第2話

 博識な母は、何故「和泉」を「いずみ」と読むのかを説明してみせた。

 なんでも昔は漢字一文字よりも、二文字のほうが縁起が良かったらしく、偉い人の命令で地名を漢字二文字に変えようとなったそうだ。そこで、「泉」というところでは、発音は変えないで、頭に「和」という字を無理やりくっつけて二文字にしたらしい。そして、「泉」は「和泉」になった。

「ね、実範みのり、解った? だから、元気出して」

 病室のベッド脇の椅子に座った母は必死だった。解ってないなあ、と顔をしかめ頭から布団をかぶる。何も僕は「和泉」が「いずみ」と読むから苛立っているわけではない。「和泉瀬音いずみせのん」という女の子が現実に存在して、しかもその子が新しい主治医の娘だということに困惑しているだけなのだ。

「だからって、どうなる」

 口の中だけで、呟く。耳ざとい母は小声を聞きつけ、「反抗期だわ」などと騒ぎたてる。ああ、もううるさいな。

「お母さんのせいじゃないよ!」

 布団をめくり、身体を起こして叫ぶ。母は口に手を当て、こくんと頷いた。

「あまり興奮しないで。ね? お茶でも飲む?」

「水分は摂取制限があるだろ」

 母から諭されたとおり、落ち着いて言うと母は「いつもの実範だ」とにこにこした。僕も微笑み、患っている胸に手を当てる。

 この良き母のためにも、早く良くならなくては。母が歳を取ったら、今度は僕が母を背負う番だ。その日まで、僕はきっと生きる。


 案外、簡単に和泉瀬音との面会は適った。

 瀬音の母親も医師で、同じ病院で働いているので、瀬音は両親の同僚と顔見知りであり、よく病院に顔を出すためである。そして、見た目こそ似ても似つかないが、瀬音は確かに和泉先生の娘だと思わせた。

青谷あおたにって苗字、せいやとも読めるね! あ、せいやって瀬音のパパの名前なんだよ」

 とりあえず、この父と娘が相思相愛であるということだけはよく理解できた。

「だから、せいやくんって呼んでもいい?」

 呆然としていると、いつのまにか僕は「せいやくん」になっていた。何故だ、頭を抱えるしかない。腕の隙間から覗いた瀬音は、確かに父親の断言したとおり「天使のように愛らしい女の子」だった。肌は色白で、リボンで束ねられた髪の毛はウェーブがかかっていて、外国の女の子みたいで神秘的だった。

「ところでさ、和泉ん家は父子家庭なの?」

 瀬音の両親が健在だと解り切ってはいたが、あえて訊ねたくなった。

「なんで? 瀬音のママ、元気だよ?」

 きょとんとした表情が、これまた愛らしい。赤くなって顔を背けると、弁明した。

「だって、さっきから父親の話しかしないから」

 本当は「普通の小学生」の生活がどんなものか聞けると期待していたのだ。それがあまりに楽しそうに父親の話ばかりするから、ちょっとからかってみようと思った。

「あのね、せいやくん」

 大人びた声に振り返る。

「パパがいなかったら、瀬音はいないんだよ」

「そんなの、当たり前だろ。父親と母親がいなかったら、子供は生まれないよ」

 すくめた肩に、手を添えられる。

「それもあるけどね、瀬音の頭を触ってみて」

 指先に、違和感。傷跡だった。まばたきした僕の頬に、自然と涙がこぼれ落ちる。

「瀬音ね、今よりもっと小さい頃に死にかけたの。それでも、パパは瀬音を助けてくれたよ。まあ、パパが治してくれたのは、頭じゃなくて心臓だけどね」

 瀬音が微笑み、僕の涙を拭う。

「自分の子供が死にそうなところなんて見たくないはずなのに、自分で責任を負って手術してくれたんだよ」

 静かに語る瀬音の表情は穏やかで、実年齢よりもずっと大人の女性に見えた。そんな瀬音に苛立つ。

「そんなの、和泉が助かったから言えるんだろ」

 そうだとしたら、僕は丈夫な身体に産んでくれなかった母を恨んでいることになるのか。大人になって母に今までの恩返しをしたいと思っていることも事実であるのに。僕は歯を食いしばり、泣いていた。全身が震える。

「そうじゃないよ。瀬音は本当に死んでもおかしくなかったんだよ。そうなった時、パパは父親である自分が娘を助けられなかったという生涯に及ぶ後悔よりも、死んでいく娘をひとりぼっちにしたくない、きっちりと手を握って声をかけながら、瀬音を怖がらせないで看取ることを選んだんだよ。瀬音はあの時、『ああ、パパの娘で良かった』って思ったよ大好きなパパといられなくても、こんなに素敵なお別れができたら嬉しいことはないって思ったよ」

 僕の想像を越える「良い話」は、暴力的であった。

「お母さん、僕の、お母さん」

 僕だって、自分が死ぬことを考えなかったわけではない。それでも、瀬音の言葉は真実味があって、僕は自分が死ぬことしか考えられなくなったんだ。



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