絶壁
「うわあ……。ここ、今から登らなきゃいけないってこと? まじでさあ。はあ」
炎天の下にそびえ立つ深緑に囲まれた断崖絶壁を望んで、俺はため息を一つ吐いてしまった。様々な仕事道具が占拠しているショルダーバッグが一層重たく感じて、もはや引き返したいとさえ思ってしまっている。
「でも、本当にあったんだ。壁の町ってやつ。
自分の吐いた言葉を噛みしめて二度ほど頷き、わずかに黄土色の見えるけもの道へ一歩足を踏み出した。すねに当たる雑草がちくちくとしてかなりむず痒い。
せめて、程よく曇り空。湿気に悩まされることのない気候であればどれほど良かったことか! 今なら戻れる? いや、もう半分は過ぎてしまった。何も得られず戻ったのでは、徒労になってしまう。せめて少しくらい記者としての仕事を果たそうか、などと頭を回転させながらゆっくり確実に一歩を進めていた。
ことの発端は、日向
もともと日向さんは、俺と同じ出版社の人だった。後輩として大層良くしてもらった記憶もあるし、いまだに恩義も感じている。数年前に日向さんがオカルトに心酔して別の出版社へと転属してしまうまでは、よく飲みにも連れて行ってもらったものだ。
そんな日向さんから数週間前のある時、連絡が入った。内容は至って簡単で、久しぶりに会わないか? というものだった。
断る理由もないどころかむしろ、俺も日向さんに久しぶりに会いたかったから快く了承し、二人で通い詰めた居酒屋にて再会を果たしたということになる。
「久しぶりだなあ、
相変わらずの豪快さに少し圧倒されつつも、俺はその人の待つ席の向かいへ座った。
「まあ、ぼちぼちっすかねえ。面白い話は特にこれといって」
「ハハハッ! なら、お前もウチに来ないか? お前ほどの優秀な奴なら喜んで受け入れてもらえるだろうよ」
「ええ? うーん。悪くないとは思うんすけど、でも」
「でもってなんだ、でもって。お前、オカルト好きだろ? それに、ラテン語も学んだっていってたじゃねえか。ラテン語はいい。
こちらの意見を聞くことなく店員さんを呼んだ日向さんは、生二つ! と大きな声で言い放った。
「俺今日はそんなに……」
「ん? なんか言ったか?」
「いやなにも」
明日仕事があるから酒はあまり、とか、俺は元々文芸が好きで、とか、オカルトはそのついでに面白いと思っただけで、とか、ラテン語は変わった大学の教授が頼んでもいないのに個人指導をやられて、とかそんなことを言いたいとは思ったのだが、楽しい空間に水を差すのは大人としてなってないと思い、胸の内に留めた。
「で、急にどうしたんすか? ここまで呼び出したってことは直接会って言いたいことがあったってことっすよね」
「……そうだな。どこから話したらいいのかわからんのだが」
グラスを仰ぐ。そして、ガチャンと音を立て、テーブルを揺らしながら息を大きく吐いた。
「やっぱり仕事終わりの一杯は最高だな!!」
「そうっすね〜。明日が仕事じゃなければもっとよかったっすね〜」
「お? お前、明日仕事なのか?」
「まあ、はい」
「そりゃすまねぇことをしたなあ。悪い悪い」
とても悪いと思っている顔には見えなかったが、この際それはいいかと抑え込んだ。それもこの人のいつも通りだ。基本的に自己中心という性格、この人はそれでいいと思ってる。
「そうだな。本題に入る前に、お前、長野の山岳、奥地に位置する
「いや、知らないっすね……」
「はるか昔に数々の仙人が集まる谷だったという伝承が残っている町だ。じゃあそこにある
疑問系ではあるものの、こちらに発言権を与えるそぶりもなく、二度頷いて続けて話し始める。
「仙天
磨崖彫刻、大昔の人がどのようにしてあのそびえ立つ崖に彫刻しようとしたのかは知らないけど、あのアメリカだかにあるラシュモア山とやらのあれは見てみたいかもしれないと思った。磨崖仏のようなものなのだろうか、その仙天彫刻とやらも。一度は見てみたい気もする。そんな期待を込めて、適当に相槌を打ってみた。
「へぇ、どんな彫刻なんです?」
つまみとして置かれたタレの焼き鳥を一本掴み、一塊にかぶりつく。
「左には
そう言いながら、日向さんはスマートフォンでその彫刻を見せる。
へぇ、これはこれは。
