第9話
もちろん、母親だって大好きだ。けれども、もっと根源的に父親が好きで好きで堪らない。父親を想っては、いつもその愛らしい笑顔を振り撒く。
瀬音は理解していた。
私が、この世に存在し得るのは、父親のおかげだと。
それは、遺伝子上の父親という意味をも超越した絶対だった。
そんな父親からのプレゼントは、ほとんど自分の命と同等の価値を持っていた。瀬音は紫色が大好きで、つい数日ほど前にチェック模様のバンダナを貰ったばかりだった。嬉しくて嬉しくて首や手首に巻いて歩いていた。
夏の真っ青な空から真っ白い入道雲が降ってくる。
幼い瀬音には、確かにそう感じられた。お空に浮かぶ雲は、きっと綿飴みたいにふわふわしている。お絵かきをする時には、好んでその魅惑のお菓子のような物体を描いた。
何かがおかしい。確かにふわふわしている。けれども、それはまあるくなくて、どうやら四角いようだ。どんどん大きくなっていくように見受けられる。その様子をぼうっと観察していた瀬音の耳に自転車の急ブレーキの音が響きわたる。
「危ない」
声がしたのと同時に、布団が瀬音のすぐ横を掠めた。太陽の温もりがするお布団は、そんなのんきな匂いとは裏腹にとんでもなく大きな悲鳴をあげて道路に打ち付けられた。自転車を乗り捨ててまで、瀬音のもとに近寄ろうとする足音が聞こえる。
「ああ、大丈夫だった?」
親切なその人の顔を見ようと、振り向こうとする。でも、その直前にどこからか気まぐれな猫の鳴き声がして、それで大好きな紫色のお花を見つけてしまった。好奇心から、先刻布団が降ってきたのも忘れてマンションに駆け寄ってしまう。ただ、花が見たかった。それだけの理由で、天から理不尽な鉄拳をくらうことになるだなんて知るはずもなかった。
今度は、人の形をした拳が空から降ってきた。
頭と頭がぶつかって、簡単に転ばされてしまう。少しずつ少しずつ繋がっていこうとしていた瀬音の頭蓋骨はあっけなく、破壊されてしまう。聞いたことのない音が聞こえる。父親から貰った大切な体が音を立てて壊されていく。身体の痛みよりも先に、父に対する申し訳なさから顔をゆがめる。
壊さないで。壊さないで。パパから貰った大切な身体を壊さないで。
瀬音が壊れたら、きっとパパの心も壊れてしまうから。
せっかく、せっかく、ママが一生懸命になってパパの心を治してきたのに。
どうして、パパをいじめるの? パパは、ママと会うまでずっと、ずーっとひとりぼっちで生きてきたのに。やめてよ。もう、やめて。
パパを壊さないで。
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