3.幕間
月光の射し込む大聖堂に、目を閉じて跪く男がいた。
美しい男だ。
肩口で括られたプラチナブロンドは、夜闇に溶けて銀色に光り、同じ色の睫毛が、塑像のような頬に、月光の淡い影を落としている。
通った鼻筋に、薄い唇。
精霊のような美貌だが、線の細さはなく、着崩さずに騎士服をまとった体は、凜と引き締まっている。
その美しさ――冬の凍てついた月を思わせる冷たい美貌で知られる彼は、名をラウルと言った。
造幣業で出世を果たしたヴェッセルス伯爵家の一人息子であり、「蒼月の君」とあだ名される聖騎士、すなわち、精霊力を持つ特別な騎士でもある。
ラウルは長時間、目を閉じたまま瞑想を続けていたが、不意に、宝石のような碧い瞳を開くと、静かに片手を掲げた。
――キンッ!
途端に、金属同士がぶつかる澄んだ音が響く。
背後から投げつけられた短刀を、ラウルの手甲が難なく弾き返した音だった。
「ちぇっ、
追って、軽やかな足音と、同じくらい軽薄な声が響く。
月の光を背に聖堂へと踏み入ってきたのは、金の巻き髪と明るい緑の瞳が印象的な、ラウルと同じ年頃の青年。
この国の第三王子である、コンラートであった。
「……瞑想を妨げるなと何度言えば」
「瞑想なんてじじくさいこと、干からびた聖職者どもに任せておけばいいじゃない。僕たち高貴なる若者は、もっと活発に動くべきだよ」
「私は聖職者だが」
「聖騎士、ね。聖職者と貴族の中間の存在だ。つまり、君は貴族の若者でもあるわけだ」
ラウルは、まるで夜を紡いだような美声で淡々と反論を紡ぐが、コンラートはあっさりとそれを混ぜ返してしまう。
伯爵令息のラウルと王子のコンラートには、それなりの身分差があるはずだが、二人は母方の従兄弟同士で、幼少時から共に育ってきたために、その付き合いは気安いものだった。
もっとも、コンラートのずけずけとした態度を「気安い」と表現していいなら、であるが。
「自分の現状を客観的に見てみなよ。大の男が、こんな月の綺麗な夜に一人で修行なんて、かなりわびしいよ? 周囲は君を、孤高の騎士なんて言うけど、要はぼっちじゃない」
ずかずかと近づき、従兄の隣――ただし床ではなく、ちゃっかりと礼拝用の椅子――に腰を下ろした王子のことを、ラウルは無言で
王子の無礼は今に始まったことではないからだ。
「君はさ、せっかく女の子を寝台に連れ込みやすい顔をしているんだから、もっとそれを生かすべきだよ。舞踏会とか舞踏会とか行けばいいのに。あとは舞踏会とか」
「面倒だ」
コンラートによるしつこい勧誘への返事は、短かった。
「騒ぎになる」
「……ま、それはそうなんだけどさあ」
意外にも、コンラートはそれを素直に受け入れた。
ラウルの答えが、事実そのものだとよく知っていたからだ。
ラウル・フォン・ヴェッセルスは、精霊の愛し子。
ただ美貌の青年というだけでなく、剣を持たせれば当代一の武技を誇り、勘は鋭く、書は一度で諳んじてみせる。
さらには、精霊の女王が何より好むと言われる、その碧い瞳のせいなのか、彼はただそこにいるだけで、老若男女構わず、周囲の心をかき乱してしまうのだった。
たとえば、女ならばたちまち恋に落ち、男ならば目が合っただけで圧倒され、子どもならば激しく泣き出す、と言った具合に――もっとも最後のは、ラウルの冷ややかな佇まいが原因かもしれないが。
「傍目からは面白いんだけどな。君と目が合った瞬間、女の子たちがふらふらーって引き寄せられていくの。光に集まる蛾を見ているみたいで」
「楽しむな」
「いいじゃない。君の精霊力に耐えられる人間だからこそできる娯楽だ」
ラウルの暴力的なほどまでの魅力は、彼が生まれ持った、王族をも上回る量の精霊力のせいだった。
