11.目録を巡る攻防(2)

(な、なな、なんで部屋にいんのおおおっ!)


 アリアはどっと冷や汗を浮かべた。

 劇場にいるはずではなかったのか。


 だが、長いマントを翻したいつもの装いとは異なり、彼は室内用と思しき簡素なシャツと、黒いパンツとショートブーツをまとっただけの姿で、この場にいるのだった。


 ラフなスタイルであってさえ、一幅の絵画のように完成された印象を与える美貌に、もはや理不尽な怒りを覚える。


『ご、ごめん! 今でも俺の気配はまだ劇場にあるんだけど……! な、なんでかな!?』


 バルトがおろおろしながら叫んでいる。

 一人だけちゃっかり柱の陰に隠れているのが憎たらしい。


『瞬間的に移動したとか。ハンカチは従者に持たせていたとか。どっちだと思う!?』


(知らねえよ、ことここに至って呑気に二択クイズに答える余裕なんてあるわけねえわ脳内に花咲き乱れてんのか!)


 思わず内心で口汚くこき下ろしてしまうが、わかっている、罵倒ばとうは自身にも等しく向けられるべきなのだ。


 動揺を奥歯で噛み殺し、アリアは素早く、いいや、「おどおどと」その場に跪いた。


「も、申し訳ごぜえません、若様のご本を落としてしまい――」

「今日は」


 だが、ラウルは意外な行動を取った。

 掃除女に扮したアリアのすぐ傍に、自らも跪いたのだ。


「西部の訛りにしたのか」


 そして彼は、優雅に、けれど恐るべき速さで腕を伸ばし、アリアの口布を強引に引き下げた。


「――――!」

「君は卑怯だ」


 咄嗟に突き飛ばそうとしたアリアを、逆に本棚に押し付けるようにして囲い込む。

 至近距離に迫ったアイスブルーの瞳は、苛烈な怒りを湛えていた。


「人の誠意に付け込んだ」


 じり、と尻で下がろうとするが、すぐに棚にぶつかってしまい、後がない。

 呼吸が浅くなり、脳内に言葉が溢れ、指先は震えだした。


 この男の瞳というのは、正面から覗き込むだけで、体の自由さえ奪うというのか。


「精霊力を込めた刺繍を持たせて、私が屋敷を離れるのを把握しようとした? だが残念、ハンカチは小姓に持たせた。今頃劇場で待ちぼうけている。トカゲの姿をした精霊も、きちんと注意を払えば見える……ああ、そこにいるな」


 ちら、と彼が視線を向けただけで、隠れたバルトが『ひえっ!』と悲鳴を上げるのがわかる。アリアは歯噛みした。


 バルトの精霊力においは劇場を示していたし、ヴェッセルス家の誰もが「ラウル様は外出なさった」と認識していた。

 だから安心していたのに、まさか裏を掻かれるなんて。


 思考を読み取ったように、ラウルはわずかに目を伏せた。


「君を油断させるため、家人まで騙して外出したふりをした。……窓から自宅に潜り込んだのなんて、初めてだ」


 まったくそんな場合ではなかったが、アリアは彼の発言に驚いた。


(嘘をつくのも、家を玄関以外から出入りするのも初めて? この歳で?)


 だとしたら、なんとまあ品行方正な人間なのだろう。

 ぐれていたアリアなんて、十歳ですでに無断外泊なんてざらだったし、十五歳の頃には盗んだ馬車を乗り回してぶいぶい言わせていたのに。


(とにかく、逃げなきゃ……)


