御師と狐に嫁入り

神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)

第1話

 ちりんちりんと涼しげな音に、荒い息遣いが混じる。息が上がるのも当然だ。

 市内一面を見渡せる高さの神社へ参ろうと、長く続く階段を上っている最中なのだから。

 願掛け。制約が厳しければ厳しいほど、無謀にしか思えない奇跡に近づくのだと母は信じている。痩せた母の背から下りる。さすがに、子どもひとり背負っての階段はきつかったらしく、先に行けと精一杯の仕草で示す。

 参道は神様の通り道だから、真ん中を歩いてはいけないのだということを思い出し、慌てて端に寄る。その拍子に、お守りとして持っていた鈴の根付が転がり落ちる。見ると、真っ白な狐が僕の鈴をくわえているではないか。一瞬、腹が立つが、すぐにその優雅な立ち居振舞いに心を奪われる。

 やはり、狐も身分をわきまえているようで、参道の端を軽やかに駆けていく。何か古い楽器を連想させるような音を残して、狐は賽銭箱の後ろに消える。一方、僕が階段を上ると木の軋む音がして、決して美しい音色だとは感じなかった。賽銭箱の後ろを覗き込む。果たして、そこに鈴はあった。鈴と、これは紙? てのひらに全てのってしまう紙には、こう書いてあった。

「和泉瀬音と狐を遭遇させるな」

「わいずみ、せおと…。って、誰だ?」

 それにそもそも、狐に会わせるなと言われても、自分だってついさっきその狐にからかわれたばかりなのだ。唐突な依頼に釈然としないでいると、「まだ、お願いしてなかったの?」と母にあきれられた。


「ところで、君は何年生かな?」

 新しい主治医は、名乗るよりも前に、そんな質問をした。もっと重要な質問はいくらでもありそうなものなのに。「四年生です」訝しがりながらも、答えると、名も知らない主治医は、顔を明るくした。

「いや、僕の娘はせのんっていうんだけれどね、これがまた天使のように愛らしい子なんだ」「はあ…」それが一体、どうしたというのだ。

 困惑はさらに別の困惑へと変わる。

「ああ、自己紹介がまだだったね。改めてましてこんにちは。僕はいずみといいます」

「いずみ…?」

 診察室の中に、沈黙が流れる。まさか、まさかな。うなだれる僕を心配して、母が顔を覗き込む。「具合、悪いの?」「いや、大丈夫だよ」

 首を振って否定し、僕はいずみ先生に質問をした。

「いずみ先生って、名前どういう字を書きます?」

 先生は首からかけていた医療従事者用のパスをはずし手渡す。

「ほら、これで『いずみ・せいや』って読むんだよ」

 瞬間、耳鳴りがした。そんなわけはない、と体中の血液が走り回り、否定したがる。鼓動に急かされるようにして、早口で問い詰める。

、じゃないの? とか、とか?」

 猛烈な勢いで問いただす僕の横で、母が苦笑する。

実範みのりったら、前の『和』という字は読まないのよ」

 母は立ち上がった僕を座らせ、笑いながら頭をなでまわしていた。僕はもう訳が解らなくて、もはや涙目であった。「じゃあ、娘さんの名前は?」状況を飲み込めないなりにも、優しいいずみ先生は、メモ帳に「瀬音」と書いて見せた。僕の手の上には、「和泉精也」と「瀬音」の名前があり、紙片で「精也」の名前を覆うと、そこにはさっき見知ったばかりの名があった。

 和泉瀬音。

「和泉瀬音」は、「わいずみ・せおと」ではなく、「いずみ・せのん」と読むのだと知った。


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