグリジェと、はだけたガウンをまとっただけだった。
「失礼。お召し替えの最中でしたか」
ラウルはすかさず、壁を向く。
興奮、というよりは、純粋な衝撃と、違和感ばかりが、彼の内に溢れかえった。
(……陛下は、いったいどうした?)
グラティアとラウルは、実の親子かと驚かれるほどに似通った容貌と気質の持ち主で、彼女は常に、清廉な美貌に相応しい、端然とした佇まいを維持していたはずだ。
冗談も好まず、表情も乏しく、冷ややかに見え、けれど真摯。
だというのに、今の彼女は、髪も裾も乱し、完全にとろけきった瞳で、ラウルを迎えたのだった。
「ああ……来た……来てくれた……」
壁に向かって硬直するラウルに、グラティアはふらりと近付いてくる。
合間合間に、荒々しい息が響き、それはまさしく、興奮した獣を思わせた。
(興奮して、襲いかかる? ――そういうことか)
医師がなぜ、王妃の息子であるコンラートに説明をためらったのか。
またなぜ、血の気の多い衛兵を遠ざけるよう主張したのか。
なぜ、患者の周囲を人払いさせたのか。疑問が一本の糸に繋がり、ラウルは顔を顰める。
(媚薬か)
真っ先に疑うのは、そこだろう。
だが、何日も効果が続く媚薬など、聞いたこともない。
医師が解毒できない媚薬もだ。
(とにかく、薬を飲ませねば)
医師がラウルを推薦したのは、その堅物ぶりを見込まれてのことだろう。
たしかに、しどけない王妃の姿を前にしても、彼の心はちらりとも動かない。
一方では、通常の男であれば不埒な振る舞いをしてしまいそうなほど、悩ましい姿なのだろうと理解できた。
グラティアは、後ろからラウルに腕を回し、熱い溜め息をこぼしながら、豊満な胸を背中に押し付けている。
「ねえ……ラウル。お願いがあるのです。あなたにしか頼めない」
「その前に、薬を飲んでいただきます」
溜め息とともに覚悟を決めると、ラウルは王妃を振り返った。
体をまさぐろうとする細い腕を、掴んで止める。
王妃の腕に嵌まった、赤い宝石の輝く腕輪を見下ろしながら、彼はこんなことを思った。
痴態を見せつけられても動揺しない自分にとっては、こんなの造作もない仕事だ。
なにしろ病とは異なり、毒は、
***
「ごきげんよう。朝からお勤めご苦労様です」
「これは、アリア・フォン・エルスター様! お早いご登城で」
アリアを乗せた馬車が王城の入口に着いたのは、まだ夜が明けきらぬ頃だった。
夏とはいえまだ肌寒さを覚えるほどの時間帯で、朝番の使用人を除けば、城へと続く大通りにも、左右に配置された庭園にも、ほとんど人影はない。
門兵の詰め所を通ると、暇を持て余していたらしい数人の青年が、相好を崩して話しかけてきた。
「本日はどのようなご用件で?」
「王城の庭園に咲く薔薇の朝露を集めて、恵まれない子どもたちに贈ろうと思いますの。王妃陛下の育てられた薔薇の露には、精霊のご加護が宿ると言われますので」
バスケットにかぶせていた布を持ち上げ、中にはガラス瓶とハンカチ、そして詩集しか入っていないことを見せると、門兵たちは「ははあ」と感心したような声を上げた。
「陛下のご加護深き薔薇の朝露を、自身で飲んで美貌を得ようというご令嬢は多いですが、恵まれない子どもたちに、とは。しかもこんな朝早く、ご令嬢自ら」
「アリア嬢は母性的な方なのですね。我々の間でも、あなたを慕う者は多いのですよ」
「ええ。あなたのような優しい方が恋人なら、どんなにか素敵だろうと」
「まあ、そんな……お恥ずかしいですわ」
褒め称えながら顔を寄せてくる男たちには、
楚々とした足取りで、背中に視線を感じなくなるまで庭園を進むと、アリアはどすの利いた声で男どもを罵った。
「母性ってのは我が子のためなら
『流れるような罵倒』
これには、バスケットに寝そべっていたバルトも、呆れ声を上げる。
『久々におまえの猫かぶりモードを見たけど、温度差に風邪引きそうだよ』
「風邪引きそうなのはこっちよ。朝からギラギラした男たちと会話しなきゃいけないなんて、寒気がするったら」
『なら、朝っぱらから城になんかこなけりゃいいだろ。ヴェッセルス家で一悶着起こした直後だってのに、昨日の今日で動き回ろうなんてよ』
眠いのか、それとも他の理由か、バルトは浮かない様子である。
文句を垂れるトカゲの鼻先を、アリアは人差し指でつんと突いた。
「なに言ってんの。厄介な男たちを制するためには、こっちが先手を打つしかないでしょ」
アリアの言う「厄介な男たち」のうち、一人はもちろん、昨夜攻防を演じたラウル・フォン・ヴェッセルスだ。そしてもう一人は、養父ヨーナスであった。
「まさか、ヨーナス様が強引に自首しに行こうとするとはね……」
薔薇を眺めつつ、アリアはげんなりとこめかみを押さえる。
昨夜、あちこちに擦り傷や引っ掻き傷をこさえて帰宅したアリアを見て、ヨーナスはなにを思ったか、「やっぱり僕、今すぐ登城して陛下にすべてをお話ししてくる!」と夜明け前に馬車を呼び立ててしまったのである。
「ちょっとやめてよ! これまでのあたしの努力を、全部水の泡にする気!?」
「違う! 君の命が泡と化す前に、本来すべきことだったことをするんだ!」
アリアはびっくりして制止したが、珍しくヨーナスは頑固で、半泣きになりながら身支度を始めた。
「もう黙ってられないよ! 国宝の破損がなんだい。たかが業務上過失じゃないか! 宝石を回収するために盗難に手を染めて、そのたびに君が傷付いて帰ってくるほうがよっぽど問題だ! 僕はもう、絶対報告に上がるよ! 陛下ならわかってくれる!」
「この馬鹿オブ馬鹿! 公正な裁きなんてあるわけないでしょ!? 陛下は賢君でも、取り調べは功績に飢えた尋問官がすんの。横領、収賄、脱税……手頃な罪の犯人役を、ここぞとばかりに押し付けられるわよ。押しに弱いヨーナス様が、拷問を受けながらちゃんと否定できるわけ!?」
「で、できる!」
「嘘つかない!」
途中からすっかり親子関係が逆転してしまったようだが、アリアが叱り飛ばしても、ヨーナスは拳を握り締めたまま譲らなかった。
ちょうど屋敷のポーチにやってきた馬車に突進しようとしたので、業を煮やしたアリアは、横から彼を突き飛ばし、強引に馬車へと乗り込んだのである。
そのまま、盗んだ馬車で王城へと走りだし、今に至るのだった。
「こんなこともあろうかと、変装グッズをまとめておいてよかったわ」
『おまえ、ほんとそういうところ、抜かりないよな……』
膨らんだドレスの内側に隠した装備を、布越しに撫でて確認するアリアに、バルトがぼそりと呟く。
そう、ヨーナスが半泣きで身支度を進めている間、アリアもさりげなく、ホールに常備してある荷物を掴んでいたのである。
バスケットの中には、令嬢感演出用のしゃらくさい詩集と、先日クレーベ家のから拝借した香水瓶、そしてハンカチしか入っていなくてどうしようかと思ったが、それらしい言い訳を思いつけてよかった。
もっとも、アリアが孤児院に朝露を贈るつもりなどないが。
孤児院への贈り物は現金に限る。
アリアはそれを熟知していたし、すでに毎月実践済みだった。
「さーて、これから庭園に籠もるふりをして、茂みで着替えて、城に忍び込むとするか。こっそりくすねておいた下女のお仕着せシリーズのうち、どれで行くか……」
『今回はことさら行き当たりばったりだな。つーか、今さらだけど、城でなにすんだ?』
胸に下げた金貨のネックレスを弄びながら作戦を練っていると、バルトがひょいと地面に飛び降りる。
『情報収集? それとも仕込み? 貴族の屋敷以上に、王城の警備は厳重だろ。あんまり迂闊なことはしないほうがいいと思うけどな。もっと慎重にすべきっていうか』
「なに悠長なこと言ってんだか」
昨夜から、バルトはなんだか煮え切らない態度だ。
裾に隠した複数のお仕着せの中から、掃除女用のそれを選び取ると、アリアはけろりと言い放った。
「準備どころか、今日、ルビーを回収すんのよ」
『は!?』
「目録のおかげで、残る三つの宝石のうち、二つはルビーとダイヤだと判明した。ダイヤは貴族全員がアホみたいに身につけてるから、誰のが一番上等かはわかんないけど、最高級のルビーの持ち主ならわかる。この国で一番の有名人が、好んで身につけているからね」
『有名人……?』
ぽかんと復唱したバルトに、アリアは「そう」と重々しく頷く。
「この国で最も高貴な女性。薔薇を愛し、夫から贈られた薔薇色のルビーを好んで身につけている女性。物静かで、真面目で、でもここ数日、ずっと茶会を中止していると噂の――」
アリアは、ふと金貨から手を離すと、琥珀色の目を細めて城を振り返った。
「シュトルツ王妃、グラティア」
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