 どこかに、退路は。

 わずかに瞳を動かした途端、ラウルはアリアの頬を掴み、強引に視線を合わせた。


「小細工さえなければ、私が返しに行こうと思っていたのに」


 無表情で、冷え冷えとした声。

 だが、ぎらりと光るような瞳が、色合いの冷たさを裏切り、熱い感情を滲ませている。


 アリアは火傷しそうな心地を覚えながら、必死に頭を働かせた。


「申し訳……ございません……」


 今さら洗濯女のふりをしつづけることはできないだろう。

 ならばアリア・フォン・エルスターとして、彼にすがるのだ。

 善良で無力、騎士ならば傷付けるのをつい躊躇ってしまう、可憐な女として。


「事情が、あるのです……。こうしなくては……わたくしは、殺されてしまう……」


 黒幕の「烏」に利用されている哀れな女スパイ。

 そんな路線はどうだろう。


 脅されている、本当はこんなことをしたくない、黒幕に引き合わせるから見逃してくれ、とか。


「どうか、お助けください……」


 涙目で弱々しく訴えると、アイスブルーの瞳に、ほんの少し、躊躇ためらいがにじんだ。


(よし! 隙あり――)


 ここで素早く頭突きを。


 だが、手慣れた下町戦法を繰り出そうとアリアがわずかに顎を引いた瞬間、彼は即座に表情を変え、だん! と本棚に強く体を叩きつけた。


「い……っ!」

「わかってきた」


 声が一層低くなっている。


「君が人の目を見つめるときは、騙そうとしているときだ」

 

 ああ、だめだ。

 騎士に素人の反撃が通用するはずもなかったのだ。

 敵意を一瞬で気取られてしまった。


 両手をひとまとめにされ、頭上の本棚に押し付けられる。

 掴まれた手首からは、ぐ、と鈍い音が立った。


「い、た……」

「逃げられると思うな」

「痛い、ったら……」


 圧倒される。

 迫力に呑まれる。

 このままでは彼に、捕まってしまう。


 ――捕まる。


 そう思ったとき、不意に心の奥底から苛烈な感情が込み上げてきて、アリアはぎらりと瞳を光らせた。


「体格差を……っ、考えろこのぼけ!」

「なに?」

「痛いっつてんでしょうが! 今すんごい痛い音した! 骨が折れる複雑骨折しちゃう! か弱い淑女をそんな全力で押さえつける必要なんてないでしょ力加減って言葉を知れ!」


 一気にまくし立てると、相手は反射的にといった様子で力を緩めたので、アリアはすかさず彼の胸板を突き飛ばした。


「胸板かった! 突き飛ばしただけでこっちが痛いわ! どうしてくれんの!?」

「いや……」

「どこもかしこも痛い! 馬鹿力のあんたのせいよ!」


 完全なる難癖なんくせだが、そうした難癖を付けられるのは、彼にとって初めての経験であるらしい。

 咄嗟に返す言葉が見つからなかったらしく、硬直している。


「ひどいわ」


 アリアは、袖をするりとまくり上げ、ほっそりとした己の手首をラウルに晒した。


「跡がくっきり。『暴行』って題名を付けて枠に入れて展示したくなるくらいの加虐ぶり」


 肌の白いアリアは、ちょっとこするだけですぐ赤くなってしまうのだ。

 実態よりかなり痛々しく見えることを承知のうえで、彼女はそれを見せつけた。


「怖かった……」


 それから、自らの肩をかき抱き、弱々しさを強調してみせる。

 被害者面この上ない振る舞いだが、騎士道精神を骨の髄まで叩き込まれているようであるラウルには、一番これが効くのではないかと踏んでの行為だった。


「…………」


 果たして、聖騎士ラウルは、神妙な面持ちで、半歩だけ距離を取った。


「正直に事情を話すなら、苦痛は与えない」


 どうやら、身体的な拘束はやめることにしたようである。

 彼は、白皙の美貌に真剣な表情を浮かべ、跪いたままこちらを見つめた。


「アリア・フォン・エルスター。君が宝石の盗難に関与していることは明らかだ。だが今、アメシストに目もくれなかったところを見るに、金儲けが目的とも思えない。ヒルトマン家のエメラルドに至っては、無傷で返却していたな。……なにが目的だ」

