第9章 そば湯

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「えー、ミキオさん、マジかっけーじゃないすか。えぐい、ドラマみたい」

 会社の昼休み、いつもの立ち食いうどん屋で事の顛末を話すと、シゲチーはのんびりした口調で言った。いや、そんな穏やかなもんでは全然無かったんだけどな。

 あのカーチェイスは全国紙の一面トップを「白昼の逃走劇」なんつう大見出しで飾り、どっから調べたのか、ヤクザの若頭だの、ヤクがキマってただの、いたいけな少女を誘拐しただの、噴飯もんのあることないこと書かれ、俺はあらゆる週刊誌とかSNSでぶっ叩かれてたらしい。すぐ釈放されたのも影響したんだろう、逆走の刑罰が軽すぎるっつって、社会問題にも発展したみたいだった。ドラレコから取得したらしい写真も許可なくいろんな媒体に貼られちまい、申し訳程度の報道倫理っつうのか、幸いヒトミの顔だけは微妙なモザイクで隠してもらえたが、俺は指名手配犯よろしくほとぼりが冷めるまで家に籠もってた。

 会社にも一か月の謹慎を喰らい、その間シゲチーにだいぶ負担を掛けちまったんで、謝るつもりでこの話を振ったんだが、シゲチーらしいっつうか、ぜんぜん気にしてなさそうだった。

 会社は会社で呑気なもんで、謹慎処分も世論に向けての体面的なもんらしく、俺は今度ひっそり昇進試験を受けさせてもらえることになった。あの部長、年甲斐もなく真っ青なWRX STI乗って通勤してる無類の車好きだからな。ニュースで繰り返し流された俺の巧みな走行テクニックを見ただろうから、へんに評価を高めちまったんじゃないかとちょっと心配してる。あれ以来、「ベストカー」片手に話しかけられることも増えたし。しかもなぜか敬語。大丈夫かこの会社って思わなくもないが、とにかくヒトミがすげえ喜び、コンビニの一番でかいバケツプリンで前祝いしてくれた。

 次こそはがんばんねえとな。仕事中もヤフーニュース読んで毎日勉強してる。世間もやっと俺のことなんか忘れたみたいで、ニュースは誰と誰が不倫したかなんつう三文ネタばっか。もちろんそういう時事問題は食い入るように読んでしっかり抑えてんぜ。前回と違い、教養テスト対策はばっちりだ。

「で、ヒトミちゃんは、地元の高校行くことになったんすか?」

 シゲチーは口調を神妙に変えて、そう尋ねてきた。こういうとこが優しいな、と思う。細やかな気遣いができるタイプじゃなく、どっちかっつうと不器用だが、ちゃんと相手のことを思い遣ってくれる。

「うん。入ってすぐの実力テストで断トツの一位だった。やっぱすげえよ、あいつ」

 ヒトミの話をするとつい笑っちまう。照れ隠しみたいにそば湯を飲み込んだら、熱すぎて噴いた。おばあちゃん店員が俺を睨む。いやいや、毎度のことながらなんでここまで嫌がらせみてえに熱くすんだよ。また会社には遅刻だな。

「自慢の娘っすね。けど、モテるんじゃないすか? お父さん、大丈夫?」

 こら、からかうなよ。ぎゃははと笑うシゲチーの太っ腹を引っ叩いてやれば、ぽーん、と気持ちいい音が鳴った。まあ、モテるんだろうな。相変わらず飄々としてて、部活には入ってないし、授業が終わったらさっさと帰ってくるけど。メシ時以外は部屋に籠ってんのも変わんない。私立のお嬢様校に行ったマリが時々遊びに来てくれて、そんときだけは居間でくつろぎ、俺はメシ作れだの茶を入れろだのこき使われる。でも最近は、ヒトミがメシを作ってくれる日もわりとあんだよ。まだ慣れてはなくて、時間はかかるし、味も安定してないけど、俺が「美味い」っつったらすげえ嬉しそうに微笑む。俺たち、うまくやれてるんだぜ。けど、ヒトミに彼氏ができたら、俺はどんな気持ちになんだろうな。分かんねえけど、その気持ちは、ヒトミだけが俺にくれるもんだ。

「シゲチーは最近どうなん?」

 俺は軽い調子で話を振ってみた。軽い調子で返事が返ってくるもんだと思ってた。儲かりまっか、ぼちぼちでんな、っていう具合に。

 でもシゲチーは、すぐには答えんかった。相変わらず出しっぱなしの蠅取り紙を見つめた後、思い出したようにそば湯を口に含み、あちっ、て言って俺と同じように噴いた。おばあちゃん店員がわざとらしく咳払いした。

