寛容

 音が、した。

 どくんどくんっていう、心の音だ。なぜならここには、ぼくと自然のほかになにもないから。

 赤色になってしまった手を洗い流したかったけれど、天井からわずかに滴り落ちる恵では到底落とせなくて、必死に壁にこすりつけても、完全には消えてくれなかった。むしろこの赤色は、ぼくの色なのかもしれないとすらおもう。

 祭りの日がなつかしいほどに静かだ。

 にんげんひとり消えたって、きっとだれも心配しない。どうして、消えてしまったんだろうか。どうして、どうしてなの……。聞いても誰も答えてはくれないけど、教えてよ、どうか、おねがい。

 いや、違う。悪人は、この地を踏んではいけないのだ。僕は、それを行ったまで。誰に文句を言われる筋合いもなく、むしろ感謝されなくてはいけないのだ。

 この心臓の音は、またも自分に「使命を果たせ」と語りかけてくる。そういう合図なのだ。

 この町の、慈悲と、調和と、善を守らなければいけない。

 それが、それこそが僕の役目なのだ。だからしょうがない。しょうがないん……だよね?

 ぴちん、と水の弾ける音は、目を覚ませとでも言わんばかりに空洞に響き渡っていった。


   ***


 薄暗い階段を、じっとりと嫌な汗をかき、登り切った先にあったのは、壁に等間隔で吊り下げられた電球の数々、その明かりにほんのりと照らされる幅の広い道と、階段右方、いわゆる俺の来た外界の方、その片側にずらりと並ぶ扉たちだった。開いていたり、閉じていたりと様々で、人が行きかう様子が見られた。途中にあるひときわ大きな広間のようなところでは、誰かがアコースティックギターを演奏し、歌っているのだろう。人々の手拍子や歓声に紛れて、野太い男性の嫌にビブラートを効かせた歌声、そしていささか雑にも思える弦の震える音が聞こえた。

 だれも、俺がやってきたことに違和感を持っていない、そんな風にも、思えた。

 ふと、一番近くの扉が開くと、白髪交じりの茶髪の女性と、女性と手を繋ぐ子供の姿が見られた。と、思っていれば、子供はあっという間に母親の手から離れて、音のするほうへ、楽しそうに笑い声をあげながら駆けていく。

「……子どもは元気だなあ」

 少なくとも、俺よりは。

 思わず口にしてしまっていたらしい独り言に反応したのか、女性は、おおらかに笑っている。俺の方を見て、だ。

「あんた、この街の人間じゃないね! またどうしてこんなところに来たんだい」

 白い歯が見えるほどににっかりと笑っている女性は、その目から、俺に対しての並々ならぬ興味がわいているのだろうということが分かった。額から頬へと流れ落ちた汗をぬぐって、俺も笑みを返してみる。

「まあ、知り合いに会いに……ですかね?」

「知り合い? はて、誰だい。この街の人間なら、あたしも知ってると思うんだけど」

 確かに、このワンフロアがこの町のすべてだとしたら、高校時代のクラスメイトの名前を暗記するよりもはるかにたやすく、はるかに多い情報を手にできるだろう。逆を返せば、この村にそぐわぬものの存在だって知っているはず。

「俺が、思うに。その人はこの村の住民じゃないんすけど」

「おや、じゃああんたと同じヨソ者かい」

「たぶん。……日向ひゅうが、日向栄介えいすけという男がこの町を訪れませんでしたか?」

 さて、知っているか? それとも知らないか。

 真剣に悩んでくれているのだろうか、腕を組み、首をひねらせて、さっさっという土を踏む音が鳴った。だが、期待虚しく、女性は、眉を顰める。

「見ていないね……。そもそもその人がここを訪れたのは、いつの話だい?」

「えっと、四日前くらいですかね?」

 そう、四日。女性は、その数字に心当たりがあったのだろう。ああ! と声を漏らして優しく微笑んだ。

「なら、たぶん誰も気が付いていない可能性があるねぇ。そのあたりの数日間は神事で忙しかったから」

「神事?」

「この街の風習だよ。その年に五歳となる子を神様の誕生日に神殿へ送り、健康祈願をしてもらうんだ。そして慈悲と調和と善の象徴たる壁神へきがみ様と、その魂と同化しているという御子にお祈りをする。そういう、お祭りがあってねぇ」

