第7話

瀬音せのんが大変なことになってしまった。お前がいつまでもグズグズしているからだ」

 突然、見知らぬ人に責められた。確かに、近頃の僕ときたら、ただのぐずでしかない。それは、解る。しかしながら、今は手術中の身だ。同じ責めるなら、命に関わる手術中は避けてほしいものだ。手術中?

「あなたは誰ですか」

 当然の疑問をぶつける。舌打ちが聞こえる。今はそれどころではないのだといういらだちだ。

「私は狐面の御師だ」「狐。神社で、狐を見た」

 息をのむ狐面の男。

「やはり、お前の責任だ。そこで、狐を捕まえておけば、こんな事態にはならなかったかもしれない」

 さすがにそれは言いがかりだ。僕は、狐を見かけたあとで、手紙を見つけたのだから。そう反論すると、男は、ばつが悪そうだった。

「こうなってしまったら致し方あるまい。済ますべきことを終えたら、また会おう。緊急時とはいえ、手術中にすまなかった」

 男が消えると、僕の意識も麻酔に飲み込まれる。


 母が僕の名前を呼ぶ。僕は、危険な手術を乗り切ったのだ。目を開くと、涙に濡れた母の顔があった。

実範みのり、おかえりなさい。手術、成功だって」

「君はよくがんばった。実範くん」

 和泉いずみ先生。瀬音は、昔、和泉先生に命を助けられた。同じく僕もこぼれ落ちそうな命をどうにか掬いあげられたのだ。母に目を遣る。きっと僕を産んだ日、母は同じ顔をしていたに違いない。今日は、僕の二度目の誕生日。それなのに、僕は瀬音を救えないかもしれない。こんなところで、寝ているわけにはいかないのに体をおこすこともできやしない。自分の心拍数が上がるのが、病室に響く電子音を通じて解った。これも、全部、和泉先生のおかげ。嬉しいことのはずなのに、歯がゆい。電子音をかき消すように、僕は声を上げて泣いた。

 和泉は、どこにいるんだ。


「せいやくん、聞いて。瀬音ね、やっとパパにお返しができるんだよ」

 いつもの瀬音。僕の名前は、「あおたに」で「せいや」ではない。そんなことを指摘するのも面倒だ。そして、相変わらずの父親好き。僕は話半分で、でも、どこかで瀬音をうらやましいと思っている。手術中、夢の中で逢った男は言った。瀬音をが大変なことになったと。だから、こんなのはただの妄想だ。第一、今は、真夜中だ。小学生がこんなところに入り込めるはずがない。

「ねえ、せいやくん。ちゃんと手術、成功したでしょう。だから、せいやくんと瀬音はこうしてまた逢うことができたんだよ。瀬音のパパはすごいお医者様なんだよ」

 布団をめくり、瀬音が僕の手を握る。体温が伝わる。瀬音とは限らない。実際に、手を握っているのは、母でこれもまた僕の願望が生み出した幻に違いない。瀬音が大変なことになったと、狐面の男は言った。具体的には、どういうことなのだろう。今のところ、ここに居る瀬音に緊迫感はない。それどころか、愛する父親の役に立てると上機嫌である。

「和泉」

「あ、やっと、起きたね。それとも、ただの狸寝入りだったのかな」

 目を開け、確認する。やはり、瀬音だ。

 手術をしたばかりだからではないだろうが、心臓が痛む。

「お返しって何のこと」

「瀬音の命を返すんだよ」

 耳を疑った。遅れて、心拍数が急激に上がる。警告のアラームが鳴る頃には、瀬音は姿を消していた。入れ替わりに、足音がこちらにやってくる。

「和泉が」

 流れ出る涙を指で拭う。とても成人男性のものには思えない。僕の命を救った、とても繊細な手。

「また、怖い夢でも見たのかい?」

 体調に異変があったわけではないと解り、和泉先生が安堵の笑みを見せる。

「少し、ついていてあげようか」

「お願いします」

 外から椅子を持ってきて、隣に腰掛ける。

「父親の預かり知らぬうちに、君たちは随分親しくなっていたようだね」

 和泉先生の顔をまじまじと見る。とても他人の心臓にメスを入れているようには見えない。それこそ患者の身体にメスを入れることは、自分の身体をも傷付けることとほとんど変わりないのではなかろうか。

 そして、そんな芸当が可能なのは、支えてくれる家族がいるからだ。

「こんな頼りない男が主治医ですまないね。でも、オペの腕だけは確かだよ。実範くんのような重症患者を、それこそ数え切れないほど助けてきた実績がある」

「さっき、娘さんに会いませんでしたか」

 まさかという顔をする。でも、と思い当たり、顔を下げる。

「僕は見ていないけれど、もしかしたら、本当に来ていたのかもね。瀬音も、君のことが心配だったということだろう」

 唇を真横に引き伸ばし、首を振る。

「違います。和泉は、あなたの外科医としての腕を確かに信頼しています」

「そうだね」

 和泉先生が、僕の顔を窺う。

「たとえば、和泉先生が病気になったとして」

「中学生だったかな。当時は、確かに病気だったよ。毎日、苦しくて大変だった。でも、過去の話だよ。君もいずれそうなる」

 だめだ。僕の言いたいことが伝わらない。たったそれだけのことが、なんて絶望的なことか。必死になって頭上の天井を睨んでみたところで打開策は見つからない。






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