「……僕ねー、会社、辞めるんすよ」

 シゲチーはそう言って、背中を丸め、絞り出すように笑った。虚勢の張り方も不器用だった。半透明なそば湯の表面には出来の悪いコントラストみたいにあかるい蛍光灯が映り込み、ぴんと張った睫毛の影がそのなかに小刻みな波を立てた。

「子どもができたんす。そんで、地元で子育てしたいから、着いてきてほしいって言われて。長野の、なんつったかな。でっけえ湖が近くにあるとこ。実はもう三回行ったことがあるんす。親にも挨拶しました。向こうのお父さんがえぐい工場持ってるみたいで、そこで雇ってくれるみたいす。役職も付けてくれるって言ってました」

 シゲチーはしきりに瞬きしながら言った。上司とか客にどんだけどやされても平気だったくせ、今のシゲチーはすげえ弱かった。ああ、でも、シゲチー、大口の客相手には堂々としてんのに、町工場みてえな小さな客にはやたら腰が低いとこあったな。取れるとこから奪うっていう誰でもやってることがどうしてもできねえ男だった。明らかに寿命を迎えてるボロボロの製品でも、いかにも金が無さそうな作業場の片隅でようやく動いてるのを見ちまったら、平気で保証書ちょろまかして無償の初期不良交換しちまうような男だった。当然会社での評判も良くなくて、生きにくそうだなといつも思ってた。

「まじで、良かったじゃん」

 なんでそんなに落ち込んでんのか、気になったが、とりあえず思ったままを伝えることにした。つまりそれって、結婚するってことだろ。子どももいて、どうやら頼れるらしい両親もいる。金の心配もねえ、つうか、もしかしたら工場の跡継ぎになれんじゃねえの。今のしょぼいメーカー勤務からすりゃ、はっきり言って栄転だ。長野の湖っつったらたぶん諏訪湖だろ。住みやすそうないいとこじゃねえか。いったい、何を悩んでんだ。

「……僕は彼女と、してないんす」

 シゲチーの声は消え入りそうで、よく聞こえんかった。

「は?」

 すぐに訊き返す。うっせえよボロい換気扇、静かにしろ。クソったれ阪神電車、いまは通るんじゃねえ。バスもチャリもサボりの女子高生もだ。黙ってくれ。シゲチーがすげえ大事なことを俺に言おうとしてんだよ。

「……僕と彼女とは元々あんまそういうの好きじゃなくて、やっても数か月に一回とか、そんな感じだったんす。手を繋いでるだけで満足みたいな、そんなちょっとピュアなとこがあって、中高生みたいで悪くないなって思ってたんすけど。でも、どう計算しても合わない。半年ぐらいなんとなくしてなかった時期があって、どう考えても、その頃にできた子どもなんす」

 シゲチーの言ってることは最初よく分かんなかった。しばらく考えて、やっと意味は分かったけど、感情は着いてこんかった。怒りすら湧かんかった。だってシゲチーはひどい無表情で、ぜんぶの感情を吸い込むふかい穴みてえに見えたから。嘘だろ、そう思いたかったし、気のせいじゃねえの、とか言いたかった。けど、俺はシゲチーに見せてもらったことがある。いかにもギャルが使いそうな、ちゃらいキキララの手帳だった。その手帳は彼女に貰ったとか言って、嬉しそうにいつも作業服の胸ポケットに入れて持ち歩き、大事なミーティングの議事録から買い物のメモなんていうよしなしごとまで細かに記してた。カレンダーの、特に週末の四角形内にときどき現れた「H」っていう踊るような赤文字が何を意味してたのか、俺はそのことを教えてくれたときのシゲチーの真っ赤な耳たぶとともに思い出せる。しょうもないこと記録してんじゃねえよ、とか思ったけど、ちっともしょうもないことじゃなかったんだな。

「いつかミキオさんに訊いたこと、もっかい訊いてもいいですか?」

 シゲチーはそば湯のどんぶりに顔が埋まりそうなぐらい項垂れて、声を震わせて言った。何を訊かれんのかすぐに分かった。前に訊かれたとき俺は、シゲチーには分かんねえだろ、と思って、答えんかった。違う、分かってなかったのは、俺だ。そんで俺は今を持っても、その質問にどう答えたらいいのか、全然分かってねえんだ。