精霊の祝福、と言い換えられる精霊力は、恵まれれば、常人より優れた五感や美貌、頭脳や武技を宿らせ、ときに天候さえ操る能力をもたらす。
同時にその力は、強く異性を惹きつけ、同性を圧倒する。
精霊力が特に強いラウルの場合、ある程度の精霊力や、よほど強い意志を持つ相手でない限り、女性であれば魅了してしまうし、男性であれば威圧してしまうのだ。
おかげで、彼とまともに対話できる相手は、同じ血の流れる親族か、聖職者くらいしかいない。
おそらく、程度がここまででなければ、精霊力に恵まれるというのは、素晴らしいことだったのだろう。
ラウルはあらゆる資質を誇り、多くの人に愛され、快適な人生を歩めたはずだ。
しかし、あまりに強大な魅了の力は、むしろ彼に諍いばかりを運び込み、疲弊させた。
すべてが、彼の望むよりも早く手の中に落ちてきて、しかもその果実同士が醜く争うのだ。
始終女たちからは媚びられ、男たちには距離を取られ、羨望を向けられる。
過剰な好意と敵意を浴び続けた結果、ラウルの他者への信頼はすり切れ、関心は薄らいでいった。
今では、なにもかもが煩わしい。
そして、その他者への不信感と倦厭が、彼に聖騎士の職を選ばせた。
本当はさっさと出家してしまいたかったのだが、彼の親族がそれを猛反対し、結局、貴族と聖職者の中間のような、聖騎士の地位に落ち着いたのである。
聖騎士と言えば、王族の身の回りを警護し、聖遺物の管理をも任される、騎士の中の騎士。花形である。
ただしラウル自身は、聖騎士の職務期間内に聖職者の資格を得て、今度こそ出家するつもりだった。
一方の家族もそれを悟り、最近では躍起になって、彼に結婚相手を宛がって、俗世に留めようとしている。
「ねえ、ラウル。君、この前のクレーベ家の舞踏会も結局欠席したんでしょ? 頼むから、どこの家のでもいいから、舞踏会に行ってみなよ。好みの子がいるかもよ? そうだ、男爵家の養女がすごく可愛いって噂だ」
そして、ラウルの母に可愛がられてきたコンラートは、完全にその回し者だった。
「君は文武両道にして品行方正、理想の男だ。だが、頑ななところは頂けない。夫人も心配しているよ。君に世継ぎができなければ、伯爵家はどうなってしまうのかって」
「叔父上がいる」
「ああ、いるね、とびきり有能なドミニク殿が。まったく、君の一族は優秀だ。でも、そこは実の息子に継いでほしいんだよ、わかるだろう?」
ドミニク・フォン・ヴェッセルスは、伯爵の弟でラウルの叔父に当たる。
金鉱の売買をはじめとした交渉事に長け、この国の
たしかに、伯爵家の後継となっても反発は少なかろうが、やはり夫妻としては、実の子に継がせたいという心情のようだった。
問いに答えず、再び瞑想に戻ろうとした従兄のことを、コンラートは肩を揺さぶり妨げた。
「頼むよ。伯爵夫人が
「馬鹿らしい」
返答は、にべもなかった。
「叔父上がいる。伯爵家の血は絶えない」
「そういうことじゃないんだよ」
あっさりと手を振り払われ、コンラートは業を煮やしたように自身の髪を掻き回した。
「君の両親も、僕の両親も、僕も、ただ血統を気にしているわけじゃない。君を心配しているんだ。本当はわかってるだろう?」
コンラートは甘やかされた末王子らしい大胆さで、ラウルの前に回り込み、眉間に指を突き付けた。
「いつも死んだ魚みたいな目をして。君は笑わない、泣かない、なににも心を動かさない。夢や恋人を追いかけもしない。そんな人生って、人生と言えるのか?」
「出家の夢なら追いかけている」
「そんなの追い求める夢とは言わない。ただ逃げ出したいだけじゃないか」
