9.ハンカチを巡る攻防(3)
「待ちなさい」
背後から掛かった声に、アリアは密かに息を吐き出した。
(かかった)
胸が高鳴る。
けれどそれをおくびにも出さず、彼女は困惑の表情を浮かべて振り返った。
「はい……?」
「そのハンカチを、貸してくれないか」
「え?」
軽く息を詰めてみせると、ラウルは少し言葉を選び、付け足した。
「受け取りはしない。だが、洗って返す」
「まあ。そんなお手間を取らせるわけにはまいりませんわ」
「これではかえって、借りを作るようで嫌なんだ」
軽く眉を寄せるラウルに、アリアは内心で「でしょうね」と頷く。
だって、そう仕向けたのだから。
(……思いの外、ちょろいわね)
手本のような引っ掛かり方をしたラウルを少々意外に思い、すぐに理由に気付く。
そうか。
彼は、媚びられるのには慣れていても、駆け引きには慣れていないのだ。
これまでずっと、佇んでいるだけで女は寄ってきたし、顔を背けるだけで去って行ったから。
(おやまあ)
込み上げる笑いを押し殺すのに苦労する。
なんだ。とびきり美しく聡明で強いけれど――中身は純情なお坊ちゃんではないか。
「ですから、わたくしには、あなた様に貸しを作るつもりなど」
「いいから」
ラウルが、その完璧な形の眉をわずかに寄せている。
「貸しなさい」
無表情で、口調も淡々としているが、差し出された大きな手に、わずかなぎこちなさが滲んでいた。彼は今、不慣れなことをしている。
(ふふ)
満足と、愉悦と。
心の奥底から、小さな泡のような喜びがふつふつと湧いてくる。
(案外、お可愛らしいこと)
アリアはそれからもう一巡、辞退と説得を繰り返し、相手の焦れったさが最高潮に達した頃に、とうとうハンカチを手渡した。
「わたくし、しばらく城には参りませんの。明日の夜、王都劇場になら向かうのですが……無理にご返却なさろうとしなくても結構ですわ」
「明日の夜だな?」
「ええ。観劇に」
彼は、そっけなくされることに慣れていない。だから、逃げれば逃げるほど追ってくる。
返却しなくていいと言えば、彼は何がなんでも、劇場まで返却しにやってくるだろう。
――その隙に、アリアがヴェッセルス家に忍び込むつもりだとも知らないで。
「長々とお話をしてしまい、申し訳ございません。それでは今度こそ、ごきげんよう」
彼がこちらの背中を見つめているのを意識しながら、アリアは優雅にその場を去った。
『おうおう、やるな、アリア! この性悪女』
「えっごめん、風が強くて聞こえなーい」
彼はラウルの巨大な精霊力に当てられることを恐れて、視界に入らぬ茂みに潜んでいたのだ。
けれどしっかり、聞き耳は立てていたらしい。
意地悪な口調でアリアのことを
『完全に掌で転がしてたじゃねえか。はーっ、きっとあの男、口ではなんと言おうと、あのハンカチをめちゃくちゃきれいに洗い上げるぞ』
「洗うのはどうせ洗濯女だけどね」
『しかしまあ、おまえ、いいこと言うよな。修道女みたいだった。ほら、あの、大切なものは盗まれないってやつ』
バルトは感心しきりと言った様子で、ぴちぴちと尻尾を肩にぶつけてきた。
『あの男も、あの言葉で見る目が変わった感じだもんな。心に響いたっていうか。あれってアリアの持論? ならおまえ、実は心がきれいなんだな。さすが俺と話せるだけある』
日頃は悪ぶっていても、やはり精霊として、清廉な言葉に触れるのは心地よいのだろう。
黒い瞳をきらきらと輝かせる相棒から、アリアは「まさか」と笑って目を逸らした。
「あんなの、口から出任せに決まってんでしょ。……本心のわけないじゃない。どうしてもハンカチを受け取らせたかったから、関心を惹くために、それっぽいことを言っただけ」
『なんだよー! 俺の感動返せよな。まじで性格悪いな、もう』
アリアは、胸に下げた金貨を無意識に握り締めながら、肩を竦めた。
「今さら気付いたの?」
『まあでも、おかげで、やつに俺の精霊力をなすりつけることができた。これで、やつの居場所がいつでもわかるぜ』
「それはなにより」
そう。
この接触には複数の目的があった。
