第2話



忘却の彼岸。丸く丸まって膨れ上がった一つの抽象的な行幸。私に対して、正面より幾万ものナイフの刃が、恐ろしくそして尚優雅に両脇腹を突き刺すのだ。私は些細な現象だと知りながら山の谷あいから川の砂底に至るまで目を走らす。冷静に火照った感覚で探りを入れる。見つけ出した時の腕の内部機関。うだる感触は官能的で平凡で肉体を実現するようであった。朝日は遠のき、もう何巡同じ空間を巡回しただろうか。知覚を貶めて脳の化学シナプスはuploadされている。気付く間もないまま同音異義語と鮮明な写真を反復と見なす。誤りであった。数億人の人々の込めた精神と私は実際に交差していた。実直に幾度も目蓋は震え迷い戸惑った。正解を希求していながら、頑なに拒んだ。迷妄な精神は、ゾンデのように水中深く探索することを躊躇わない。英雄的称賛という勘違い。




世界をひっくり返す。人間が、人間だから行う必然性がそこにはある。胸の奥底に青年が閉じ込めた幼い微笑み。「恥」だと一喝して歯がゆさを押し留めてしまった。目くるめく未来が変わることを分かる。人工太陽が滅ぶ。とうの昔に。靴の底を擦切る土壌と落葉の文明がはじまる。つまり澄徹に焠んだ認識論の時代である。




朝日を忘れた。黎明の美しき興奮を忘れた。ただただ頭の機内には、ねじと大鋸屑が詰まっていた。自覚に負けず、心臓は貫徹して血液を送り出す。自分の肉眼で見たものだけを信じられるように。私は目を伏せた。最初から宗教的な議題であったのかもしれない。私たちは馬鹿でありたい。愚妄で愚鈍で魯鈍で。美しさは明け広げだ。快闊だ。最後の最後に忘失の対岸に立っている。機械文明を駆り立てた人間を愛くるしいと感じた時、私も又人間の細胞なのだ。だから否定しようとは思わない。私たちが生み出した原子型爆弾を恐ろしいとは思わない。正面に見据え眦を注ぐつもりだ。文明と感情は生命の母体である。




今宵はとても腑に落ちた。東の空が白みかかっている。温かい太陽が昇るのが先か、其れとも私が決断を下すのが先か。私は太陽のプロメテウスを見たいと思った。全世界の命運を背負った勝負をし掛ける気だ。尤も人間らしく在る日々。尤も人間的な考え方をずっと探して彷徨っていた。今日になって不定方程式が解けるのかもしれないのだ。私は、自分も時計仕掛けの世界機構の一箇の部品であることを直感した。何となく無意義に過ぎる平凡を享受している。私の頬からは麗しき微笑が生まれた。風は、草木に絡まりカサコソカサコソと音を立てる。なるべくたくさんのものを愛する。大多数によって人工的に示された建前であったとしても本人の清冽な泉と結んでおこう。我々のcommunityは温暖な飽和でできている。加減の総和でできている。もさっとしたババロアケーキみたいなものだ。使い古された慣用句に、蔓は巻き付き生育した植物は花開く。見慣れた日常風景の中から自我を蒸留すべきだ。物語性には一抹のスパイスが欠けている。ホットケーキにメープルシロップを一滴掛け忘れるのと同じくらい悲劇だ。日本文学の独特の浮薄さとは異なる意味に於いてである。彗星が楕円軌道上に流るる如く、情報量は次々と的を射る。月が沈めば太陽が現れるという幻想。其れは其のboaderlineの刹那を生きたものしか会得できない。揺蕩う純粋時間の流れ。数回目からはループが始まったことに気付いたか。絶対価値を取り出す土塊すらグラグラ崩れ去ってしまったではないか。土台無理な話である。幾万通りの組み合わせのプラグを檜の鋳型に嵌め込もうと計画したのだから。人種差別と性格診断。秒針と分針は軌跡を合一にする。やってみたら案外大したことなかったようだ。排水溝をぐるぐる泳ぐ渦流に、人類学の知見は収斂する。口をついて出る台詞は空々しい。ショーウィンドウに飾られた西洋人形も、食品衛生学の注意書きも。私は落ち込んで肌の表面を抓んだ。自然の静寂の呼吸音に耳を澄ました。しかし又真実味が皆無な訳でもない。黒雲の内に反転した造形美を見つける。言い換えれば不器用でぶっきらぼうな裁ち合わせの面白さ。裏返った答案用紙に対し、最低でもあと30回は確率撹拌機で交互に入れ替えてみたいと思う。問いかけようにも充電が切れたロボットは宙吊りのまま停止した。犇めき合ったシーソーのバランスゲーム。ジョッキ一杯の浄水に浮かぶ流氷。間違いが手にする吸着力は大きい。プロファイリングされたデータなどものともせず、我々は坂を転げ落ちる。惑星と恒星は同じ土くれである。「大きい」と「小さい」は尺度の幅に因る。国家形成、いや民族形成によって人間は文法の束縛など跨いでいる。極を拡大鏡で覗き込むため全体像を覆い隠している。しかし彼が考えた悩みは私の悩みでもあって、一人称はさほど問題ではない。循環するストリームが歴史には芽吹いている。鉄が錆び、橋の欄干から剥離した際、私は酸化鉄が金目鯛に映った。赤みがかった鱗が寒空に駆ける。其れは事実であった。煙草の煙は肺にとぐろを巻き誰かの心に突き刺さる。腰を下ろしたベンチの温もりは、来年の紅葉の熱エネルギーに変わるだろう。不可欠の累乗で成り立つこの世界。あっけなく終わったと即断した出来事は、地下の水道で滔々と命を伝えている。スピーカーもラジオもベストセラー小説もないから気楽だ。




