第6話

「どうして瀬音せのんが怒っているかわかる?」

 別に瀬音と婚姻関係にあるはずもないのに、妻に浮気を知られ、つめよられる夫の気持ちになる。とっさに浮気の言い訳を探そうと、白い室内を見回す。

「僕が、和泉いずみ先生に、和泉の悪口言ったから」

「どうして、それが悪いことなのかわかる?」

 瀬音の姿は、僕には見えない。糸電話で話しているからだ。瀬音の怒っている顔は、それは恐い。顔を見ずに済むのは、ありがたい。と思ったら、瀬音は病室のドアを開けてしまう。

「和泉は、僕とは面会謝絶だぞ」

「知ってる。だから、これを読んで」

 瀬音がノートを放る。手紙、その手があったか。なんだ、糸電話って。ベッドからおりて、ノートを拾う。その場で、開く。

「憎しみが消えません。今でもあなたを殴り倒してやりたいと思っております。て、おい」

 憎しみが消えないって、少年漫画か。やはり、侮れない女である。一歩、病院の外を出たら、こんな過激な女子がいるのか。恐ろしい。

「瀬音の気持ち、解ってくれた?」

「いや、悪いが、解らない。和泉が怒っていることだけは、理解できたが」

 廊下を蹴りつける音が聞こえる。ついでに、舌打ちも聞こえる。

「男って、馬鹿ね」

「男は、馬鹿です。すみません」

 しかし、相手の姿が見えないと余計に恐い。無言の圧力を感じ、ページをめくる。

「私の父は、スーパー・サブ・サージェン・精也せいやと呼ばれています。は?」

 そう言えば、そんなことをナースから聞いたことがあるかもしれない。瀬音に手をかまれたであろうナースだ。そもそも僕は、その和泉先生に執刀してもらうために、わざわざ転院してきたのであった。

「スーパー・サブとは、サッカーで活躍する選手のことです。ずっと試合に出るわけではないけれど、大切なところで自分の得意なことで、チームを湧かせる役割なのです。また、サージェンとは、外科医という意味です。何故、スーパー・サブ・サージェンなのかというと、もともと心身が強くないからです。とてもすごい技術を持っているけれど、長時間の手術では精度が低くなってしまうのです」

 素直に、納得できた。

「だから、あなたの行為は、お門違いなのです。あなたの愚行のせいで、あなたの手術ができなくなるのは、自業自得というものです。けれど、他の患者さんのこととなれば、話は別です。私の父が、手術に参加できなくて、命を落とす人が現れたとしたらどうでしょう。ますます父は自分を追い詰めてしまいます。救えたはずの命を見送ることになってしまいます。己の罪深さが理解できたでしょうか。もう一度、書きます。憎しみが消えません。今でもあなたを殴り倒してやりたいと思っております。和泉瀬音」

 瀬音はいつだって父親を想っている。それは、まるで母が子を想うように。瀬音の愛情は、逸脱してしまっているのだ。命の恩人に報いるために、自らの命を顧みない。親ならば、解る。子がそこまでしてやる理由が理解しきれない。真意を確かめたい。廊下に瀬音の姿はない。紙コップと涙が残されていた。


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