2.彼女が泥棒になった理由(2)
「ちょっと……なにしてんの!?」
なんとヨーナスは、蔵のすぐ外に座り込み、そこに生えている草をむしっては口に入れていたのだ。
「いやあ、なんだか、お腹が空いちゃって」
「はあ!? だからって、雑草を食べなくてもいいでしょ!?」
「うん。そうなんだけど……」
困ったように頷きながらも、ヨーナスは草を咀嚼するのをやめない。
「でも……今すぐ、食べたくて」
いつもは優しげで、眠そうにも見える茶色の瞳。
それが今や、爛々と光っていることに、アリアはふと寒気を覚えた。
まるで呪われた宝石のような、強烈で不穏な輝き。
「ヨーナス様……?」
「お腹が空いた。喉も渇いた。ああ、ワインが飲みたいなあ」
手近な雑草がなくなると、彼は肘や膝が汚れるのも構わず這いつくばり、土そのものを掘り始めた。
爪の間から零れ落ちた茶色の塊を見つめて、「肉……」と呟く。
「肉と、ワイン……」
しゃがみ込んだまま、彼はゆっくりと、アリアを見上げた。
「お腹が、空いたなあ……」
ぎらぎらとした目に見据えられて、無意識に後ずさる。
なぜだか、ヨーナスが自分の肉を引き裂いて、血を啜りそうに見えたのだ。
「や、やめてよ、変な、冗談」
「お腹が空いた」
声を震わせるアリアの前で、口元から土をこぼしたヨーナスが、ゆらりと立ち上がる。
一歩、また一歩、とこちらに近付く動きは鈍いのに、不思議と、こちらが少しでも動けば一気に肉薄してきそうな、奇妙な迫力があった。
「いったい、どうしたっていうの――」
『指輪についているアメシストだ!』
とそのとき、足下から凜とした声が響き、アリアははっと我に返った。
白トカゲはするりとヨーナスの服をよじ登り、彼の手首に乗り移る。
小指にまでたどり着くと、そこに嵌められている紫水晶の指輪を、尻尾で激しく叩いた。
『こいつだ! このアメシストに、「暴食」が取り憑いている!』
むちゃくちゃなことを主張されて、アリアは途方に暮れた。
「どうしろっつーのよ!」
『回収しろっつってんだろ! 王冠に戻すんだ! ただし素手で触るなよ!』
畳みかけられて、アリアは
呪われた宝石に、大罪、回収。
とても現実の話とは思えない。
だが、ヨーナスの行動が常軌を逸していて――まさに、「暴食」に取り憑かれたように見えることは、たしかなのだ。
『ほら! 早く! こいつから指輪を取り上げて!』
「…………っ」
こうなれば、一か八かだ。
アリアはぐるりと手首を回すと、覚悟を決め、自身の髪からシルクのリボンを抜き取った。
幅広のそれで、スカーフのように左手を覆い、一方の右手は、勢いよくヨーナスに向かって突き出す。
「ちょっと失礼!」
がっ! と音を立てて相手の目を覆うと、ヨーナスは「ぐふっ」と小さな悲鳴を漏らしてふらついた。
その隙を突き、素早く左手をヨーナスの右手に這わせる。
目にも留まらぬ速さで指輪を掴むと、次の瞬間には抜き取った。
同時に、顔を押す右手に力を込めて、相手に尻餅をつかせる。
ちなみに指輪を抜き取るときは、関節の膨らみに合わせて少しリングを捻るのがコツである。
『いや、めちゃくちゃ手際いいな、おまえ!?』
「ひったくりの一番代表的なやり方ね」
少し怯えた様子の白トカゲには、短く応じて済ませる。
小柄で愛らしく、油断すればすぐ路地裏に連れ込まれそうになるアリアは、目潰しをはじめとする卑劣な戦法を磨かざるをえなかったのだ。
稼ぎを奪われることもざらだったので、飢えたときには、こうして犯罪に手を染めることもままあった。
もっとも、規律に厳しい修道女ベルタが孤児院長に就任してからは、一切やめさせられたけれど。
「で、これをどうしろって言うの、トカゲもどき?」