 辺境の村には変わった風習が残っているものだが、これは何とも不思議な行事だ。

「ヘキガミサマ。へぇ……。お祭りってそんなに忙しいんすか」

「忙しいのはシサイ様くらいじゃないかねぇ。住民は、食べて、踊って、歌って、語って、描いて、見せて……別の意味で忙しいのよ」

 そう言って指をさしたのは、村の入り口に飾ってあった絵画だ。

 この話を聞いたうえで見ると、宗教画のようにもとらえられ、壁に拘束された子供は、神からの祝福を受けて、人々に崇め奉られる。そんな光景のようにも見える。なるほど、これは住民が描いた絵というわけか。しかも、神事に合わせて。

「この街は芸術が盛んな場所ってことっすね、つまりは」

「そうね。それに神事は年一のお祭りだからね。大変賑わうね」

 ともすれば、ヨソ者のことなんか気にせず、広間で皆が盛り上がっていても不思議ではないし、日向さんなら、その隙をついて、村を一通り見て静かに消えたでもおかしくはない。若干無理があるが、通らないわけじゃないだろう。

「ありがとうございます……。もう少しだけ自分で探してみます」

「いいえぇ。良ければ、シサイさんとも話してみるといいんじゃないの?」

「シサイ様。ああ、司祭様っすか」

「ええ、紫を彩る、と書いて紫彩しさいというお名前なんだよ。まあ、司祭でもあるんだけどね」

 面白い名前だなぁ。変わってるというかなんというか。まあ、話を聞いてみろって言われたなら行ってみる候補には加えておこう。もしかしたら、何か知っているかもしれない。

「ところであんたの名前は?」

一条いちじょうかなめっす。記者をやってます」

「あ、そう。一条さんね。あたしゃ、藍子ってんだい。よろしくねえ」

 以外にもあまり興味なさそうに反復し、そして右手を差し出してきた。別にそこまで長居するつもりもなければ、仲良くなるつもりもないけど、この町に知り合いが一人できるというのは悪い機会ではない。おずおずとこちらも手を差し出して、そして握った。

「どうも……」

「男にしちゃあ貧相な体をしてるね。簡単に折れそうだよ」

「こう見えても結構丈夫なんすよっ!?」

 ふと、何か鋭いものが背中に突き刺さったようなそんな感覚が起き、とっさにその痛みとものを避けるように横へ飛んだ。振り返ってみれば、フードを深くかぶり、杖を突く老婦人がそこにいて、痛みの正体はその樫のつえだということが分かった。じんわりと痛みを反芻するような感覚が背中から体中に響き渡る。

 藍子さんは、またも豪快に笑って、老婦人をたしなめた。

「あら、美青みさおさん。こんにちは。突然どうなさったんだい。彼はヨソ者の一条さんだよ」

 すると、美青と呼ばれた老婦人は、顔に濃く影を落として、しゃがれた声を出しながら俺の方を品定めするように見回した。

「みりゃわかるわい。悪意のにおいがあっちまでぷんぷんしてらんだよ。善の町にゃ悪はいらん。はよ帰らんか」

「いや、それは……」

「この人、知り合いを探しているそうだよ。ここは慈悲の町でもあるんだ。ヨソ者だからってそんなに雑に扱っちゃ神様の罰当たりだよ?」

 悪意の臭いってなんだ? そもそも悪意って、臭いなのか? 雰囲気のことじゃなくて? 見ればわかる? 全く話の内容についていけず、俺は、二人を交互に見回す形となった。

「ごめんねえ、一条さん。この町の人は、悪意に敏感なんだ。皆、神様に善の洗礼を受けているからね。別にあんたのにおいが悪いわけじゃないんだけど、気になるならあんたも洗礼を受けさせてもらいなさいな。それこそ紫彩様に頼んでね」

 眉を顰める老婦人の美青さんと、豪快に笑う女性の藍子さんは、藍子さんが美青さんをなだめるように二人だけで会話を始めてしまった。かと思うと、一度藍子さんはこちらを見やる。