一つは、アリア・フォン・エルスターが、平凡で無力な少女だと演出すること。
一つは、ハンカチを返すように仕向けて、明日の夜、ラウル・フォン・ヴェッセルスを屋敷から引き離すこと。
そしてもう一つは、彼にバルトの精霊力を付与して、その居場所を把握することだ。
「目敏い猫には、鈴の首輪を――ってね」
精霊力とは、匂いのようなものらしい。長期間共にいれば、
その性質を利用して、アリアはバルトの精霊力がたっぷり籠もった糸を使い、ハンカチに刺繍したのだ。
つまり、彼がハンカチを持ち歩いている限り、バルトは自身の精霊力を手掛かりに、彼の居所を探ることができる。
不都合な遭遇を回避できるというわけだ。
ラウルに気取られない程度の、弱小なバルトの精霊力だからこそ、できる技であった。
「刺繍部分で指も拭ってやったから、体に染みこんでくれたらいいんだけどなあ」
『あれってやっぱ、それ狙いだったの?』
アリアが呟けば、バルトは「ひでえ、腹黒すぎる」と、ラウルに同情するような声を上げる。
『あいつ絶対、ドキッとしてたぞ。男の純情弄びやがって。そういうの、いつか痛い目見るんだからな』
「あんた、どっちの味方なのよ」
アリアはどこまでも冷静だ。
彼女は猫のように大きな瞳をきらりと光らせると、口の端を引き上げた。
「大丈夫。女を惚れっぽい生き物だとしか思っていないお坊ちゃんに、手口がバレるはずもないわ」
そうして、明日の夜、ヴェッセルス家の蔵に忍び込むための計画を、練り始めた。
***
さて、アリアのもとにバルトが駆け寄ったのと同様に、佇んだままのラウルのもとへ、コンラート王子が駆け寄ってきた。
「わお、わお! 見たよ、いい感じじゃない!」
もちろん彼も、
「さすがは、目が合っただけで淑女を発情させると評判の色男。なんだ、彼女もすっかり、君にめろめろの様子だったじゃないか」
コンラートは、アリア渾身の「うっとり顔」を見ていたのだろう。
二人の仲は順調、と踏み、にやにやと腕を肘で突いてきた。
「君も珍しく、ハンカチなんか受け取っちゃってさ。いやあ、奇跡だ! 君に贈り物を受け取らせるなんて、さてはアリア嬢、清純に見えて、結構なやり手なんじゃないかい?」
「いいや」
王子が意地悪くからかうと、ハンカチを握ったままのラウルは静かに応じる。
「そんなことはない」
汚れた布を見下ろす彼の目元は、珍しく和んでいた。
――本当に大切なものは、奪われないのですよ。
脳裏には、あの淑やかな、鈴を鳴らすような声が蘇っていた。
――頭に入れた教養と、心に込めた愛は、けっして誰にも奪われない。むしり取られてしまう程度のものは、奪わせてしまってよいのではありませんか?
静かな言葉が、自分でも驚くほどすんなりと、ラウルの心の奥底に染みこんでいた。
(奪われないのかも、しれない)
目を覗き込んで、しっかりと女性と話したのは初めてのことだった。
それほどまでに、周囲の人間は、彼の精霊力に当てられた。
中身のラウルは空っぽなのに、誰もが鎧を褒めそやす。
うっとりと目を潤ませ、息を荒らげ、べたついた指を這わせては、「ちょうだい、ちょうだい」とラウルを削っていこうとする。
はりぼての鎧に吸い寄せられ、爪を立てて剥ぎ取っていく人々。
彼らがすべてを食らい尽くしてしまった後、きっと自分にはなにも残らない。
それが、長年ラウルを漠然と苦しめてきた思いだった。
だが、アリアの言葉を信じるなら、そうではないのだ。
(大切なものは、すでに、頭と心の中に)
たしかに、生まれは恵まれていただろう。
人より優位に競争を始められた、それは事実だ。
けれど、そこから重ねた努力――叩き込んだ教養や武技、思い悩みながら身につけた価値観、なにより心は、ほかの誰でもない、ラウル自身のものなのだ。
あのわずかなやり取りで、不思議なほど、ラウルはアリアに救われた思いがしていた。
強引に触れられたことすら、相手が彼女なら、ちっとも不快ではなかった。
(アリア・フォン・エルスター)
それは、ラウルが初めて抱いた興味の名だった。