『王冠に近付けるんだ! あとバルトロメウス様って呼べ!』
「長い。バルトでいいわね」
トカゲ――バルトの促すまま蔵に戻り、アメシストの指輪を王冠に近付けると、たちまち反応は起こった。
サークレットにこびりつくようにして残っていた、くすんだガラス玉。
その内の一つが、突然ぱああっと紫色に光り出したのである。
「うわ……っ」
目を刺すような閃光に、思わず腕で顔を庇う。
やがて、光が収まったのを感じて腕を下ろすと、アリアは思わず声を漏らした。
「なにこれ……」
『「暴食」が、王冠のアメシストの中に戻ったんだ』
先ほどまでは、ひび割れたガラスにしか見えなかった塊が、今や、うっとりするような紫色の光沢を湛えていた。
アメシストに
『アメシストっていうのは、神話に出てくる女官の名前でな。石に変えられた彼女の体に、酒の精霊がワインを注いだから、こんな色になったって言われている。きっと、「暴食」にとって、好ましい色なんだろうな』
「ふうん……」
宝の守護精霊らしいうんちくを垂れるバルトのことを、アリアは曖昧に聞き流した。
その視線は、ヨーナスから取り上げた指輪に注がれている。
指輪を飾っていたアメシストは、辛うじて紫色を保ってはいるが、かなり色褪せて見えた。
「これ、ヨーナス様の奥様の形見なんだけど。取り憑いた大罪を『回収』すると、宝石は皆こうなっちゃうわけ? くすんじゃうっていうか」
ヨーナスは、妻に先立たれて以降、サイズの合わないこの指輪をなんとか小指に押し込んでまで、ずっと大切にしていた。
だからこそ、その大罪を「剥ぎ取った」後の指輪の無残な姿が、気に懸かったのだ。
『あー、形見かぁ』
バルトは、黒目がちの瞳を軽く伏せることで、トカゲの姿に見合わぬ複雑な感情を表現してみせた。
『道理で、こんな小っせえアメシストに『暴食』が取り憑いたわけだ。遠くにある巨大なアメシストよりも、近くにあるよく手入れされたアメシストのほうが、大罪にとってはよほど「力ある財宝」だった、ってことだな』
「……元には戻らないの?」
『んーや。今は、大罪に取り憑かれて、石が疲れてるだけ。時間が経てば回復する。それに、よほど精霊力が高くなけりゃ、ちょっと輝きが減ったかな? くらいにしか見えねえさ』
「そう」
では、ヨーナスの指輪は、おおむね無事だということだ。
密かに胸を撫で下ろしたアリアの肩に、『というわけで』と、バルトがちょろりと乗ってきた。
『大罪が世の中に放たれちまったら、ご覧の有様だ。まずいだろ? やばいだろ? なあ。ちょっと力を貸してくれよ。正直なところ、俺も参ってんだよ』
先ほどとは違い、低姿勢だ。
アリア相手には正直に出たほうがいいと踏んだのだろう。
彼は、トカゲにしてはやけに人間くさい仕草で、はあ、と溜息を落とした。
『白状するよ。俺、れっきとした精霊だし、ドラゴンなんだけど、素行不良で、精霊の女王から精霊の資格を剥奪されかけてんだ』
「え……精霊って資格制度なの?」
『ああ。女王の一存で決まる横暴な組織でよ……。「本性を取り戻したくば、修行して、精霊のなんたるかを学べ」って、このしみったれた国宝庫の番人役を押し付けられたのさ』
聞けば、精霊の女王とは、バルトの母でもあるらしい。
つまり彼は精霊界の王子様ということだ。
ドラゴンといえば、精霊の中でも最上位種。
相応のプライドを持っていたバルトは、トカゲの姿に落とされ、それはもうふてくされた。守り手の役目も放棄して、惰眠をむさぼった。
それでこの惨状があるのだ。
だが、いざ守るべき宝を破損させ、大罪を飛散させてしまった今、彼にようやく危機感が芽生えたという。
