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 進路指導室は本の森って感じだった。俺は本を読まねえから、体がますます強張っちまう。天井までぎっしり本で埋まった棚の間をすり抜けると、奥にはこじんまりとしたスペースがあって、ちっちゃな学習机がふたつ真四角になるよう並べられてた。脇にはでっかい錫色のやかんが載った円筒形の灯油ストーブがしゅんしゅん唸ってる。なんか、子どもの頃に遊んだ秘密基地を思い出すな。自分の秘密基地っつうのはすげえ居心地いいんだが、他人の秘密基地に入る時はむちゃくちゃ気後れがすんだ。金持ちの森川くんの秘密基地がちょうどこんな感じだった。書斎の奥にある息苦しい空間。トイレに行きたくて仕方なかった。

「あ、ヒトミちゃんのパパですよね。てっきり古田新太かと思いました! どうぞどうぞ、座っちゃってください」

 向かいに腰かけてる担任の先生がおどけた調子で椅子を勧めてくれた。ヒトミがぷっと笑う。やめてくれよ、会社でもテレビに古田新太が出てるとよく冷やかされんだよ。それにしても、若え先生だな。独身かな。ファンデーションも塗ってなさそうだけど、しみひとつない肌がきれいで、笑うと形のいい八重歯が覗く。背がちっちゃく、動きがぴょこぴょこしてて、小動物みたいで愛らしい。アニメみたいなふわっとした声が気持ちよく耳に響く。ああ、こういう先生なら生徒に好かれるだろうな。俺も顔を合わせるなりわずかに緊張が和らいで、肩の力が抜けるのを感じた。

 ヒトミがまず椅子に座って背筋をぴんと伸ばし、それから俺がのそりとした動きで隣に座り、所在なく猫背を丸めた。机の上には体裁の立派な二つ折りの厚紙が俺のほうを向いて開かれてあり、ヒトミの成績票だと分かった。俺が前に見たやつよりも新しくなってるな。ヒトミの成績はますます伸びてて、総合の順位では学年三位、英語と数学は一位だった。

「ヒトミちゃんはねー、はいっ、見てのとおり、花丸マーケットです! 英語と数学の成績がすっごく良いんだよね。超がんばってるもん、言うことありません。まーぶっちゃけ、うちの中学は公立だしレベル高くないんで、学内の成績は当てになんないんですけど、内申点としちゃむしろ有利だしね。それに、県内の統一テストの成績もトップレベルなんで、えー、試験で英語と数学を重視してくれる高校受ければ……ワンチャンあるでしかし!」

 先生は敬語とタメ口と絶妙に似てないモノマネを交えながら大げさな身振りで成績票を示し、いくつかの私立高校の名前を挙げてくれた。俺が考えてた高校よりもレベルが高い、関西屈指の進学校ばっかだった。ヒトミ、すげーじゃん。

「ユウコちゃん、わたし、地元の高校に行くよ」

 でも、ヒトミはきっぱりとした口調で言った。それは本当に、きっぱりとしてて、俺と話し合ったときよりよっぽど力強く、ああ、本当に、決めたんだな、と思った。

 先生は俺のほうに目を向けた。そんな目で俺を見ないでくれよ。俺に恃まれたって、どうしようもねえよ。俺にできることなんて、もう無いんだよ。これまで必死にやってきたんだよ。分かってくれよ。認めてくれよ。許してくれよ。

 先生の目線は、ちら、と、ヒトミに移された。ヒトミはわずかに頷いたような気がした。再び俺に向けられた先生の目は、尋ねてるんじゃなく、試してるみたいだった。心配と信頼が半分ずつ混ざり合ったような目は、俺がヒトミと一緒にいるとき、いつも周りから浴びせられてたものかもしれんかった。

「ヒトミちゃんは、もしパパが足の治療を受けてくれるなら、M女子高に行くって言ってます」

 先生の言葉を聴いた瞬間、俺の右足は激しく震えた。M女は関西で一番レベルが高え女子校じゃねえか。いくらヒトミでも無理だと思ってた。しかもM女は、他の私立校と違い、浜かもめ団地から通える距離にあんだ。

 試してやがる。先生が試してるんじゃねえ。他の誰が試してるんでもねえ。ヒトミにとって俺はどういう存在であるべきなのか、俺はずっと試されてて、誰よりもそれを試したがってたのは、他ならないヒトミなんだ。

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