確かにこれほど遠方から見ても一枚の絵画であるかのように見える繊細さと壮大さはあまり見ないかもしれない。服の紋様も一筋一筋掘られているが、ふつうこの規模なら潰れてしまうか太くなるかでもしそうなものだが、どうもその絶妙なラインを突いている。俺はあまり美術に詳しくないけど。
「凄いっすねぇ。へぇ、ふうん」
「だろ? まあ、前提としてこの観光名所についてはおおよそ理解できたか?」
「おおよそは」
「ならいい。で、本題はここからだ」
日向さんはそういうと、カバンから地図を取り出し、A4ほどの大きさに折り畳んで指を差した。
「ここが、その磨崖彫刻の場所なんだがな。ある記録によると……」
「よると?」
日向さんは、周囲を少し見渡して、俺に向かって手招きをする。もう少し近づけって? そんなに人に聞かれたくない話なんですかね。
「……いいか、誰にもいうなよ」
「はいはい」
息を吸い込む音が聴こえて、自ずと身構えてしまった。何を俺は聞かされるのだろうか、聞いて後悔しないだろうかといった不安がのしかかる。しかし、それは日向さんも一緒だったみたいだ。
唇を静かに振るわせて、言葉を放つ。
──あの場所には、立ち入りを禁じられた壁の町があるらしい。
言い終えて安堵したのか、ジョッキをあおって、その中をあっという間に空にしてしまった。そして焼き鳥の串を一つ取って、二塊ほどを一気に口に含んだようだった。
「どういうことっすか? あそこに? いやとてもそんな様子は」
「わからん。だがあるらしい」
ふと目を逸らした隙にまたもう一本と日向さんは串を手に取る。早いなあ、と思いながら俺はまだ食べかけの串から一塊を取った。
「で、どうするんです」
「何を言ってる。行くに決まってるだろう。俺はジャーナリストだ。未知があるなら知らねばならない」
「は、正気っすか!?」
「それで死ねるなら、ジャーナリストとしての本望だ」
そうっすね、あなたが生粋のジャーナリストならそうでしょうとも。でも、俺が言いたいのは、そういうことじゃない。
「日向さん、あなた奥さんも生まれたばかりの娘さんもいるじゃないすか。家族はどうするんですか」
「……お前には言ってなかったな。娘の出産を機に嫁と喧嘩して今は別居中なんだ。離婚も時間の問題だろう。仕事を優先し過ぎた結果が招いた最悪の展開だ。なら職まで失うわけにはいかない。成果を出さなければ会社すらクビになってしまう」
「それでも………。俺は言いますよ、諦めてください。俺らは人々の求める記事を書くのが仕事だ。求められていないものまで書く必要はないんすよ。しかも命をかけて」
俺は、冗談でしょ、という気持ちで少しばかり、鼻で笑う。しかし、日向さんは決して冗談のつもりなどなかったようだ。目をカッと開き、白目を血走らせながら、俺の胸倉につかみかかる。
「いかなければ、行かなければ! 今回のネタは確実なルーツがある。そういう伝承の記録に詳しい人に提供していただいた情報だ! 間違いなくあそこに存在する! お前が何と言おうとも俺は行く! それが嫁と娘のためでもあるんだ!」
「いやいや! 落ち着いてくださいよ!」
とても正気の人間とは思えない日向さんの様子に、俺はどうしたらいいかわからず、その手をはがそうともがいた。筋力の差では、決してこの人にかなうはずもない。遠回しな「離してくれ」という気持ちも込めて、その胸のあたりにある手を二、三回軽くたたいた。
「す、すまない。だが、これだけは譲れないのだ。俺は行く」
「……そうっすか」
死んでも俺は知らねぇっすよ、と口から言いかけてやめた。さすがにこれをいうのは無粋であると分かっている。
「それで、お前に、頼みがあるんだ」
「へえ、なんすか?」
聞いてなんだが、正直巻き込まれたくない気持ちがある。それすら言い出せないのは、俺の弱さかも知れない。
日向さんは、顎に手を当て首を少し傾げながら、ふむ、と話し始めた。
「一か月……、いや一週間、ちがうな、三日だ。三日。俺は、その町があることを確認したら、すぐ戻る。長居はしないつもりだ。だから、俺が向かうと言ってから三日たっても連絡がつかなくなったなら、──俺の手帳を探しに来てほしい。死ぬ前にレポートを残す。死ぬ気で、だ。そして、それを俺の勤め先に届けてくれ。きっといい記事を書いてくれるはずだ」
……。
…………。
………………。
この人は正気なのか?
