第4話
夏の真っ青な空から真っ白い入道雲が降ってくる。
幼い
何かがおかしい。確かにふわふわしている。けれども、それはまあるくなくて、どうやら四角いようだ。どんどん大きくなっていくように見受けられる。その様子をぼうっと観察していた瀬音の耳に自転車の急ブレーキの音が響きわたる。
「危ない」
声がしたのと同時に、布団が瀬音のすぐ横を掠めた。太陽の温もりがするお布団は、そんなのんきな匂いとは裏腹にとんでもなく大きな悲鳴をあげて道路に打ち付けられた。自転車を乗り捨ててまで、瀬音のもとに近寄ろうとする足音が聞こえる。
「ああ、大丈夫だった?」
親切なその人の顔を見ようと、振り向こうとする。でも、その直前にどこからか気まぐれな猫の鳴き声がして、それで大好きな紫色のお花を見つけてしまった。好奇心から、先刻布団が降ってきたのも忘れてマンションに駆け寄ってしまう。ただ、花が見たかった。それだけの理由で、天から理不尽な鉄拳をくらうことになるだなんて知るはずもなかった。
今度は、人の形をした拳が空から降ってきた。
頭と頭がぶつかって、簡単に転ばされてしまう。少しずつ少しずつ繋がっていこうとしていた瀬音の頭蓋骨はあっけなく、破壊されてしまう。聞いたことのない音が聞こえる。父親から貰った大切な体が音を立てて壊されていく。身体の痛みよりも先に、父に対する申し訳なさから瀬音は顔をゆがめる。
壊さないで。壊さないで。パパから貰った大切な身体を壊さないで。
瀬音が壊れたら、きっとパパの心も壊れてしまうから。
せっかく、せっかく、ママが一生懸命になってパパの心を治してきたのに。
どうして、パパをいじめるの? パパは、ママと会うまでずっと、ずーっとひとりぼっちで生きてきたのに。やめてよ。もう、やめて。
パパを壊さないで。
あれは、きっとただの悪夢ではなく、れっきとした事実だったのだ。僕は初めて、夢を見て胃の内容物を全て吐き出した。
朝の柔らかな光が、あまり似合っているとは言い辛い無精ひげを照らす。
「とんだじゃじゃ馬娘ですね」「そ、そうか」
自慢の娘と仲良くしていると病棟のナースから聞きつけ、「瀬音はどうだ」と曖昧な質問をされたので、素直に返したまでだった。
「やっぱり
「一応、確かめますけど、その風子さんも医者なんですよね。大丈夫なんですか」
瀬音には嫌味を言っても通じないので、免疫のなさそうな父親のほうに余計にきつく当たってしまう。
「うん、不思議なことに患者さんからの評判は抜群だよ」僕は、舌打ちをする。
「これだから、顔の整っているやつは嫌いだ」
悪態をつきまくりの、小さな患者に和泉先生は戦々恐々としている。
「あの、
「夜中に嘔吐したの、あなたの娘のせいです」
「えっ…」そのまま、言葉を失う。実際には、直接瀬音がどうこうしたというわけではない。だから、全ての責任が瀬音にあるみたいに言うのは言い過ぎではある。それでも、青ざめていく和泉先生の顔を見るのは、小気味よかった。
「て、あれ?」
呼吸をしていない。少なくともこの瞬間においては、得意になっている入院患者である僕よりも、主治医であるはずの和泉先生のほうがよほど病人らしい。ふらついた足取りでどうにか出口を目指すが、たどり着く前にうずくまってしまう。過呼吸を起こしていた。幸い、すぐにナースを見つけて適切な処置をしてもらう。そのために、紙袋を使用することは、僕も知っていた。しかし、その処置に必要な紙袋が和泉先生の白衣から出てきたのには、驚いた。どうやら和泉先生がこのような状態に陥ることはよくあることで、だからこそ白衣のポケットには紙袋が常備されていて、同僚であるナースはそれらの事実をよく知っているようなのだ。ナースはごく自然に対処しており、僕には感謝と心配いらないからとの言葉を残し、肩を貸し、和泉先生を連れて行った。もちろん、心配するなと言われたからと言って、心配せずにいられるはずがない。夜中に嘔吐して胃の中は空っぽだったのに、朝も昼も食欲が湧かなかった。ただ、心身ともにぐったりしていた。すっきりしないまま、時間は過ぎていった。ぼんやりした意識に喝を入れるかのように、乱暴な足音が廊下から聞こえ漏れてくる。和泉瀬音だ。扉を開け放したまま、突進してくる。
「この卑怯者、見損なった!」
激しい罵声とともに、瀬音の手提げカバンが顔にぶつかる。
「私に文句があるなら、直接言えばいいでしょう? どうして、パパに瀬音の嫌味なんか言うの? あなたのお母さんだってあなたの文句を言われたら嫌な気持ちになるに決まっているでしょう。長く入院しているからって、そんなことも分からないの?」
瀬音は、僕に今まで見せたことのない顔をしていた。悔しさに何度も歯ぎしりをしたのだろう。唇には血がにじんでいた。それよりも、僕は瀬音の目を直視できなかった。ほんの一瞬、目が合っただけなのに、さっき投げつけられたカバン以上の物理的な痛みすら感じ取ってしまったからだ。同い年の女の子の視線が、頑健な大男に殴られたのと同等の痛みを与えたのだ。すっかり、気が動転してしまった僕は、下を向くしかなかった。纏わりつくような嫌な痛みが全身を支配する。奥歯が音を立てる。こんな痛みは、今までに経験がない。不安で泣き出したい気持ちでいっぱいなのに、まばたきすら上手にできない。目が乾いて痛いのに、顔の筋肉が、全身の筋肉が言うことをきかない。
いつのまにか、僕は瀬音の発する言葉を理解できなくなっていた。何か怒鳴っているらしい。そのことは認識できるが、内容が一切入ってこない。余裕がなかった。誰かを呼ぶ声が聞こえたような気がした。白衣をはおった女の人だ。見たことはない。でも、誰かに似ている。
そこで、張り詰めていた糸が切れた。僕は、気を失った。
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