「今日の夜は嵐が来るそうだから、おさにでもあんたのこと伝えておくよ。ゆっくり見回っておくれ」

「あ、はい、どうも……」

 どうすることもできずに、広場の方へと向かっていく女性らを見送りながら、俺はショルダーバッグの肩紐を強く握った。

 この町の何もかも、俺の理解の及ばない。信仰? 悪意? 善意? 慈悲? 住民はどうしてそれに対する違和感なく過ごしている? そもそも悪意の臭いがわかるの意味が分からない。

 おもむろに入り口付近に飾られた絵画を見る。

 よく見てみれば、それは存外残酷な絵のようにも見える。黒い服の男にささげられた幼子は、鎖に繋がれ、神と繋がれる。人々は、二人を総称して神とたたえ、祈り、様々な芸術をささげる。色彩豊かなこの絵は、黒い影だらけのこの空間をある意味では照らしているようでいて、この町を縛る色彩のようにも思えた。

 祈るだけで、何もしないなら、ただのキリギリスじゃないか。

 ギターを持って軽やかに歌う声は、まだまだ消える雰囲気すらなく、延々聞こえてくる。一周回ってそれが不快とすら思え、それこそ、本当の意味でが芽生えてきた。

「……祈りは無意味じゃんか。神はなんもしてくれやしないよ」

 胸元のループタイの留め具を締めるように押し上げて、じっとその絵の鎖に繋がれた子を見ていると、なぜだか、悪意のほかの感情が浮かんできた。

「そうでもありませんよ、ヨソ者さん」

「うわあっ!」

 この村の人間は、気配を消すのがうまいんすかね!?

 そう言いたくなるほど驚き、肩を跳ね上がらせて、恐る恐る後ろを振り返ってみれば、おしゃれな白髪の口髭と、黒と白の入り混じった髪の毛の男性がそこに立って、にっこりと胡散臭さすら感じる笑みを浮かべていた。

「す、すんませんっす……。はは……」

「いえ、結構ですよ。あなたが、藍子さんのおっしゃっていた一条さんですね?」

「はあ、そうっすけど」

 完全に、魂が抜けたように気力が削げ落ちて、うまく言葉が出なかった。よくよく考えずとも失礼極まりない発言だ。でも、それすら気にせず、その男性は、胸に手を当てて深々と頭を下げる。

「私はこの町の長を務めている紅太郎と申します。はじめまして」

 形式ばったその人に対して、どうにもこちらもかしこまってしまい、慌てて頭を下げ返した。

「はじめまして……。ああ、記者をやってる一条要です。この村には知人を探しにきたんすけど……よろしくお願いします」

「そちらもうかがってますよ。ええ、ええ」 

 そういうと、紅太郎さんはよろしければ、お部屋をご案内しましょう、と言って俺を町の奥へと促した。

 きっと、これが善意で慈悲というやつなのだろう。でも、どうしても俺という人間は、その裏に何かあるのではないかと疑ってしまう。どうしてかはわからない。でも、この町の人たちを本当に心の底から信じてはいけないようなそんな感じがする。

 いうなれば、急ごしらえして取り繕った善意のようにもとらえられるのだ。

 先ほど藍子さんの連れていた子どもが、渋いビブラートの男と肩を組み、歌を歌う様子が、見える。ほかのところでは少し物足りないくらいであった電球は、ここだけ異様に明るく照らされていた。そのうえ、小さな段差があり、そこがステージ上になっている。そして形も色も大きさも様々な椅子を並べて町民たちはそれを見て、聞いていた。先ほどあった藍子さんや美青さんなどは立ちながら壁にもたれかかってみているようであった。

「おや、珍しいですかな」

「珍しいというよりはいっそ羨ましいっすかね」

「ははっ、一条さんだってあの場に上がる資格はありますよ」

「俺、歌とかそんな得意じゃないんで……」

 どちらかといえば、一生アリでいたほうが気が楽だし、建設的じゃないかなんて思うのは、無粋だろうか。紅太郎さんは、それ以上何も言わず聞かず、ただ村の奥へ奥へと進んでいく。その道中、今までよく見れていなかった町を見ていると、どうやらこのワンフロアだけではなく、上に繋がるはしごや階段もあるらしく、断層のようにきりとってみたらきっとアパートのような構造になっているんじゃないかと思うと、なぜか興味がわいてきた。

