第3話
もともと混線した複合体の継ぎ合わせなのか、それとも作為的にバインダーから抜き取られた数ページなのか、そんなことが妙に引っかかるんだ。適当であることは、地球儀の現在地と対蹠点の関係で、やはり適当と真面目はミルフィーユの多重構造を成していると思う。
私は口を開いた。
「時間って、あると思う?」
Aの細胞質からはパラパラと雨滴が滴り落ちる。トタン屋根をスキりと漉して乾いて冷涼なaufheben. ヘーゲルの精神現象学のような外界への照射、と共にまた内面への省察の関係性を具現化しているのだね。分かりやすく。無機質なあのいつかの瓦礫に付着した地衣類、其のことを思い出すね。ジェット飛行機が離陸する前のタラップを閉じる瞬間。其の細胞学的時間感覚に間に合うように、指を伸ばす。
Aの解釈はこうだ。
「まず第一義に、適当と不道徳と混沌を愛してくれ。人間が創り出した全ての創造物の円環を意識下に置いて能動的に探り合わせる。言葉が発せられる前まで、それらは人間の意識と別の処で休眠しているのだ。そして喉の奥を震わせるだろう。すると君が全然見知らぬ道化師がポンと生まれるのだ。」
「ちょっと待って。」
私は思わず言葉を挟んだ。
「Aは是々非々主義を越境して、もう一段底からnegativeを包含しているの?確かにノイズが必要なことは分かるの。私たちの知識の源泉が、不確定なピースを埋めるジグソーパズルに過ぎないのだから。けれど基底には其の人本人が最も高鳴る絶対値もあって。其れを無視して尖った混淆ばかり集めていては気が狂うよ。私は一貫して人間の個人性が存在すると思うけど。」
「いいねぇ。正に青年っていう感じだ。俺自身大分そっちの方向に偏っているけど。何よりもまず刹那的永遠が存在すること、かつ其処に重きを置くことは私たち二人が共通する点だ。又だから辛くもあるね。でもまあ此処でぐだぐだ語るっていうのも低回主義に反するのだけどね。」
私は此の間単純に頷いている。
「直截的な物言いで刺すと、君は考え過ぎなんだ。大丈夫、揶揄では毛頭ないから。人間存在の当然の帰結は”悩み”なんだ。無駄なことは、後12の12乗くらいは繰り返してもいいんだ。つまり内側と外側の復元力に耐えられなくなった時に表現する必要性を痛感するんだ。理解されることは確実に叶わず、しかし私たちは外界からの理解を欲っしてしまう。だからえらいときは、雨のそぼ降る時間に濡れてごらんよ。斯ういう抽象的な表現の方が気に入るのだろうね。いいかい、君が求めている対象はアキレスと亀のように一生手に入らない。けれど力説するのは、それでも君は手を伸ばすべきだっていうことさ。意味のない自己悶着に考え込む君を私は愛している。可愛いとさえ感じている。何故なら其の谷間は人類のidenttityの問題と結び付くと予感しているからだ。正当性を信じることができる。」
「愛されていることを疑うな。私たちは生かされているんだ。此の瑞々しい水球の中で。」
Aの言葉は自己表現に偏り過ぎていた。そして周回する銀白色の円盤。私は多元的に現状を措定した。行動はアンビバレントなものである。話さなければ伝わらないし、話したとしても傷付け合う。恐れの克服ではなく、共存を意図して多感情を内包するべきなのだ。私が考えていたのは自己嫌悪よりももっと軽々しい自己保身についてなのだから。恐怖する自己を受け止める不完全さを持つこと。そのために豊満な私の半生は費やされて来た。根幹にある人間的要素の数。哲学者は真理は唯一と語るが、私は無数にあり又実生活には余分でもあると考えていた。ただ今は感動という火花を挙げよう。自身の感動したいという欲情。其の回復力は力強い。次々と捲られる1ページ。感動を得るための契機としてならばAの行動主義は理解できる。
Aは陶器の茶碗を二つ取り出して、気儘に急須から緑茶を注いでいる。私に向かって繰り返し問うのだ。
「もっと気楽に。もっともっと気楽に。其れぐらいで、ようやく私たちは満ち足りることができるのさ。」
私もAの淹れた緑茶を有難く頂戴した。日本茶の葉っぱの香りに安心感を覚えた。自分が保育園の黄色いバッジを付けていた頃に感じた香りとそっくりだった。あの頃、私は荒い画素数で視界を捉えていた。より世界は薄ぼんやりとこじんまりしたものに映った。もちろん幾分かの愛着も持って。画壇や評論家よりも想像力が幅を利かせていたものなんだね。人間は自意識を持った途端自由性を喪失するという。本当だろうか。懐古主義の気味を私は感じる。けれど一人の人間が背負ってきた一個の人生というものには貫通する本流があるのだから、過去に源流を求める動機は分かる気がする。
時間に60進法が採択されたのは古代バビロニアからの風習だろうか。気付けば、行動を60の入れ子に振るい分け、焦ったり息苦しくなってしまう。昔高校生の知り合いが時間の虚実に対してlip serviceの議論を好んでしていた。しかしもっと心の奥に巣くう好悪の衝動を私は感じる。危ない兆候なのだ。数量や線分に全量を託すにはどうも私は一番最後のフックを掛け違う。私は何処かで不確定さと可塑性を信じていた。例えば上映中の映画を途中退出するように。映画館を出て、カフェでココアでも飲んで、伸びをして、それから又映画館の座席に座り直すように。多くのことを忘れ、その分多くのことを覚えた。
「ようやっと気づいたか。其れにしては早すぎる気もするけれど。やってみればいいんだよ。幾らでも間違いはやり直すことができる。さらに言えば、間違いは、……
…ないのさ。」
Aはズズズと緑茶を飲んで、其の茶碗を逆さに机の上に置いた。茶碗の淵が触れるコトっという音。二つの物体が織り合わせる微妙なバランス。
心臓の鼓動が耳の裏側から聴こえてくる。トク。トク。私は生きてしまう。
「愛して。世界を愛して。」
「愛してるよ。世界を愛してるよ。」
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