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千鳥足で遅くに帰宅すると、ヒトミはまだ起きてて、ピンク色のパジャマ姿で居間のテーブルに並べてるカタログだかチラシと睨めっこしてた。カタログは車のもんで、チラシは旅行のもんだ。
あのカーチェイスの日、イズミを送っていったのを最後に、R1は動かなくなっちまった。最後まで本当にカッコつけた名車だった。もしもイズミと暮らすんなら、俺はどんだけの大枚をはたいてでもR1を直してもらったと思う。けど、そうじゃねえからな。新しい車を買わなきゃいけねえ。R1を超える車を見つけなきゃいけねえんだ。
「いい車あった?」
俺はネクタイを外すとそのへんに放り、ヒトミの隣に座ってカタログを覗き込んだ。脱いだもんを散らかすとヒトミがキレるんだが、よほど車に集中してんのか、なんも言わんかった。カタログのうえを色とりどりのふせんだとか蛍光マーカーだとかが踊ってる。隅っこには愉快な絵も描いてある。なんだこの熊、俺か? 隣の少女がヒトミか。自分のほうばっか可愛く描くなよ。けど、すげえ笑顔の絵ばっかだ。
「……このホンダのN―ONEっての、カッコ良くない?」
ヒトミが指さした車体を見て、俺はわずかに興味を惹かれた。なんとなくR1に似てる気がする。名前もそうだし、見た目があいらしく、ちんまりとしてる。そんで、色がR1と同じように真っ黒だった。廃車になったR1を見送るとき、ヒトミは俺の手を堅く握ったまま、いじらしい声で教えてくれた。「あの色はGLAYみたいで好きだった」と。この子はこんなふうに別れを切り出すんだと知り、俺はヒトミの手をつよく握り返したんだ。
「ホンダといえば走りのホンダじゃん。どのグレードも前後ともスタビライザーが装備されて、足回りがしっかりしてそうだよ。やっぱターボがいいよね。VTECの代わりに電子制御ウェイストゲートバルブが付いてんの。見てよこの軽自動車らしからぬトルク。クルコンで高速走ったらすごく気持ちいいんじゃないかな」
ヒトミは興奮気味に言った。あ? 池袋ウェストゲートパークがなんだって? 最近車のカタログばっか読んでるからか、流行りのメカの知識だけでいや俺より詳しい気がする。国産車のディーラーは全部付き合わされたどころか、ヒュンダイだとか光岡自動車なんていうマニアックなとこまで引っ張りまわされちまった。
でも口ぶりからすると、N―ONEに決めたみてえだな。いいんじゃない。俺はヒトミが欲しいと思う車を買うつもりだった。そりゃ「いすゞのエルフが欲しい」なんて言われた日にゃさすがに腰が引けるけども、N―ONE、いいじゃねえか。人生のギアをRからNにチェンジ。過去へ逆走すんのはもう止めだ、なんてな。
俺はチラシのほうに目を移す。ヒトミが旅行代理店からかき集めてきたものだった。車が夏休みまでに納車されりゃ、俺とヒトミは小旅行に行くつもりだった。
「どこ行くか決めた?」
尋ねると、ヒトミは難しい顔をして腕組みした。車のほうにばっか夢中で、旅行の計画はまだ立ってないらしい。テーブルのうえには北海道から沖縄まで全国津々浦々の名所を取り上げたチラシがかさばってる。おい、何日かけて出かける気だよ。長年貯めた俺の有給がすっからかんになっちまう。
「……諏訪湖、行くか?」
そんなことを言ってみた。自分でもちょっとびっくりした。いや、唐突すぎんだろ。いったいヒトミに何言う気だ。
「諏訪湖? 長野の? なんで?」
当たり前だが、ヒトミは目をぱちくりした。そりゃそうだよな。お前には、シゲチーの話をしたことなんて、一度もねえもんな。
俺は初めてシゲチーのことをヒトミに教えた。会社の後輩で、俺より一回り年下で、頭をいつもジェルワックスでつんつんにさせてて、よれよれの作業服がばっちり似合ってて、心が大きくて、気が小さくて、半田付けが上手くて、人付き合いが下手で、そんで、いつもヒトミの話を聴いてくれてたたったひとりの男のことを伝えた。「そういうとこっすよね、ミキオさん」っていう彼の口癖も。最後に彼が伝えてくれた言葉も。
「馬鹿、そういう話、他人にしないでよ」
ヒトミは恥ずかしそうに笑い、俯いて肩を震わせた。俺もこんなこと、言うつもりなかったよ。けど、今なら言ってもいいかなと思ったんだ。それに結婚式っつうのは、家族で行くもんだろ。
「いいよ、行っても。わたし、そのシゲチーさんに、会ってみたいな」
ヒトミは頬が白桃のように色づいた顔を上げ、だいぶ長くなった髪を掻き分けながら言った。すっかり大人っぽくなったな。けど、牛乳ばっか飲んでるからか、ミルクみてえな甘い匂いは赤子のときから変わんなくて、俺はやっぱこいつが大事だと思う。
「会って、どうする気だ?」
俺はその場面を想像した。ずっと自慢してきたシゲチーに、初めてヒトミを会わせる場面を想像した。やっぱ緊張すんな。シゲチーは何て言うだろう。かわいい、って言ってくれるかな。悪くない顔だと思うんだけどな。これまでハードル上げすぎたからな。
「もちろん、ミキオの悪口を言うよ。いっぱいね」
ヒトミは緩くはにかんだ表情のまま、むりやりみたいな意地悪い口調で言った。そうか、シゲチーっつうのはそういうの、全部受け止めてくれる男だぜ。「しょうがないっすよ、ミキオさんは、ヒトミちゃんのこと好きなんすから」なんつって。自分の口からは言えねえから、ひとつ頼むわ、シゲチー。俺の知る限り、誰よりもロマンチストだったな。
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