燃える炎のような強さで、コンラートは切り捨てた。
それから、緑の瞳に真剣な光を宿し、従兄を見据えた。
「生きるって、君が思うより楽しいことだよ。僕は君に、切実で、どうしても手に入れたい、そういうなにかを見つけてほしい」
ラウルは静かに、氷色の瞳を伏せた。
コンラートは、態度こそ無遠慮だが、善良な青年だ。
彼が心からこちらを案じてくれていることは、もちろん理解していた。感謝もだ。
だが、ただ視線が合うだけで陶然とし、あるいは青ざめる周囲に対して、どうしても関係を結びたいと思えないのだ。
だって、周囲もまた、ラウル自身を見ているわけではない。
彼を取り巻く精霊力に当てられているだけだ。
ある日突然精霊力が失われてしまったら、彼らはどんな反応をするのだろうかと、ラウルはときどき考える。
己はどうなるのだろうか、とも。
自分なりに努力して磨いたはずの武技や教養、価値観や立ち振る舞い。
それらはどこまでが「与えられた」もので、どこからが自前のものだろう。
積み上げたものは、その努力に応じて残るのだろうか。それとも、跡形もなく消え去るのだろうか。
ラウルは、なんとなく後者であるような気がしていた。
自分はすべて与えられてしまった。
だから自分ではなにも手に入れられず、手に入れようとも思えない。
「……まあ、君の場合、意志を持った女性に出会うことがすでに、難しいかもしれないけど」
黙り込んだラウルに譲歩したのか、コンラートが肩を竦めた。
「ああ、でも、仕事ならどう? さしあたって、泥棒を追いかける仕事とか」
「泥棒?」
不意に風向きの変わった話に、ラウルが銀の
反応を得たことに気をよくしたのか、コンラートは大きく頷いた。
「そう。さっき言った、クレーベ子爵。そこの夫人の、ガーネットの首飾りが盗まれたんだ。舞踏会の最中に、ガラス窓を破って警備を突破する、豪快な大男らしいよ」
クレーベ家といえば王の忠臣。
王のお膝元で大胆なことである。
わずかに眉を潜めたラウルに、コンラートは「しかも」と声を低めて続けた。
「その一週間前には、ヒルトマン子爵のエメラルドが盗まれている。同じ手口でね。同一犯だ。闇夜に紛れる姿から、社交界では『
烏は光り物が好きだから、言い得て妙だね。
そう笑うコンラートをよそに、ラウルは思わしげな表情を浮かべた。
「泥棒を持て
「僕もそう思う」
そこで、コンラートはすうと顔を引き締めた。
「貴族ばかりを狙う……『烏』は義賊気取りの男かもしれない。万一彼が、民衆に妙な人気を博して、国家転覆でも謀ったら
彼が緑の目を細めると、途端に王者の風格が滲み出す。
「この国は、もう二度と、暴動など許してはならないのだから」
「…………」
コンラートが言うのは、三年前の謀反のことだ。
穏健派で知られる現王の治政に反発した武闘派が、資金をかき集め、国家転覆を謀った。
そのせいで王城は機能停止に陥り、治安維持もままならなくなった王都では、あちこちで暴動が起きたのだ。
姿勢を改め、コンラートの前に跪きなおしたラウルに、王子は堂々と頷いた。
「聖騎士ラウル・フォン・ヴェッセルスに、第三王子コンラートが命じる。王都を騒がす身の程知らずな『
凜とした声で告げてから、コンラートは空気を軽くするように首を傾げた。
「ま、女の子のお尻を追いかけられないなら、ひとまず泥棒でも追いかけておいてよ」
と。
ラウルは、観衆がいたら悲鳴が上がったに違いない美しい
「御意」
***************
次話、ようやく二人が出会います!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます