第5話
包帯の巻かれた手があった。
気を失う前、
「僕の手じゃない」
「何、言っているの。いつもの
答えたのは、目の前にある手の持ち主ではなく、母だった。
「実範くん、目が覚めたんだね。良かった」
笑いかけたのは、ナースだった。血の繋がった家族ならば、こちらの心優しい対応をしてほしかったものだ。それはそれとして、やはり、手に目がいく。
「手、どうしたの?」「これは、せの…」
明らかに、瀬音と言おうとしていたに違いない。
「猫に噛まれたの」「猫って…」なんて嘘の下手な人なんだ。疑いの目を向けられたナースはすっかり動転してしまっている。そこに、何かを置く音がする。簡易テーブルの上には、僕の夕食と紙コップがある。空いているスペースに、母が次々と缶を置いていく。
「自分を産んでくれた人に言いたくはないけれど」「どうぞ」
母は平気な顔をしている。
「ばかなの?」
母は缶を開ける音で答えた。「親に向かってばかとは、やはり実範もそろそろ反抗期なのかもね」とくとくと内容物を紙コップに注いでいる。「これは、ノンアルコールビールです」ぐいっと前に紙コップを押し出す。
「信じられない。なんて、親だ」いくら酔わない代物とはいえ、病室でビールと名のつくものを大量に飲む親がいるだろうか。呆れているうちに、母は缶一本を空にしてみせた。
「あーあ、紙コップが余ってしまった。そうだ、実範。あなた、小学生なんだからたまには子供らしいことでもしてみたら? そしたら、『普通の小学生』の気持ちも理解できるようになるのじゃない?」
一気に、顔面が赤く染まった。いきなり、訳のわからない行動をして、訳のわからない言葉を放ったかと思えば、それは全て僕の不始末を責めてのことだった。いつもなら減らず口で返すところを、返す言葉が思いつかなかった。勝ち誇ったように笑う母は、酔っているようだった。ただし、何に酔っているのかは定かではない。
「あ、ねえ。実範くん。必要なものがあったら、いつでも私に言ってね。準備するから」
何故か、必死なナース。これは、何だろう。悔しさに歯ぎしりしているうちに、母は帰っていった。残された紙コップを見ながら食事をとる。「あ、くそっ」完全に、一本取られた。食器を下げにきたナースに、僕は告げた。
「はさみとテープ。それから、たこ糸準備して下さい」「はい」
まだ若いナースは満面の笑みを浮かべた。
「和泉瀬音って、誰に似てあんなに気性が荒いわけ?」
「さあ…」昨日と同じナースは困っている。「私、
大人の女性、というキーワードがひっかかった。
「じゃあ、昨日のその風子先生なんだ。確かに、見た目だけは母親似だ」
ノックが聞こえて、目を遣る。噂をすれば影だ。
「失礼します」「でかっ」
しおらしくお辞儀をして頭を上げたのに、思ったことをそのまま口に出してしまった。風子先生は、初め、何のことか気づかず、数秒経ってから哀しそうな顔をした。「よく言われるのに、気づかなかった」と苦笑いした。この人、夫の和泉先生よりも、格段に気が抜けている。そうなると、余計に気になるのが、瀬音は誰に似ているのかということだ。遺伝でないのならば、環境だろうか。僕が考え事をしているうちに、風子先生は長い手足を折り曲げ椅子に座っていた。
「和泉風子です。娘の瀬音は、こちらの看護師長さんから、実範くんとの面会謝絶を言い渡されているので、代わりに母親の私が謝りにきました」
「そういうことか」一人、納得する。もちろん、風子先生は何のことだかわからない。「面会はだめでも、電話は禁止されていませんよね」
やはり、数秒経ってから頷く。目の前にある紙コップを手渡す。しげしげと眺め、ようやく理解したようだった。
「そういうことなら、瀬音、呼んでこようか? ナースステーションで、ブツブツ言っているからすぐ来るよ」
「いや、いいです」僕は首を振った。「ちょっと聞きたいことがあるので」
風子先生が、自分を指差す。ああ、やはり、瀬音は母親と似ている。うねる髪の毛、上を向くまつげ、バラ色の頬。風子先生は華やかな美人で、背の高さもあって、モデルをしていると言われても納得できてしまう。
「娘さんのファザコンについて、どう思われますか。実際に、腹を痛めたのは自分なのに、悔しくなりませんか」
風子先生は笑い声をもらした。
「うん、まあ、少しはね。最初に精也くんを救ったのは私なのに、何この愛情表現の違い? ってね。精也くんも瀬音もそれこそ相手のためなら自分の命なんて本当に惜しくないんだよ。でも、それじゃあ結局相手を哀しませることになるから、できるだけ健やかに生きていこうってなっているだけで」
和泉先生が中学生の頃に入院していたこと、瀬音が幼い頃に死にかけたことを思い出した。人生は、人の生き死にだと瀬音は言っていた。
「僕は今まで胸の病のせいで長く入院してきました。学校にだって行ったことがない。外の世界は知らないんです。だから、思いました。どうして、僕だけこんなに辛い目に遭うのだろうって。でも、違ったんですね。何も皆が皆、心臓が悪いわけではなくても、それこそ明日生きるか死ぬかで闘っている人はたくさんいます。それなのに、勝手に自分はこの世界から外れていると思ってしまいました」
黙って耳を傾けていた風子先生は、静かに涙を流していた。顔を向けると、「泣いたりしてごめんね」と笑ってみせた。
「ほら、よく短所もその人の長所だって言うじゃない。私はそんなの嘘だって思っていたの。でもね、今の実範くんの話を聞いたら、急に目の前がぱあって明るくなった。結局は、自分の捉え方次第なんだって」
病気でなくても、闘っている人はいる。ちょっとした違いで、人はすぐに他者を排除したがる。
「きっと物事に真摯に向き合っている良い証拠です。何を言われても気にすることはありませんよ。あなたの仕事は漫才師ではなく、医者なのだから。それに、美人な母親を持った娘さんがうらやましいです。あ、決してうちの母が美しくないという意味ではなくて」
やはり、数秒経ってから、風子先生は恥ずかしそうに笑った。
「今度こそ、瀬音、呼んでくるね」
「お願いします」
頭を下げる。そわそわしながら待っていると、再び風子先生が現れた。どうやら家に帰ってしまったようだ。あの女、やはり、食えない。
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