時間の選択(内的省察でもある)

@copo-de-leite

第1話

その部屋は何種類ものソースを混ぜ合わせたように純朴な香りがした。


真ん中に製図版があり、机が物差しが一本と消えかかった張り紙が一枚。


壁は斜めに進むにつれ空と溶け合っている。薄く白墨で塵の積もった部屋には剝離した埃が漂う。私はこの空間を少し埋め、感情で近づいた。目の前はぼやけて透析されている。


Aは両手を重ね合わせて壁に取り付けられた戸棚から取り出していた。私は其れさえ知らない。知らないんだ。本当に。


Aが取り出したのは赤くゴワゴワした色紙だった。もちろん其の”赤”は空間に馴染んで薄黄緑に変わる。Aは、其の両腕で大まかな赤紙を矯めつ眇めつする。私は少しく悲しく思った。懐かしく止まってしまうことが恐ろしかった。無粋だとさえ思えた。


私も色紙の重ねられた棚に触れた。其の引き出しは不思議に一つの膨大な把手から形成されていた。肌膚のように肌理細やかな紙片を宇宙的に拡大して、解釈は個々人に任せるのだ。今朝食べたパスタ。巻き取られたフォークの側面に突き刺さる。二重に伸縮した生身の血管と鉱石の集合体。確か其の誤差は振動数の微塵にも満たない。此の抽斗の木目の網にはあらゆる想念が綴られている。ぴかぴか映る。


庭に咲いた無花果の十字に対して綺麗に刈り取られている。スケッチブックの余白のように静かだ。私は親指の爪と人差し指を合わせ、形だけ揺すった。半分遅れていると同時になくてもよいと思った。「豊かさだ」と言ったことのある顔。赤く焼け引き延ばされた顔。周回遅れの個人にとっては、庖厨の水切り籠さえ人種を越えコーヒークリームみたいに輝く。


私は時間定理で捕捉してみた。ぴょこぴょこ蛙飛びする素因数を鏡の背面に写してみた。君は時間を燻らした。擦り切れた文字が並んだ書棚。物書きの如く初々しい唇。溢れ出す文字類が床の木目にパラパラと打ち付ける。私は床に落ちた鋲を拾い集め、繋ぎ合わせ大きな詩を作った。主題は赤く丸々としたほっぺについてだ。誠実に熟れた新鮮な性情についてだ。少しばかり立ち止まってもう一度靴の下の波紋と等しくした。私は、透明で外郎のように涼しげな円筒を両腕に捧げた。


「どうやら君は生命に対する問題を勘違いしているようなのだ。」


気になった言葉ばかりが拡大解釈されて視界に流入する。私は文字列から目を背け、床板と白壁の接合部分を虚ろに眺めた。或る時にはかたつむりと形容された思想があり、又或る時代にはラベンダーの香料で着色された形骸が懐かしさに噎んだ。真っすぐに駆け下した赤鉛筆の彩色が鮮明に書き写した。私は、其のごった煮の内から要らないものを選り分けて必要なものを掬い取る。もちろん現地点に於ける自己存在までの全ての過去が不可欠であった。何故なら、絶対量が膨らむからこそ、気持ちの本質は秋鮭として水面に跳ね上がるからである。自分が通過してきた隘路は、きっと一枚の帯というよりも、毛糸玉のような円環なのだろうと形容することができた。其の撚糸の解れを小指で少しづつ解していく。私は首を傾げたラインで姿態を創った。一人の人間としての善悪論を越えて広く人類全体としての総体をまっさらに晒したいと願った。