『ここでしくじったら、俺、存在ごと抹消させられちまうんじゃねえかなー……なんて』
きょろ、と、黒目だけの瞳が、上目遣いを決めるようにアリアを見上げる。
艶やかな白い体表もあいまって、なかなか愛らしい姿ではあったが、アリアはふふ、と可憐な口元を綻ばせた。
「自業自得って言葉を墓碑に刻みつけろトカゲ」
『可愛い面してひでえよ!』
バルトが大げさにわめき立てたそのとき、ふらふらと蔵の扉をくぐる者があった。
「ア、アリアちゃん……大丈夫……?」
指輪を奪われ、尻餅をついていたヨーナスだ。
彼は慌てた様子で駆け寄り、アリアの全身と、一部が修復された王冠とを、困惑も露わに見つめた。
「僕、途中から食べることしか考えられなくなって……。それで、指輪を君に抜き取られた瞬間、急に体の力が抜けて、でも思考がはっきりして、そうしたら蔵が光って、あれって王冠が光ったんだよね? それで、アメシストが……あれ? 王冠、ええと……」
「あたしが説明するわ、ヨーナス様」
完全にパニックに陥っている様子の養父に、アリアはゆっくりと、かつ端的に経緯を説明した。
王冠には七つの大罪が封印されていて、どういうきっかけか、その封が解かれて大罪が散逸してしまったこと。
大罪は宝石に宿る性質があり、取り憑かれた宝石の持ち主は、悪徳に魂を蝕まれてしまうこと。
事態を挽回するために、守護精霊がトカゲの姿で顕現したこと。
取り憑かれた宝石を回収して王冠に近付けてやれば、大罪は再び封印できること。
そして、七大罪のひとつ、「暴食」が、先ほどヨーナスの指輪のアメシストに取り憑いていたこと。
「それで、指輪から『暴食』が戻った途端、アメシストの部分だけ王冠が元の姿を取り戻した、というわけ」
最後に王冠を示して話を締めくくると、ヨーナスはしばし、ぽかんとして黙り込んでいた。
どうやら、話が壮大すぎて受け入れられなかったらしい。
「ええと……」
しかし彼は、しばらくしてから顔を引き締め、こう告げた。
「僕……陛下に、ことの次第を報告してくるよ」
「えっ? 信じるの?」
「もちろん。だって身をもって体験したんだ。強欲に憤怒、嫉妬に色欲、怠惰に傲慢……あと六つもの大罪が誰かに取り憑いたら、この国は大変なことになる。そもそも、第三とはいえ国宝庫のものが欠損したんだ。これはきちんと報告しなきゃ」
正論だ。
だが、アリアとしては、こう問わずにはいられなかった。
「でも……そんなことをしたら、ヨーナス様が責を問われるんじゃないの?」
「それはそうだよ、監督不行届だ。でも、事態を明らかにしないことには、対策も打てないだろう?」
「そうだけど……でも、事態を明らかにしたら、ヨーナス様は処分されるんでしょ?」
「いや、そうなんだけど」
堂々巡りの会話に、ヨーナスは困惑気味に首を傾げた。
「でも、そうしなきゃいけないだろう?」
「いや、だめでしょ!」
アリアは咄嗟に胸元――金貨の下がったネックレスを握り締めていた。
「なんで、ヨーナス様がこんな奇妙な事件の責任を取らなきゃいけないの!? 放っておけばいいじゃない。どうしてヨーナス様っていつも、『
「僕、そんなことしてる!?」
「ここは放置一択でしょ!? 大罪は、大切にされている高価な宝石に取り憑く……なら、被害に遭うのも貴族だけ。貴族の性根なんてもともとねじ曲がってるんだもん、大罪が憑こうが憑くまいが変わらない!」
僕も貴族なんだけど、としょんぼり眉を下げたヨーナスを見て、アリアは視線を逸らした。
「とにかく、王冠は自然に腐ったんだから、その責任まで取らなくていいわよ。大罪云々は、王冠破損とは別件として警告すればいい。きっと、宗教界がなんとかしてくれるわ」