「…………」


 想像以上に丁重な態度に、アリアのほうが面食らった。

 正体がばれたなら、なんだかんだ言って、即座に捕縛されると思ったのに。


「聖騎士の私には、現行犯の処遇を決定する裁量が与えられている。この場には私しかいない。もし君が複雑な事情を抱えているなら、すべてを誠実に告げてほしい」


 通った鼻筋に、美しい口元。

 完璧な造形の顔立ちは、たしかに冷ややかだが、実に清廉だ。


 まさに、正義の執行者に相応しい、佇まい。


「脅されているような口ぶりだったな。それは事実か? ならば、真実を」


 嘘八百の主張も、一度は受け入れてみせる男。

 泥棒だとわかっている相手にも事情を聞こうとする彼は、寛容と評価されるべきだろう。


「精霊の定めたシュトルツ王国の法は、弱き者に必ず手を差し伸べる」

「…………」


 だが、その言葉を聞いたとき、アリアの脳裏に浮かんだのは、凍える雪空の記憶と、そして猛る炎のような怒りだった。


「……法は、弱き者を、、、、守る、、?」


 いつの間にかうつむいていたアリアに向かって、ラウルがすっと手を差し伸べる。


「ああ。君が誠意を見せるなら、けっして、悪いようにはしない」

「――はっ。冗談!」


 しかし、アリアはそれを、音がする鋭さでねのけた。


「ねえ。あんた、今それで、あたしに手を差し伸べたつもりなんでしょう」


 怒りが溢れる。

 一人称を「わたくし」に取り繕うこともできない。


 無意識に金貨のネックレスを握り締めた手は、関節が白く浮き出るほど。

 体が床からわずかに浮くような、それほど激しい感情に突き動かされたまま、アリアは告げた。


「『悪いようにはしない』? それでこっちが安堵するって? まさか! それって、『おまえの命は俺のさじ加減でどうとでもできる』って意味じゃない。命握られて喜ぶ人間がどこにいんのよ!」


