88歳

 さて、困った。

 こんなに長生きするつもりは無かった。人生の見通しが甘かった。

 貯金が底をつく。今月の家賃五万二千円を払ったら残りのお金は十数万円だ。今年いっぱい飲まず食わずで暮らせば年は越せるぐらい。


 さて、どうしようかな。

 若い頃みたいに水商売の日払いで一晩だけ、一月ひとつきだけと食いつなぐ事は出来ない。もうババアだし。

 就職も一度もしないでアルバイトを転々として生きてきた。飲食も、接客も、事務、清掃、作業、介護、出来る事は沢山ある。でも体がついて来ないし年齢制限にも引っ掛かる。ただのババアだから。


 周りからは自由で羨ましいなんて言われながら独身で通した。それなりに色々あったのに結婚や子供に縁が無かった。いや、誰も貰ってくれなかっただけか。ババアだもん。


 畳の上にゴロンと仰向けに、いや腰痛いじゃん、横向きに転がる。


 知ってる親戚もみんな死んだり疎遠になったり代替わりした。このババアを気にかける人はもう居ない。ほぼ天涯孤独。


 はあ……よく昔の人は畳の上で死にたがってたけど、こんなのどこが良いんだろう? 結構固いし草臭いし、こんな所はイヤだわ。


 あ、そうか。

 死のう。


 なんでこんな簡単な事に気付かなかったんだろう? 長生きするつもりじゃなかったんだから、もうとっくに死んで大丈夫じゃん。

 少ない荷物を部屋の隅っこにまとめて、遺書らしき物を書いて、靴下をよっこらせと履いた。


 準備万端、さて、どこにしようかな?


 景色の綺麗な所……は、誰かのプロポーズの場所だったり、何か大切な思い出の場所かも知れない。ダメダメ。


 電車に飛び込む……のは超迷惑。確かお金も凄いかかる。電車が遅れたせいで大事な会議とか、人生に一度の何かに遅れたり行けなくなる人がいるかも知れない。


 飛び降りる……のも危ない。下に人がいたら大変。崖から海に落ちても、もし漁の網とかにかかったら漁師さんに申し訳ない。


 素直にこの部屋で……ああ、あの大家さんの丸っこい笑顔が浮かんじゃう。ここはダメ。


 死ぬのも一苦労だわ、本当に。


 ……死体に紛れようかな?

 生きてるうちにお墓に入って死ぬとか。

 天才じゃん。一人でヒッソリなんて理想的だわ。

 警察の人が調べたりする手間はかけちゃうけど他の場所よりマシだと思う。


 よし、墓に行こう。


 フンフンと鼻唄なんか歌いながら、赤いリュックを背負ってふと気付いた。


 墓地に行って、どうしよう?

 先祖代々の墓石の下に入る? 無理じゃん。お坊さんに『ちょっと死ぬんで墓石開けてもらえます?』なんて言える訳ない。

 はあ……思ってたのと違うね、こりゃダメかな。


 ペタンと畳の部屋の真ん中に座る。

 いそいそと準備した物が寒々しく見えて……。


 ……樹海、富士の樹海なんてどうだろう?

 確かあそこは発見されたら無縁仏とか、そんな感じでポイッと簡単に処理して貰えるんじゃなかったっけ。まあ見付からなければ土にかえれるわ、よし。


 善は急げ。

 テクテク歩いて最寄りの駅までバスに揺られて電車に乗って、またバスかい、ああこれが最終便? 間に合って良かった。


 樹海入り口、着いたわ。

 だけど結構な人数が一緒に降りた。


 聞こえてくる話から、どうやら近くに宿があって一泊してから早朝樹海ハイキングというコースで来てるらしい。

 樹海が死体だらけなんてイメージは古かったのかも。


 自分だけ今から向かうのは絶対目立つ。ただでさえバカみたいな軽装だからチラチラ見られてる気もするし。


 参ったね。宿に泊まるなんて贅沢、もったいない……ま、いいか。


 のんびり足を伸ばして温泉に浸かって、ゆっくりコーヒー牛乳を飲んで、やれやれだわ。

 フロントにあったパンフレットをパラパラして、ふと目に留まったのは。


『あなたも大空へ! パラグライダー体験! 当宿から予約出来ます!』


 はあ……やるか。

 善は急げ急げ。

 朝イチのコースをフロントで予約。9時までに朝霧高原? よく分からないからタクシー呼んでおいて下さい、なんて。

 せっかくだから快適に楽しもう。売店で登山用の上着一式と下着も買った。


 そう、せっかくだから。一生に一度しか死ねないんだから。


 美味しいご飯を食べて、温かい緑茶を淹れて貰って、フワフワのお布団に横になる。

 よし、悔いはない。


 ……ちょっとワクワクしちゃって目覚まし時計より早く飛び起きたけどもさ。


 ババアとパラグライダーの相性は悪いわ。


 見た目がね、周りの人からすれば危なっかしく見えるんだろうね。こっちは死にそうぐらいでちょうど良いんだけど。

 ヘルメットのバックルをパチンと留めてもらいながら、向こうを見やれば。


「やっぱりやらなきゃダメですかー!」

「ハイハイ、飛んで飛んで」


 騒がしい。ピチピチの若いお姉ちゃんとオッサンがヤイヤイやってる。肩に担いだカメラとモップみたいな、あれはなんか良いマイクだっけか。

 テレビが来てる。


「ウルサくってすみませんね! 地元のテレビ局なんすよ! ハッハッハ!」

「別にどうでも……いえ、構いませんよ」


「そうだ、奥さんのプロフィール見ましたよ! 昨日お誕生日だったんすね! おめでとうございます! ハハッ! 88歳! 米寿! いやー、めでたい! このフライトは記念ですかな?!」

「まあそんな感じですね」


 ウルサいのはお兄ちゃんだよ!