「面白いなあ……本当に」

 これは確かに行ってみたくもなる地だ。今なら日向さんの気持ちもわかる。わざわざ危険を理解して来た甲斐があったというものだ。

「そうですか。ええ、そうでしょうとも。この町は、あの奥の扉以外好きにみていってくださってかまいませんよ。各人の家も、みな寛容ですから、見たいといえば見せてもらえます。三階まで行けばギャラリーもございますし、四階は書籍やら楽器やらを楽しむことができるでしょう。五階は……。いっても食糧庫しかありませんがね」

「そうすか」

 目の前に、一際大きな扉が見えて、得体のしれない怖さを感じ、鳥肌が立った。生唾を飲み、冷や汗を流しながら、見れるはずもないのにその向こうを見ようとしてしまう。

 紅太郎さんは、そんな俺の心とは対照的に非常に穏やかな笑みを浮かべた。

「その先は、紫彩様と神様のいらっしゃるお部屋です。今日はもう、お休みになられておりますでしょうが、明日であれば紫彩様もお会いしてくださることでしょう。どうぞ、あなたの欲を満たすがままに、彼とお話ししてください」

 お休みになられた?

 さすがにまだ、日が暮れてすらいない時間だ。寝るにはいささか早いような気がしないでもない。そうまでして会うその紫彩サマという人がどれほど偉いのかは知らないが、今はただ、彼に情報としての価値があることを期待するほかないだろう。

 そしてこの人も。

 慈悲深くも、余所者を受け入れてくれている点に関しては感謝せざるを得ないが、大きな扉の少し前、ほんの小さな一室の扉を開けて笑顔を向ける。臭いものには蓋を、とでもいわんばかりの扱いだ。そこで大人しくしてろ、という思いが見て取れる。彼らの住処を荒らされたくないという気持ちはわからないでもないが、それでも言葉と行動が一致していないようなそんな不気味さを感じた。

「……ご厚意に甘えて、少し休ませてもらいますね」

「ええ、ええ。わかりました。お食事も後でお持ちいたしましょう」

 仕方ないが、まあ、俺自身もあれだけの草原を炎天の中歩いてきたのだ。それなりに体力は消耗している。促されるがままに部屋に入り、紅太郎さんの手によって扉が閉められるのを確認して俺は、用意された真白い布団へと飛び込んだ。

「はあ……。疲れた」

 ここは、俺が知るにはあまりに神秘に満ち満ちている。

 これ以上踏み込めば、行方知れずの日向さんのようになるかもしれない。それはわかっているはずなのに、誰かに呼ばれているような、助けを求められているような、探求せよと命じられているような、そんな感覚がするのだ。

「カメラの電池が残っているうちに記念写真でもとっておこっか」

 鞄の中からおもむろに、仕事用のデジタル一眼レフカメラを取り出して部屋にたった一つある窓の側と近づいた。決して人が通ることを許さない程度の大きさだ。視線の先には、飽きもせずさんさんと照る太陽と、日の光をいっぱいに浴びて青々としながらたった一つの入り口からくる風に吹かれる草花、そして木々。それらを守るかのように囲う岩壁が、守護者のごとくそびえ立っている。

 ここに来るまでに、まあまあ長い階段を上った成果があったおかげか、見える景色は、それなりに壮大であった。ちょうど対面するように存在する壁の、同じ視線ほどにガラス張りの部分が見える。

 おそらくあれが、日向さんの言っていた展望台だろう。今すぐにでもそちらへと戻って、何も知らずに「仙天磨崖彫刻」を単なる文化の遺産として見て楽しむ側になりたいものだが、おそらくそれはもうかなわない。少なくとも、次にあの展望スペースへといった時には、「あそこには壁の街があるのだ」という先入観を持ってみてしまいそうだった。あるいは、その現実を知らないで彫刻を見ている人たちに対して内心マウントを取りながら見てしまいそうな、自分のみにくい欲が出てくる。

 カメラを支え、ピントを合わせ、そしてシャッターを切った。せっかく撮ったその写真を、確認する気力もないままに小さな机へと置き、仰向けで倒れこむ。わずかに周囲にほこりが舞い、太陽の光を受けながら、ふわふわと空中を漂った。

 そのまま天井を呆然と見ながら、自分に蓄積された疲労を改めて実感していると、徐々に瞼が重くなっていったのだろうと、思った。

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