 えるように叫ぶと、ラウルはわずかに瞠目する。

 その隙を捉え、アリアは彼の両目に向かって素早く目録を叩きつけた。


「――!」


 もちろん、直前で阻まれる。

 だが、彼の意識が逸れたのを利用し、アリアは今度こそ、全力で頭突きをかました。


「…………っ」

「アホほど痛い!」


 思わず涙声の罵倒が出る。


 こいつの頭蓋の硬さときたら、下町一の頭突き能力を誇ったアリアを凌駕するほどだ。

 きっと、お堅い中身がそのまま頭蓋の硬さとなって表われたのだろう。


「あばよ!」

「こら、君――!」


 捨て台詞を吐いて、脱兎の勢いでドアに向かうと、すぐに態勢を立て直したラウルが恐ろしい速さで腕を伸ばしてきた。


「部屋を出たら、衛兵が――」

「知るか!」


 なぜだか彼は、アリアがほかの兵に囚われることを懸念してくれているらしい。

 だがアリアからすれば、ラウル・フォン・ヴェッセルスに追いかけられる厄介さに比べれば、屋敷中の衛兵に追われることなんて屁でもなかった。


 扉の前でぎょっとしている衛兵を、体当たりの一撃で沈め、速やかに廊下を駆け抜ける。

 女使用人の履くぼろぼろの布靴は、こうしたとき、音もなく走れて便利だ。


『ア、アリア! どうしよう! 衛兵たちがめっちゃ追いかけてくる!』

「うろたえない! 聖騎士以外はみんな雑魚!」


 現に、小柄なぶん身軽で、すばしっこいアリアに、重装備の男たちは誰も追いつけないでいる。

 が、数秒遅れて部屋を出たはずのラウルは、ぐんぐんと衛兵たちを抜き、すぐ後ろにまで迫っている。

 本当に厄介な男だ。


「こっち!」


 だが、逃走経路の確保は泥棒の基本。


 アリアは、客間の一室に滑り込んで内鍵を掛けると、ラウルたちが扉をこじ開けようとしている間に、窓を破って外に出た。

 ここが一階だった奇跡に感謝だ。


「若様、こちらです! 尖塔に逃げ込もうとしているのかと!」


 アリアが庭に下りるとほぼ同時に、扉が突破される。

 衛兵たちの叫びを背後に聞きながら、アリアは敷地内に隣接する小教会、その高くそびえたつ塔の入り口に突っ込み、らせん階段を駆け上がりはじめた。


『馬鹿! アリア、高い所に逃げ込んでどうすんだ! みんな追いかけてきてるぞ!』


 なんとか肩に飛び乗ったバルトは、焦ったように叫ぶ。


『屋敷中の衛兵が、尖塔に集まりはじめてる! これじゃ袋のねずみだ!』

「黙ってて!」


 息を荒げながら、アリアはひたすら階段を駆け上った。

 幸い、この狭いらせん階段では、体重のある男たちより、小さくて身軽なアリアのほうが、よほど早く動ける。


 屈強な男たちは案の定、狭い階段内で押し合いへし合いし、時間を取られているようだった。

 どけ、だとか、詰まるんじゃねえ、といった怒号が階下から聞こえる。


「待てぇ! 泥棒め!」


 ただ、抜け目ない小柄な衛兵が、集団を飛び出て肩を掴んできたので、アリアはひょいと身をよじり、ついでにちょっとだけ体を押してみた。


「わあああ!」


 体勢をくずした衛兵は、見事に階段を転がり落ちる。

 後ろにいた仲間にぶつかって止まったが、仲間がぐらつくとその後ろも慌てて立ち止まり、と、男たちはたちまち連鎖的に足を止める羽目になった。


「うわ、馬鹿! 急に止まるなよ!」

「押すな押すな押すな!」

「痛ぇ!」


 阿鼻叫喚の大惨事である。

 不幸な事件だった、とアリアは神妙に頷き、すぐにまた最上階を目指した。


『足止めには都合がいいけど……これじゃ逃げ場がねえぞ。みんな、尖塔の上に集まってる! どうすんだよ!』

「誰一人残らず、集まった?」


 はあはあと肩を上下させながら、アリアは尋ねた。


「足音か気配で探って、バルト。最後の一人は、今何階にいる?」


 男爵の地位から出世を重ねたヴェッセルス家の信仰心は厚いようで、私人が構えるものとしては、教会はとても立派だった。

 尖塔も非常に高く、地上十階分ほどはある。


 とうとうその最上階にたどり着くと、アリアは一度だけ目を閉じた。


 アーチ型の窓から覗く地上は、目眩を覚えるほど遠い。

 身を乗り出しただけで、ふらりと宙の一点に吸い込まれてしまいそうな高さ。


(全然、平気)


 夜風を浴びながら、アリアは己に言い聞かせた。


 こんなの、慣れっこ、、、、なのだから。


 お仕着せの裾に隠していたものを取り出し、素早く「準備」を進めた。


『おい、なにしてんだよ』

「いいから、バルト。最後の一人は、今何階?」

『え? えっと……たぶん、四階くらい。七階あたりで詰まって、団子になってる』

「そう」


 アリアは一つ頷いた。

 四階――まだ少し足りない、、、、

 できれば、あともう一階くらいは上ってきてほしいものだ。


『なあ、アリア、まさかとは思うけど』

「なにをするつもりだ」


 バルトがびくびくしながら尋ねたのと、らせん階段から冴え冴えとした声が掛かったのは、同時のことだった。


「…………」


 振り向けば、そこには、息一つ乱さず、長身の男が立っていた。


 ラウル・フォン・ヴェッセルス。

 あれだけ足場を悪くしてやったのに、追いかけてきたのだ。


「使用人を踏みつけて階段を上ってきたの? 最低」

「なにをするつもりだと聞いている」


 アリアの非難を遮るように、ラウルが一歩踏み出す。

 月光に照らされた秀麗な美貌には、気のせいでなければ、焦りの表情が浮かんでいるようだった。


「早まるな」

「怖い顔して、どうしたの?」


 ほんのわずか、声を掠れさせた男をよそに、アリアは勝気な笑みを浮かべ、傍らのバルトに尋ねた。


「今、最後尾は何階?」

『へ!? ご、五階……』


 これでばっちりだ。

 ゆっくりと振り返り、ラウルと目を合わせる。


 夜風がふわりと、アリアの後れ毛を攫っていった。


「あたしがここから飛び降りるんじゃないかって? ……その通りよ、、、、、


 そうして、しっかり彼の瞳を見つめたまま――背後の手すりを飛び越えた!

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