 という言葉を飲み込んで、ああもう注目の的じゃん。本当に余計な事をベラベラと……。


「……あの、申し訳ないのですが……」


 イヤな予感がして背中を向けてたのに、振り向けばピチピチのお姉ちゃんが手に持つマイクを握り締めて立ってる。

 オッサンも来た。話を聞かせてもらえないか、だとさ。もう本当に厄介な……。


「こんなババアに面白い話は無いですよ?」

「いえいえ、あの、飛ぶ前と、飛んだ後に、良ければ感想を頂きたく……」


 ピチピチお姉ちゃんはカレンちゃんという新人アナウンサー。今年の春から天気を読んだりしてたのが、夕方のニュースのコーナーを貰ったとかで今ここにいるらしい。


 隣で一緒に体のアチコチにバックルを付けられながら、軽く自己紹介なんてしたけども……震えてるじゃないか、可哀想に。


「大丈夫?」

「あ、はい……怖くないですか? パラグライダーなんて……あんなに高く飛んで……」


「怖いも何も、まあ別にねえ? カレンちゃんは怖いの?」

「……怖いです……でも嫌がったり怖がったりしてるのがイイとかで……」


「あのオッサ……あの男の人が一番偉い人?」

「え? あ、はい」


 もう同じ回で飛ぶ人達が順番に飛んでる。オッサンは見てるだけかい? 楽な商売だね。

 どれだけ運が悪くても墜落もしなさそうな晴天と緑の草木に挟まれて、パラグライダーのカラフルな長方形が揺れてる。


「ねえ、このババアが飛んだらあの子、カレンちゃん許してあげて貰えません? 怖いんですって」

「え? ああ、なるほど」


 オッサンは偉そうにカメラの人を人差し指で呼んだ。いいよ撮りなさいよ、好きにしなさいよ。


「そうですね……カレンちゃんのカウントダウンで一発で飛ぶ、とかどうですか?」

「いいですよ。それじゃあの子はここで見学ね。なんか美味しい物でも食べさせて美味しいって言わせておけば良いじゃないですか」


 なんだ、そんな事でいいのか。

 涙目でお礼を言うカレンちゃんとオッサンにバイバイと手を振って、ウルサいお兄ちゃんと二人乗り。これはタンデム、今さら新しい言葉なんか覚えても、ねえ?


「ハッハッハ! 男前な奥さんですな!」

「そう? お兄ちゃん、家族は?」


「妻と娘が一人ずついます!」

「ああそう。いや妻は一人でしょうよ」


「ハッハッハ!」

「ウルサいねえ」


 カレンちゃんの通る声でカウントダウンが始まってる。お兄ちゃんには家族が居る。

 神様、ワガママだけど今は死にたくないわ、後にして。このお兄ちゃん巻き込む訳にはいかなくなっちゃったんだわ。


「……ニ、イチ、ゼロ!」


「はい走ります!」

「あいよ!」


 だって死のうと思ってたんだもん。パラグライダーなんて怖くない、なんなら……気持ちいい!


「どうっすか?! イイでしょ、空!」

「イイねえ、これはイイわ! あはは!」


「あっち富士山、あっち静岡、あっちは遠くに海っすよ!」

「あはは! ホントだ、キレイだわ!」


 風と色んな物がはためく音で、真後ろにいるお兄ちゃんの声がちょうど良く聞こえる。バカみたいにデカい声は職業病だったのか。

 なーんだ、笑えてきた。


 柔らかい草の地面に降りて、なんやかんやしてる内にカレンちゃん達が追いかけて来てた。

 ありがとうと一生懸命に頭を下げてくる姿に、なんかホッとした。心から良かったねと思える。

 カレンちゃんは飛ばなくて済んだし、お兄ちゃんも死ななかったし、大空は気持ちイイと知れた。

 本当に良かったよ。


 さて、とまたバスに乗って、今度こそ樹海へ。

 最期の最期でなんかスッキリした。ハイキングコースをシレッと外れても足取りは軽い。


 数時間は歩いたか、もうずっと自分の呼吸と枯れ葉を踏む音、自然の音しか聞こえない。


 よし、この辺にしよう。


 低い木の影、柔らかい土の上にレジャーシートを敷いて仰向けにゴロン、いやいや、腰が痛いし結構疲れてるわ。横向きに転がる。

 このまま居れば今夜中には凍死でも……話し声?


「……でしょ? 頑張りなさいよ少しは」

「……はい、すみません」


 こんな所でまた出会うとは?

 カレンちゃんとオッサンの声だわ、足音からするとカメラの人もいる。

 また苛めて、また苛められて……。


「死体でも骨でも遺留品でも見付けてさ、キャーキャー叫んじゃって? じゃないと帰れないよ?」

「でも、ここで迷ったら……」


「ロープ繋いでるから帰れますー、このロープの範囲で探して、ホラ!」

「……はい」


 ……可哀想に。もし子供がいたら、あの子は孫ぐらいになるのかね。


 袖振り合うも多生の縁、仕方ない。

 早く帰れるようにさ、ここにババアの死体でも作ってやろうか。ちゃんと見付けるんだよ?


「……うふふ」


 化けて出てやろう。

 オッサンの枕元にでも立ってやろうかね。



  おわり。

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