(彼女は……『
つい先ほどまでは、半ば確信していたはずだ。
なのに今、ラウルの認識は大いに揺れようとしていた。
だって、彼女はあんなに高潔だったのだ。
恍惚の表情は浮かべたものの、最後まで目を合わせてラウルの話を聞き、その心にたちまち触れて、包み込んでしまった。
あんな清廉な言葉を紡げる人間が、まさか盗みを働くだろうか。
百歩譲って関係者だとしても、やはり、誰かに脅されたり、利用されたりしているのかもしれない。
ならば自分がすべきは、彼女を助けることではないだろうか。
「なんだい、そんなまじまじと、汚れたハンカチなんて見つめちゃって」
横から覗き込んだコンラートが、にやにやと茶々を入れてくる。
それを聞き取りながら、ラウルは「返しにいかなくては」と思った。
きちんと洗濯をして、折り畳んで。
もしかしたら、ただ返すだけでは失礼なのかもしれない。
なにか、菓子や花を添えるのがマナーという可能性もある。
女性の歓心を買いたいなど、ついぞ思ったことのないラウルには、まったく未知の領域だ。
菓子、ということならば、劇場の近くに有名な焼き菓子の店が、いくつかある。
(それだ)
脳内で素早く王都内の地図を広げながら、ラウルは、「べつにあの少女の機嫌を取りたいわけではない」と誰にともなく言い聞かせた。
良識ある人間として、借りたものを返すには、ささやかな礼を添えるべきだと考えたから。
ただそれだけのことであって。
過去の傾向を振り返るに、これまで女性たちが自分に贈ろうとした菓子は、大抵、甘ったるく、こってりとしていた。
つまり、砂糖が多く使われた高価なもの、腹持ちがよいものほど、女性にとって好ましいのだと推定される。
菓子の味の善し悪しなどわかるはずもないが、砂糖含有量や重量の多寡なら自分にもわかりそうだ。
ひとまず全店で全種買ってみて、最も質量の大きなものを渡せばいい。
しかし観劇の前に、かさばる食品を渡されても迷惑だろう。
いったいどうすれば――。
「殿下。一般的に、観劇というのは」
「んんー?」
傍目からは真顔で、けれどその実いそいそと、ラウルはコンラートを振り返る。
だが、彼の問いは、首を傾げた王子によって遮られてしまった。
「なんかこのハンカチ、変じゃない?」
彼は、ラウルの持つハンカチにぐいと顔を近付け、目を細めていた。
「変、とは」
「なんか……この辺りから、精霊の気配がする」
その指先が示すのは、丁寧に施された刺繍部分だ。
贈り主のイニシャルなどではなく、ただ使い手の幸運を祈るための、奥ゆかしいクローバー。
けれど王子は、「微弱だけど、精霊力が込められている」と言う。
コンラートは、ラウルに精霊力の量でこそ及ばないが、だからこそ、力の緻密な制御や解析を得意としていた。
「……精霊力?」
「うん。なんだろう、この精霊は。風や水の四大精霊ではなくて、もっとマイナーな感じ。籠められた内容も、加護や祝福というより……」
ラウルは無言でハンカチを見下ろす。
優秀な頭脳が、即座にとある可能性を導き出し、それは見る間に、彼から表情を奪った。
「……加護というより?」
声が、不自然に低くなるのが自分でわかる。
くすぐったい、穏やかな感情が潮のように退いていき、できた隙間に向かって、獰猛な荒波が押し寄せた。
アリア・フォン・エルスター。
清純で善良で、唯一彼に付け込もうとしなかった清らかな女性。
「なんかこう、『
――などではなかった。
「…………」
すう、と、ラウルの目が据わる。
「ほう」
彼は強く、手の中のハンカチを握り締めた。
ずいぶんと、舐めた真似を。
「えっ? な、なに? なんか急に、あたりが寒くなったような――」
「捕まえてやる」
困惑気味に腕をさすりだしたコンラートをよそに、ラウルは低く告げた。
「『
「やだ、なんか急に空が曇ってきてない?」
『なー。風雲急を告げる感じ』
その頃アリアたちは、王城を立ち去りながら、呑気に空を見上げていた。
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