「血が繋がってない子どもを……ちゃんと愛せるもんですか?」

 シゲチーにはきっといろんな選択肢があったはずなんだ。子どもを認知しなけりゃ良かったし、DNA鑑定を条件にしても良かったし、彼女を問い詰めて、ゲロ吐かせて、別れるなり堕ろさせるなり、いろんな責任取らせることができた。なんなら俺に言ってくれりゃ、一発ぐらい殴ってやってもよかった。でもきっとシゲチーは、そのどれもしなかったんだろう。きっと彼女に何も言わず、何も訊かず、父親として結婚することを選んだ。馬鹿だな、シゲチー。お前ほんと、そういうとこだよ。でもきっと、すげえ悩んだんだろう。誰にも相談せず、ひとりで考えて、ひとりで抱え込んで、そんで、もう限界なんだな。

 俺は会社では、シゲチーのそこそこいい先輩だったと思う。ずっと一緒の部署で、シゲチーはハード、俺はソフト、っつう役割の違いこそあったものの、けっこう仲の良い、気兼ねない上下関係だった。回路図の見方は俺が教えたし、レジスタの意味のひとつひとつを細かに説明したし、高速信号線特有の引き回しとか、ファンモーターの銅線を使ったジャンパの飛ばし方とか、社食は不味いから行かないほうが良いとか、美味くて安くて上司の来ないメシ屋とか、寝坊したときの遅刻の誤魔化し方とか、仮眠を取るのにちょうどいいトイレの個室とか、女子更衣室を覗くのに若い子が観れる通称「明日への扉」とか、ぜんぶ俺が教えてやった。シゲチーから訊いてくることもたくさんあった。きっとシゲチーに訊かれる最後の質問に、俺は満足のいく回答を与えてやりたかった。シゲチーがこれからの未来を前向いて歩いていける回答を与えてやりたかった。

 今までのいつよりも、答えを見つけたいと思った。俺とヒトミは……。

「そば湯は熱いうちに飲め」

 ふいに嗄れた声が聴こえ、俺とシゲチーが同時に顔を上げると、そこにはおばあちゃん店員が出来のわるいからくり人形みたいなぎこちない姿勢で仁王立ちしてた。なんだ、いたのかよ。急に声出すなよ。

「青臭え話はそこそこにして、はよそば湯飲め。冷めるやろがい」

 え。話聞いてたわけ? やらしいなこいつ。耳が遠いのか、注文はよく聞き間違えるくせ、こういう雑談はしっかり拾ってんだよな。そんで、よく分からん人生訓を聞かされたことはこれまで何度もある。その割に、この店に来たことが一番多かったかもしんない。俺がシゲチーにヒトミの相談をすんのもいつもこの店だった。

「熱い。って考えたら、そば湯は飲めねえ。だから、なんも考えずに飲むんだ。火傷するかもしれねえ。けどよ、したら身体が覚えるんだ。覚えたら今度はもっとうまくやれるようになる。それが子育てってもんだ。だから、考えんな。手ぇ動かせ。足動かせ。そんで、そば湯を絶対に冷ますな」

 シゲチーが身体を仰け反らせ、ひっくり返った声で笑った。

「意味わかんねー」

 笑ってるくせ、目からぼろぼろ落ちた液体がそば湯の表面を叩いた。馬鹿、そば湯が冷めるじゃねえか、とか思ってんのに、隣で俺も同じように泣いてた。分かるよ、だって俺とヒトミは、これまでそういうふうに生きてきたんだから。手を動かすこと。足を動かすこと。愛が冷めるより前に。なんつうと馬鹿みてえだから、言わねえけど。馬鹿みてえだよな、いい年したおっさんふたりが大泣きして。こんな当たり前のことにずっと気づかねえで。ありがとな、からくりババア。初めて俺のやってきたことを認めてくれて。いつも話を聴いてくれてたんだよな。

 俺とシゲチーは憑き物が落ちたみたいにどうでもいいことを言い合って、笑い合って、今までで一番ひどく遅刻して部長に怒られた。いつもみたいに「腹壊したんです」って言い訳しようとしたら、それより先にシゲチーが「そば湯がえぐい熱かったんす!」って庇ってくれた。そうだな、ほんとのこと言えばよかったんだよな。やっぱ俺はシゲチーのこういうとこが大好きだと思った。その日は珍しくシゲチーと飲みに行った。赤ちょうちんのクソ安い居酒屋だが。結婚式には絶対行くって伝えた。シゲチーは粗悪なビール片手に顔を首まで真っ赤にして、「ヒトミちゃん、絶対連れてきてくださいよ」って何度も絡んできた。

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