「いやあ、でも、国宝の管理が僕の仕事だし、僕も実際、放置しすぎてたし……。陛下は賢王と呼ばれる寛容な方だ。過失があったからって、べつに死刑にしやしないよ」
「世の中に絶対なんてない」
吐き捨てるように告げると、ヨーナスは困った様子で頭を掻いた。
でもねえ、と苦笑いを浮かべ、わがままな子どもを
「やっぱり、こういうことは、きちんとしなきゃ」
「…………」
だめな大人のくせに、と、唇を噛みしめたアリアは思う。
朝食の卵のゆで加減さえ即決できず、シャツの裾はしょっちゅうはみ出し、曖昧な言葉遣いのせいでいつもアリアや悪徳商人に付け込まれる。
優柔不断で、だらしなくて、言いなり男のくせに、なぜこうした方針だけは、絶対に譲らないのか。
二人の間に挟まれたバルトが、身の置き所がなさそうにこちらを見上げている。
それをぼんやりと見つめながら、アリアは小さく切り出した。
「半年」
「え?」
「ううん、三ヶ月でもいい」
深く溜息をついてから、アリアは顔を上げた。
「王冠破損の報告を上げるのは、少しだけ待って。その間に、あたしが王冠を元の姿に戻すから」
「へ?」
目を瞬かせるヨーナスに向かって、彼女はきっぱりと言い放った。
「王都に散らばった大罪を、宝石ごと回収する」
「へ!?」
『よしきた!』
ぎょっとしたヨーナスとは裏腹に、会話を見守っていたバルトは
「で、でも、アリアちゃん。回収すると言ったって、どうやって……。上等な宝石ということは、貴族の家宝なのかもしれないよ。彼らが、王命もなしに家宝を貸し出すとは思えない」
「盗めばいいわ」
けろりと答えると、ヨーナスがあからさまにぎょっとしたので、少々表現を変えてみせる。
「違った、事後承諾で拝借すればいい」
まったく、院長ベルタといい、ヨーナスといい、すぐくだらない「良識」に囚われるので、困ってしまう。
盗まずの掟と、自分の命と。
どちらが大切か、下町の子どもでも知っているというのに。
「大罪付きの宝石は、拝借した後、必ず戻す。悪徳に魂を蝕まれたら、きっと宝石なんて手放したがらないだろうから、こういう荒療治はどのみち必要でしょ」
虫歯になっても飴をしゃぶり続ける子どもから、その飴を取り上げる際に、事前許諾なんているだろうか。
アリアが思うに、答えはノーだ。
いったん無理矢理取り上げて、相手が冷静になってから、甘さを排除した菓子を返してやればいい。
巡り巡って本人のためだ。
「いや、でもね。対処することと、報告の必要性はべつの話で」
「じゃあヨーナス様は、お皿を割ってしまったら、なにもせず親に泣きつけって言うの? 片付けるなり、破片を繋ぎ合わせるなり、努力を多少はすべきじゃない。報告はたしかに必要かもしれない。でも、それは解決の努力をした後にすべきよ」
なおも反論するヨーナスを、話をすり替えて言いくるめる。
努力、という耳に心地よい単語に騙されて、「そう、なのかな……?」と呑まれはじめたヨーナスに、アリアは力強く頷いた。
「そうよ。あたし、あと三ヶ月で、残る六つの宝石を、絶対に揃えてみせるから」
結局、ヨーナスが馬車の前に飛び出すようなことばかりするから、アリアは馬に石を投げつけるようなことばかりしてしまうのだ。
だが、べつにいい。
どうせ自分は、ベルタやヨーナスと違って、おきれいな人間というわけではないのだから。
胸に下げた金貨を握り締めながら、アリアはふん、と、口の端を引き上げた。
「捕まるようなへまはしないわ」
***************
明日の更新でようやくヒーローが出てきます…
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