12.目録を巡る攻防(3)
「――――!」
声にならない叫びを漏らして、ラウルが大きく腕を伸ばす。
むなしく宙をかすった男の腕を逃れ、アリアの体は下に下にと落下を続けた。
ただし、腰と尖塔のアーチにくくりつけた黒い縄を、しっかり握り締めながらだが。
(いったぁ!)
縄が長さの限界まで伸びると、腰がガクンッと叩きつけられる心地がする。
握り締めることでだいぶ勢いを殺したつもりだったが、不十分だった。
数年前より体重が増えているのだから、仕方がない。
縄を最後まで伸ばしきって、今アリアがいるのは地上三階ほどの高さ。
短く息を吐いて覚悟を決めると、擦れた掌の痛みを押し殺し、懐から取り出した短刀で、腰の結び目あたりを断ち切った。
――ザンッ!
アリアの体は再び投げ出され、今度は尖塔に沿って配置されていた茂みへと叩きつけられる。
「クソほど目の粗いクッションだわ……!」
だが、おかげで助かった。
綿をたくさん詰めた扮装だったのもよかった。
ごそ、と茂みを抜け出し、尖塔を振り仰いでみれば、最上階から身を乗り出している男と目が合う。
その顔は、遠目にも、愕然としているように見えた。
あの無表情な男が、人間らしい感情を露わにする瞬間というのは、なかなか見応えがある。
アリアは小首を傾げ、にやりと挑発の笑みを返してやった。
「落ちたぞー!」
「泥棒は茂みに落ちた!」
「追え! 地上に戻るんだ!」
ラウルに遅れて最上階にたどり着いたらしい衛兵の幾人が叫ぶが、上を目指して走り続けていた男たちが、すぐに意識を切り替えて、地上に降りられるはずもない。
最上階にいるラウルならば、なおのこと。
「おい、止まるな!」
「馬鹿、降りるんだ、どけ!」
「え? 泥棒は最上階にいるんだろ?」
再び、狭い空間内でもみ合いはじめた男たちをよそに、アリアは悠々と屋敷の塀をすり抜けた。
途中で綿を抜いて体型を変え、務めを終えた掃除女の態で、堂々と夜の通りを歩く。
お貴族様の馬車が走る大通りはさすがに無理でも、一つ奥に入った小道では、帰宅する下女の姿などざらである。
もっとも、最近は治安が悪化しているのか、路地裏の喧嘩が絶えないので、気を付けなくてはならないが。
「いったー。はあ、あたしもだいぶ焼きが回ったもんだわ……」
痛む腰に擦れた掌、ひっかき傷をこさえた腕をさすっていると、ようやく追いついてきたバルトが、ひょいと肩に乗ってきた。
「あ、バルト、あんたもちゃんと抜け出してきたのね。偉い偉い」
『…………』
「なに? 置いてかれたって怒ってんの? 仕方ないでしょ、切羽詰まってたんだから。トカゲのあんたは、あたしより逃走に有利なんだから、そのくらい目を
珍しく沈黙するバルトに、アリアは肩を竦める。
その振動でゆらりと尻尾を揺らしたバルトのことを、彼女は無意識に撫でた。
「最後の一つがわからなかったけど、ダイヤとルビーって情報が得られたのは、成果よね。でも問題は、やっぱり、ラウル・フォン・ヴェッセルス。あーあ、完全にバレちゃった」
『…………』
「あいつ、逮捕状を出してくると思う? それとも現行犯での捕縛にこだわると思う? あたし
としては、ぜひ後者に賭けたいんだけど」
逮捕状が出されても、しらばっくれてやるし。
そのためには、ひとまずこの夜、アリア・フォン・エルスターは劇場にいたと誰かに証言させて、あとは、聖騎士の動向を掴む新たな方策を編み出して――。
ぶつぶつと呟いていたアリアだったが、相棒から一向に相槌が返ってこないで、とうとうその場に足を止めた。
「バルト? なによ、返事くらいしてよね」
『ことここに及んで、呑気に二択問題に答えてられるかよ』
「は?」
唸るような声に、きょとんとする。
すると、バルトはくわっと口を開き、アリアを怒鳴りつけた。
『おまえ、なんて無茶すんだよ!』
「…………」
アリアは最初目を見開き、やがて意味を呑み込むと、徐々に眉を寄せていった。
「はあ?」
『おまえ、風の精霊でもなんでもない、人間なんだぞ! しかも、女だぞ! 若いし、小せえし……そんなやつが、尖塔の天辺から飛び降りるなんて、どんな無茶だよ! アホか!?』
「いや、見事逃げおおせて怒鳴られる意味がわかんないんだけど」
バルトならてっきり、「やったなアリア!」とでも快哉を叫ぶものと思っていたのに。
苛立ちと困惑を半々に、顔を顰めていると、バルトはますます激したように尻尾を振った。
『あの聖騎士は、おまえに手を差し伸べようとしてたじゃねえか! あいつなら拷問だってしなそうだった。あそこは、あの男に頼って、真相を打ち明けりゃよかったじゃねえか』
「いやいや、あんたが盗めって唆したくせに、自首しろってどういうことよ。それも、ライバルのヴェッセルス家に頼る? んなことしたら、ヨーナス様の人生が一瞬で終わっちゃうでしょ」
『尖塔から飛び降りなんかしたら、おまえの人生が終わるっての!』