しばらくの無言が繰り広げられる中、背後で行わらている宴会の笑い声が高らかに店内へ響き渡った。
「それ、同僚に頼めば良くないすか?なんでわざわざ俺に」
「頼む、お前だけが頼りなんだ。会社の奴に、もう仲間はいない。俺のことを見下してボロボロにしてくる連中しかいないんだ。でも、俺はここで結果を出さなきゃならん。このチャンスだけは逃せない。娘の養育費のこともある」
「お生憎様、俺は慈善事業はやってないんすわ」
「ただでとは言わない。俺が今回世話になったお得意様を、お前に紹介する。方法は……後で考える」
日向さんは緊張した面持ちのまま、汗をたらりと流した。俺が最後の頼みなのだという気持ちがひしひしと肌に浸透し、脳髄に刺激してくる。
ここまで言われて断るのも、酷か。しゃーない。そんな軽い気持ちを持ちながら枝豆を一つ摘んで、さやを押した。
「まあ、そこまでいうなら。……いいっすよ。約束通り、手帳を持って帰ってきたら取引先教えてくださいね」
「……! ああ! もちろんだ!」
先ほどとは打って変わって、朗らかな表情のまま涙を流すこの人の、正気のありかを探してみるももう見つからず、半ば諦めた気持ちで彼の感謝の言葉を受け取った。
「ありがとう……。一条……ありがとう……」
あの日の、日向さんを一時も忘れたことはない。しばらくして日向さんから、今日向かうという連絡が来た。
出立の連絡が来てから、四日目となる。
ああは言っても、帰ってくるに違いないと信じて能天気だった自分が恨めしい。日向さんから連絡は来ず、昨日送ったメッセージは未読のまま今だ連絡はつかず、頭を抱えた。
それでも約束を違えなかったのは、お得意様が気になったからだ。どうして「壁の町」などという秘境についての情報を持っていたのだろうか、あの日向さんがあんなにいうほどだ、根拠のある情報を掴んでたその人が気にならないはずがない。
背の高い草木を避けながら細い獣道を歩いていくと、徐々に雲間から光が差し込み、あっという間に炎天の世界が広がった。じじっ、と音を立てて蝿が近くを横切る。そしてそれを振り払えば、嘲笑うかのように草木がさわさわと葉と葉を擦り合わせていた。谷間に広がる大草原と、その先にそびえ立つ磨崖彫刻。向き合う天女と仙人の真下には静かなる水源が俗世を分つように存在している。
じっとその水流の向こうを見れば、屈めばやっと倒れそうなほどの狭さの洞窟を見つける。ほんのりと冷気が漂い、鳥肌が立つのを感じた。
「はは、まさかねぇ……?」
川は、大股で歩けば余裕で超えられる非常に些細なものだ。だが、川を渡るという行為は、俗世から浄土に行くときのように、世界を、境を変えるような恐れがある。
ふと、後ろを振り返れば、そこに道はなく、ただ嘲笑うかのようにそやそやと背の高い草木が靡いていた。
「まあ、戻れないっすよねぇ」
諦めて一つばかりため息をついた。そして大きく一歩を踏み出して──境界を越えた。
意外と気持ちは軽くて、案ずるより産むが易しという言葉の通り、越えてしまえば大したことのない境界だった。そして、その先にある暗がりへと目をやった。躊躇っていてもしょうがないと、屈みながら進んだ。
入ってみれば、じっとりとした気色の悪い空気が体にまとわりついた。
「いやあ、暑いのなんのって。なんでこんな真夏に」
袖で汗をぬぐって、火照る体の熱を逃がすため着ていたシャツの中に風を含ませるように仰いだ。早くさっさと用事を済ませて帰ってしまおう。目的は手帳だ。それさえあれば、俺がここに長居する理由はない。
断崖絶壁の幻の町、壁の町は、おそらくこの土の階段を上った先に存在するのだろう。
「土の地面にしては、足跡が少ない。一人……いや、二人か?」
目の前にあるのは、落下防止の手すりのない、むき出しの階段だ。横たわるように存在していて、かつそれは、自然の産物とでもいうのが正しいか、岩石、歪な木材、土で出来ている。しかし、もう少し通気性のあるつくりにできなかったものか。まったくどうせなら夏の海、リゾート地に行きたかった。
普段の階段とは一風変わった、あまり軽快な音のならない階段を重たい気持ちを携えて進んだ。そしてその中ほど、ちょうど入り口が見えなくなるようなその時に、俺は人影を見た。
黒い衣服を身にまとい、二つの冷たい目がこちらをまじまじと見ていることだけが分かった。いやな視線だ。この空間にはびこる水蒸気のようにじっとりと粘り気のある視線だ。
「……なにか、用でもあるんすか?」
別に立ち入りを禁じるような立て札もなければ、この土地の所有権も特定の個人ではない。俺が間違って入ってしまったのであれば、それを咎めればいいだけの話だ。わざわざ視線でアピールする必要もないだろう。
「貴方は、善人なら」
「は?」
逆光でどんな表情をしているかなんぞはわからない。だけれども、どうしても得体のしれない恐ろしさを感じる。
「貴方が、善人なら」
数段下がって、その顔を見ようとする。しかし、二度ほど瞬きしたのち、その人影は消えた。
「は、なんで……?」
すっと、背後で上昇気流が起こる。人影は、いつのまにか俺の背後に存在していた。そして、耳に息が吹きかかる。
「貴方が、善人ならば、壁に住まう神は貴方を受け入れることでしょう」
急いで振り返っても、そこには誰もいない。いるはずがない。
ただ、そこに存在していたのは、わずかな人の気配と、先の見えない、自然の産物ともいえる階段だけであった。
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