私が取り出した一枚の紙片の間からは、オリーブの葉が零れ落ちた。黄緑色でスフィンクスの翼みたく優雅だ。正解が出される瞬間を待っている。私は凸凹した心臓の起伏を感じ取った。其の”静”の部分を沈痛に胸の谷間に押し合わせた。何枚かは欠けて割れ、宙に漂っている。君は電気信号を無意味と見なす。だから私は反対方向に駆けて、忘れることを心掛けるんだ。一つの想念に留まるまでの思想が無数にあるのだ。道端で踏みつけ風化した石。其の石と黒炭と輻輳する前の距離は一滴であり、人間の単語の合間にひっそりと隠れる。求心作用が内側に張り付ける。太陽が投げ掛ける黒々とした影を纏う落ち葉。腐葉土の支脈に順々と流れる水滴の循環系の成分。二人の間をコロコロと駆け抜けて行く。よって点と距離は想像以上に落ち窪んだ。自分の伸ばした二の腕ではAとの道程を遮るに遅すぎた。もちろん全ての色彩に対してもである。ぼんやりとした感慨が部屋のランプを橙色に染め掛ける。熱光が過ぎて戻ってくるまでの暫時に、暗闇、眼球の奥底に舞台裏を結んだ。繋いでご覧よ。言葉と言葉の珠の鼓に豊かに針を這わせてご覧よ。未来予知さえ成就してしまう気分さ。徐に混濁して来た世界に対して、恐らく其の原因は大量生産に由るのだろう。赤く映える蛍光ペンは、相互にスクっと立ち優っている。フォークの銀紙と床にぶち撒けたクレヨン状の円柱と引き寄せられ収束する罅が厳しい。1001つ目の思考方法を、私は永遠の被写体に読み取って、それも一瞬一瞬の鼓拍が限りなく0に等しい。全てが糸杉のように繋がって、或いは譜面上を泳ぐペーパーナイフみたいだ。卵形線の表皮とくっつき合ったレトルトパッケージと下手な音声翻訳機と平行六面体が伽藍の裡で嘆き笑っている。上げる叫声は脳髄のシナプスを超過して偉大である。幾本もの有機体を見た。一幅の人生描写が虚ろな洞の内に灯っている。其の発色体に手を伸ばすという思惟さえもが人間の意識の創造物なのだ。不安定な磁気計算機の秒針の真裏に、我が靴の踵はバランスを取る。人類全域が蛇腹織に圧縮された非正規空間に宿る。生命の光芒を掴みたいと企図するならば生命の荷重は数量を乗り越えてしまう。夜の大気。次第次第に部屋は深く混迷する。


丁度外の風景は暗色だ。此の一軒の小屋と窓の外はいつも灰色なのだ。私は此の殺風景な切り絵に腕を挟み込む必要性を気付いた。賢しらに振る舞う演技が、やけに喉奥に突っかかるけれど、それでも無謀な方向に体重60㎏を傾けようと決心した。たとえ今宵一瞬間だけだとしても其れで良いではないか。現地点に明日は存在しない。条項にそう規定されている。私も、又Aも運命はかっきり計算されて途切れる。


ひょうたんが石畳の上に置いてある。戸外の石段の上には忘れられた付属物が乾燥し朽ちる。頭の中で、私は車に飛び乗り、此の儘真っ直ぐな土砂を均した。驚くほどに草原に人気は無い。すると入り組んだ墓地の中央に、それも急な傾斜面に車体は運航していく。どだい無理だと分かっていたけど、尚更其の断崖にslipしてしまおうと決行した。私は機械の出力を上げた。自動車の前輪は土砂へと減り込んで、私はこんな機械的造形はなくなってしまえばいいと思った。スピードに過敏な故に、無防備に上乗せしてしまう。界隈に人っ子一人見えないが故に、…。


”自動車旅行”という用語は、丸で土曜日の午睡のように麗らかだ。開かれた窓から太陽が冷涼に切り取られている。懈怠な分針。そして闇夜の罫線が引かれた河岸を私は好んで歩く。”自動車”も”機械産業”もどちらも架空上の生成物である。人間の精神は其の猛スピードに耐えられるほど剛健ではない。もっとずっとずっと脆い。私は川岸の岩の上までは足を延ばしてみた。磨かれた岩石の上を綱渡りしながら歩く。私が居た部屋から此処迄の道のりは、本の寝て覚める位の間隔である。染み入る足裏の感覚は意識を明瞭に変える。ちっとも水流には濡れない。其れならばと今度は靴下を脱いで水の底に足を付けてみた。最初に右の爪先から緩やかに浸した。今回は溌剌と我が身体は濡れた。畏怖が2割あり残りは安らぎであった。此の時私は自己の上空を見つめた。黒淡と低空の温度と向こう岸より遠く伸びる地平線および水の透明度。“在るがまま”に”在るがまま”が存在している時を過ごした。物事の全存在が対等に位置づけられている空間。積み重なった素粒子が無限に組み合って、此の水流も土壌も大気も皮膚も衣服も精錬してしまう。私は自意識をわすれ、すぐさま生まれ変わる。