私は明日の朝もフライパンで焼いた目玉焼きを食べたいと思う。いつも通り八分目に焼いた目玉焼きを食べたいと思う。もちろん今日と明日は確実に塗り替わった日付だ。在り来たりに過ぎるお願い事が、今の私にとっては一番の答えなのであろう。私は来た場所へ戻ろうと爪先を方向へ向けた。そして夜空を歩いた。耳慣れた音楽であり新しき体験であり。声は光る。特急列車の窓枠から湧き出た六等星が光る。あの光は、トポロジーで言えば押し広げ無限宇宙を括ってしまう。遠のき走ることが距離を縮める仕組みであった。空気中に舞う羽虫は、星屑でもあり、一艘の帆掛け船のカンテラでもあり、鯨の鬚板に付いた一泡であり、子供が殴り書きに用いた白クレヨンであり、小雨が降る夜の傘の破れ目であり、記し忘れた日記の寂しさである。平凡なピースを空所に嵌め合わせ衝撃の強い脚色には翻訳してくるめよう。




私はもう一度木棚の前に向かい合って立った。其の木製の把手は指で触れると、高温の赤い火花が迸った。驚いて私は、手をパチッと引き離した。私にとって、決める対象は心の中で定まっていた。正確さ以上に覚悟の点で思い切った。恐れるものなんて何もないのだ。抽斗を開き、内部には種々様々な色紙が収納されている。私が最後に選んだのは薄く色が縫い取られた日本製の和紙であった。楮を漉いて出来上がった初々しい手触りに惹かれた。心が井戸の底に落ち着く感覚がする。此の脆弱な布で私たちはくるんでしまう。己の生涯の追憶を折り込んでしまう。




私はAと対話がしたく思った。しかしAはもういない。虚ろな陽炎が部屋の一隅を占めているだけである。何故ならAは早朝のブラックコーヒーを飲みに、ファストフード店まで出掛けてしまっているのだから。選択の加減に私は迷った。ただ朝焼け前の心臓の刺激伝導系は嘗てないほど清明であったことと、また「ホットコーヒー」という単語が懐かしく思い出深い食卓を随想させたことによって、私はAの不在を快く前向きに捉えた。つまり、私とAの世界に明日も太陽が昇ることを少しく信じることができた。




壁に掛けられたフライパンの柄を私は手にした。コンロに灯を点け、フライパンが緩く温まるのを待った。そのあと、卵を一つだけ真上に割り落した。順々に熱凝固する卵白の色彩変化に私は心ときめかした。気紛れにカルダシェフ・タイプⅢの文明について考えた。不可逆変化する卵白の蛋白質を見ていると、マリーゴールドの卵黄とのコントラストに幻惑されて不意に思い出したのだ。およそ公転周期一年の第三惑星の上に乗っかって旅をしている。卵黄表面に貯蔵された遺伝情報は、鏡面を透かして遥か菩提樹の高みまで伝導している。


 


私は生物の生命連鎖を愛おしんだ。とても幼稚に明るい断面を受けいれた。人々と同じくらいに傷つきやすく、頑張って、ちっぽけな私でいたいのだ。気付けば私の悪寒は過ぎ去り、笑ったり手を繋いだりする余裕はあった。私はAと会話する必要を認めた。会話することで自分の突起状の感情が実在と調和することが予測された。けれどまだ時間は十分あるから私は気儘な襞を随意に湖水に浸らせる。のどかな休憩をとろう。とりあえず第一に湯気の立つ目玉焼きを美味しく食べる。




私はカトラリーを台版上に並列に並べる。落ちかかる反射光を眼球の視神経で捉える。目にひらめくのは金属のスパーク光であって、そのためだけに私は食器を並べるのだ。太陽光線のオレンジは部屋の内飾をくるみ込む。するとラジオから「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れてくる。どちらかと言えばdebussyの方が好きなのだけれど、なお遅く厚く感じられた。ガーガーガーガー。ラジオの音声はニュースに切り替わる。




「だから言っただろう。」


「Aは木星の着陸に成功したって。」







私は世界の美しさの過剰性に注意を払った。

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