「なに、急に。これまでの盗みでも、危険なことなんてたくさんしてきたでしょ」
適当に鼻面を撫でようとしたら、バルトはそれを
『いいや違うね! これまでは、扮装や侵入がせいぜいだった。ちゃんと安全に、おまえは宝石を回収してた。でも、あいつがあんまりに手強いから、最近のおまえは傷をこさえたり、飛び降りたり、無茶ばっかだ』
「たかが飛び降りに、そこまで過剰に反応することないってば」
『過剰じゃねえよ! 普通に死ぬぞ!』
バルトは、アリアの肩に爪を立てる勢いで声を荒らげた。
『そりゃたしかに、頼んだのは俺だよ。でもおまえ、俺の想像以上に無茶しすぎなんだよ。目の前で、精霊でもないおまえが空に消えていったとき、俺の肝がどれだけ冷えたかわかるか!?』
「爬虫類の内臓の温度を聞かれても……」
心配、されているのだろう。
相棒のトカゲから差し出された友情のようななにかを、どう受け止めるべきか悩んだが、それ以上にアリアは、困惑を隠せなかった。
「えー……? 飛び降りって、そんなにおかしい?」
『あたりまえだろ!』
「でも、孤児ならみんなやってるのに?」
素朴な疑問を口にすると、バルトが一瞬、言葉を失う。
『……え?』
「ほら、この国って精霊信仰がさかんでしょ。あちこちに教会や、尖塔があるじゃない。その高ぁい天井や屋根の清掃って、誰がしてると思う?」
事情を飲み込めずにいるバルトのために、アリアは説明してやった。
数年前までの下町での暮らしが思い起こされ、懐かしさが込み上げた。
「孤児がやんのよ。痩せてて軽いし、万が一落下して死んでも、誰も文句を言わないから。相場は大工の十分の一。装備は縄一本だけ。危険手当で、銀貨が一枚おまけにつく」
『…………』
バルトの白い鱗が、月光の加減か青ざめて見えたが、アリアはそれに気付かなかった。
「それに、落ちたら落ちたで、孤児でも教会の敷地内に埋葬してもらえんのよ。墓か、見舞金の金貨を選べるの。すごいでしょ? だから、人気だった。あたしもよくやったなあ」
天の教えを、弱者に降り注げるよう、高く高く造られた尖塔。
けれどその崇高な精神を表現するために、教会は弱者を利用するのだ。
がりがりに痩せた孤児。身持ちの悪い女。病人。
目先の銀貨に、飛びつかずには生きていけない者たちを。
もっとも、下町の住人が搾取されるだけで終わるわけもない。
屋根掃除は割のいい仕事だったし、仲間とグルになって、「あなたの聖堂の屋根、汚れてますよ」と詐欺まがいの仕事の取り方などもして、それなりに懐を潤わせてもらった。
だから、孤児が危険な仕事を任されることについて、アリアは特別な感情を抱いていない。
聖職者は大嫌いだが、それはまた別の理由だ。
(ああでも、あの人は、屋根掃除に絶対反対だったっけ)
チャリ、と金貨のネックレスを揺らしながら、アリアはふと思い出す。
院長ベルタは、孤児に銀貨一枚で命を投げ出させる屋根掃除の仕事を、大層嫌っていた。
なによりも清潔を愛し、そして誰よりも信心深かったのに、子どもたちに「聖堂の屋根なんて金輪際磨かなくていい」と言い放ち、高い正規料金を払って大工に掃除をさせていたのだ。
おかげで、彼女が院長に就任してからは、アリアたちはすっかり、屋根掃除から離れてしまっていた。
いつの間にか、縄の食い込む感触を忘れてしまっていた腰をさすり、アリアはくすぐったいような、気まずいような、複雑な心境を噛みしめた。
きれい事、と周囲から笑われようと、絶対に信念を貫き通した、彼女。
アリアは古ぼけた金貨を指先で撫でてから、バルトの鼻先をつんとつついた。
「ま、そんなわけだから、飛び降りくらいで大騒ぎしないでよ。世の中には、その程度の危険なんて掃いて捨てるほどあんの」
『…………』
「だいたいあんただって、王冠を元の姿に戻せなきゃ、消されちゃうんでしょ? なのに、危ないから自首しろなんて。命が懸かってんのに、このくらいで怖じ気づいてどうすんの」
そう文句を垂れると、バルトは、小さな声で呟いた。
『だって結局、俺じゃなくて、おまえの命が懸かってんじゃねえか……』
「えっ、聞こえない。いやこれはフリじゃなく。なんて言った?」
だが、肩口に伏せての独白は、布に吸われてくぐもってしまい、アリアの耳では聞き取ることができなかった。
『…………』
「なによ、辛気くさいトカゲね。ほらほら、さっさと帰って次の戦略を練るよ。あの男がどう出るかわからない以上、一層ペースを上げてかなきゃ」
それでも押し黙ったままの相棒に、アリアは軽く嘆息し、こう請け負ってみせる。
「そんな心配しないでよ。うまくやるわ。あたしは死なないし――絶対、捕まらない」
ごしごしと尻尾のあたりを擦ると、バルトは肩に体ぜんぶを埋め、頷いた。
『……おう』
まるで月影に溶けてしまいそうな、小さな声だった。
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