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「ミキオー。怒った? 怒んなよー。お前、心が狭いんだよ。男としてサイテー。だから出世できないし、いつまでも平社員なんだよ。おーい、聞いてる? よっ、甲斐性なし。窓際族。キングボンビー。おい、なにか言えよ、ニセ古田新太」

 ヒトミのからかいを背中に浴びながら、俺は廊下を早足で歩いた。早足っつっても気持ちだけで、右足を庇ってると歩くのはむっちゃ遅く、ヒトミが後ろから阪神高速のエルジョイントかましたデコトラばりにさんざん煽ってくるっつう屈辱的な道だった。わざとなのか、バタバタした足音がいつもよりうるせえ。こいつ、ほんとにいい性格してんな。つうかちょっとでもこっちが弱いとこ見せたらとことん急所突いてくんのな。知ってたけど、絶対こいつにだけは老後を任せたくねえって改めて強く思った。

「お前、もう、帰れ!」

 精一杯言い返してみたが、語彙力が貧弱で、情けねえ。

「えー、せっかく車で来てんでしょ? ついでに連れて帰ってくれたらいいじゃない」

 ヒトミは猫なで声で言った。畜生、こいつ、車のことになると甘えてくんだ。普段は素っ気ないくせに、俺が車に乗って出かけるっつうと、仕事以外ならたいてい着いてくる。俺のR1にも「マクロちゃん」(真っ黒いから)なんてセンスゼロの名前付けやがって。FMトランスミッターでGLAYの曲をかけてくれんのは助かるが、それ以外はてんで役に立ちゃしねえ。方向音痴だから道案内はでたらめだし、ちょっと長く走りゃ寝るし。起きてたら起きてたで絡みがうぜえし。

「駄目だ。帰れ! ひとりで歩いて帰れ! 運動して痩せろ!」

「えっ、ひどくない? わたし痩せてる方なんだけど。悔しかったらわたしが太るぐらい食べさせてみろよ」

「うるせえ、今夜はメシ抜きだ!」

「最低。DV。ネグレクト。モラハラ。仮性包茎。馬鹿」

「いま一個言っちゃ駄目なやつ言った! つうか何で知ってんだよ!」

「見た」

 俺たちが盛んに言い合いながら車に向かって歩くと、R1の隣に女子生徒が立ってるのを見つけた。彼女は俺を見つけると、驚いたみたいに目を見開いて、ぺこりと大きく頭を下げた。え、誰だっけ? 俺を待ってんの?

「マリーじゃん! まだ帰ってなかったんだ!」

 ヒトミはそう言って、彼女に笑いかけ、ちっちゃな手を蝶々みたいにひらひら振った。おお、あのマリか。相変わらず綺麗だな。俺が右の太ももを傘でぶっ刺して以来、会ってなかった。まああれは別にマリは悪くないけどな。どっちかっつうと、いい歳してさんざん暴れた俺が悪いし。いま思ってもあれは相当にカッコ悪かったから、マリに会うのは恥ずくて、早く立ち去りたかった。

「トミー、あのね、おじさまとふたりにしてもらっていいかな?」

 マリは神妙な低い声で言い、俺とヒトミとをおそるおそる見比べた。形のいいまぶたが見開かれ、まばたきするたびデラウェアみたいに深い色の虹彩が揺れる。

「もちろんいいよー。わたし、M女受けることになったから、必死に勉強しなきゃだし、図書室で勉強してから帰るから。なんか美味しいものごちそうしてもらいなよ」

 ヒトミは軽い調子で即答し、満面の笑みでマリの肩をぽんぽんと叩いた。いや、断れよ。お前のメシどうすんだよ。あと、M女受けるっつったって、俺は足の治療してもらう気ねえかんな。だいたい、金ねえし。

 ヒトミは車の鍵をかけてないのをいいことに助手席の扉をいきなり開け、手早くシートを前に倒した。俺があっけに取られてるうちに、マリはするりと後部座席に滑り込む。ヒトミは痴漢みたいな手つきで俺のケツをさすりながら、耳元で、

「男見せろよ」

 と意味分からんことを言い、バタバタした駆け足でぴゅーっと去っていった。うわあ、勝手な奴。こういうとこだけは親子なんだよな。

 後部座席に座ってシートベルトも掛けちまったマリを今さら引きずり降ろすほうが面倒くさいんで、俺は仕方なく、車を走らせることにした。まあ家まで十分もかからんし。さっさと降ろして、サヨナラだ。

 ふいにデジャヴに襲われた。俺が右足に傷を負ったのも、同じシチュエーションだった。俺が足を怪我したのは、あのとき、決定的な何かを間違ったからじゃなかったのか。だとしたら、それをやり直すことで、俺は右足の傷を癒やせるんじゃないか。少なくともヒトミは、それを期待してるから俺がマリを送っていくよう仕向けたんじゃないのか。

 下らねえ。俺は軽く舌打ちをして、R1を走り出させた。スバル自慢の直列四気筒のエンジンはぶおんと音を立てて噴き上がった。中学校を囲む排水路に沿って走る細い一方通行の道を、ちっちゃなR1は気持ちよく駆け抜ける。ヒトミには悪いけど、俺も相当に天邪鬼なんだ。お前と同じでな。だからお前がいくら足を治せっつったって、俺には全然、その気ないよ。そもそも、治す理由がねえんだ。治さない理由はあったとしても。

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