「何度失敗してもいいのだ。そして全宇宙を接続して、全生命を受け入れるのだ。」


きっと、私は与えられた色紙と、自分の精神との間の一対一の対応付けに手を滑らせてしまった。しかし其れすらも受容して然るべきなのだろう。下手に神経質だからささくれだった関節を毛嫌いしてしまうけれども。其れが気のせいだったらいい。気のせいだったらいいんだ。タペストリーの模様の裡に擦り込まれたらいい。嘘であってほんとのような、生姜の効いたリンゴジャムのような、不完全な肉体の儘でありたい。


私は最早一個人ではなかった。人類として、生物として、生命として此の光景を固唾を吞んで見つめている。枝分かれした遺伝子の川を遡上する。きらきら光る水面を愛している。映画を再生する時にとる二つの観方がある。瞬間を愛するか、それとも結末のために瞬間を愛するか。私は其のどちらも愛おしく感じた。水が転がり波紋を投げかける。其の照射と振動数は全世界へと通じている。話は一種の動作の受け手と送り手に関する問題だったのだ。私は、脊髄を貫通する繊細で強靭な針金を意識した。生命の底に蟠る破落戸たち。飼い慣らすには遥かに不十分だ。震える腕を私は落ち着いて身長に沿わせた。「熱狂」であったり「マニア」であったり「フーリガン」であったり、此れ等の単語は何か似ている。私は振り切れずに残っている自分の精神世界の楔を認識し、とても大切なもののように感じた。熱気に惑わされず、清澄に不細工な顔立ち。人間的造形は何物にも譲れない。尤も心が躍る瞬間。繋ぎ絵や切り紙のように思い出す。全ては絡まり合って綿密に生誕する。或る日時を境に、ピンで突いた針孔に、情念の全体は注ぎ込まれる。人々は鬱屈を持っていた。屈折した理想を隠していた。言い換えれば傾倒であり、性情の欲する方向線を持っていた。膨大に溢れる本棚の中から自由に好きな章句を指向するわけだ。けれど取捨選択によって、撮り零した事々が幾千と前方に孕んでいる。気紛れの末の決断はその先の茫洋たる可能性の発見へのステップである。私は暮れなずむ夜の道をもう少し向こうまで歩いてみることを決めた。無性にそう欲した。


森羅万象の出来事を「正しさ」という鉤括弧で括ってしまうことは余りに簡単である。単純で醇正な奥深くを私は見たい。表と裏の二重性を一本の和紙で漉してしまうくらい、自己の理屈が行動で、体現が欲求であることはとても快い。太陽光線が没し、木々も鉱石も寝静まり、巨大な固体惑星は息を潜める。必要なものも含め、不必要なものは見慣れた五指から擦り抜けて行く。削ぎ落された細胞の中心に、多方位に発散する光源がある。其の一辺倒の支柱を遵奉するためのrandam性を知っているのか。君はトートロジーを恐れてはならない。循環論法を吞み下さねばならない。私は永遠を望んだ。其れは何物にも劣らない愛情と等しかった。自分一人の枠に閉じこもって、そして自由だった。細胞核の核小体より跳ねた粒子が、ゴルジ体もリボソームも絡げて高大に築き上げる。逆さに振り返って見た時に、丘陵の斜面がマーブル色に染まり行く。中核より出づる曙光が波状に凹凸面を照らし変える。生き生きとした自分の言葉。生あるうちに器用にスプーンで掬い上げる。きらめく大理石の光沢の最中で、即座に息吹を封じ込める。


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