5

 中学校からマリの家まで、車ならわずか十分。まあ歩いても行けるような距離だ。ただし、それも道が空いてればの話で、ちょうど帰宅中の車の渋滞に引っかかった俺たちは、十分経っても二十分経っても幹線道路をのろのろと走ってた。片側三車線もある道路がぎゅうぎゅうに埋まってる。一面、苛立たしげに明滅する真っ赤なブレーキランプの群れ。ちょうど阪神高速の高架の下を走るこの道路は、「阪・神」の名の通り都市間を繋ぐだけあって、混む時はほんと激しく混むんだよな。渋滞の妙っつうのか、だいたい逆方向は羨ましいぐらいガラ空きなんで、いっそ逆走してやりてえ。はあ、と溜息を吐く。何で音楽がかかってねえんだよ。気詰まりだろ。こんなときぐらい、ヒトミが車内にいて和ませるべきだろ。いつもみたいにだらだら長いくせヤマもオチもねえ与太話してよ。あの気の抜けた無意味さがいま欲しい。そもそも、何でマリが後部座席に乗ってんだ。R1のその席は、ヒトミしか座らせたことがねえんだよ。

「マリってさあ、ヒトミと仲良いんだな」

 なんも話題がねえと俺のがしんどいから、無難な話題を振ってみた。本当にどうでもいい、内容のねえ話題。

「あんなことがあったら、トミーと仲悪くなっても、仕方なかったですよね」

 マリは重々しい口調でそう返事をして、車内の雰囲気は熟年カップルの別れ話かっつうぐらい重くなった。うわ、そっちに持って行っちゃうのかよ。つうか、何も話してもそっちに誘導されそう。もはや、何も話しかけねえほうがマシだった。

 経緯としちゃ、マリのせいで俺の足がイカれたことになってんのかな。原因ではないが、いちおうきっかけではあるな。「引換券だ」っつうマリの言葉がトリガになったわけだし。だから今日はそのことで謝られるんじゃないかって、そんな予感はしてた。でもそれはまるっきり見当違いだし、謝られたとしても、「イインダヨベツニ」って答えて終わりだ。謝って欲しいとしたら、それとは全然別のことだ。そんでもしそのことを謝られたとしたら、俺は簡単には許さねえと思う。

「あたしは結局、トミーには謝ってないんです。トミーが教室で雑談してたときに、おじさまの足が悪いっていうのがたまたま耳に入って、それでもあたしは謝れなかった。あたしのせいだって分かったけど、何も言えなかった。だって、言い訳のしようが無かったし。それに、あんなことがあっても、トミーは今まで通り、あたしのことを友だちとして大事にしてくれたから」

 そう口にした時のマリの顔は、ルームミラーを見なくても想像できるような気がした。きっと背後のレクサスのフロントフェイスみてえな、いかめしい顔をしてるんじゃねえかって、そう思った。俺はマリを全然信用してねえけど、その表情だけは信用できる、っつうか、信用したいって思った。

「ヒトミはさ、雑談してたっつうより、マリに聞かせたかったんだと思うよ。俺の足が、悪いってこと」

 いろいろ言いたかったけど、それだけを伝えた。ちょっと意地悪だったかもしんない。でもそんぐらいは言ってもよくねえかな。俺も怒ってないわけじゃねえし。

「あたしもそう思います」

 マリはそう言って、斜め掛けのシートベルトをぎゅっと握り締めた。車は少し進んだ。どっかで事故があったのか、けたたましいサイレンの音が遠のいてく。

「ヒトミはそういうとこあるよね」

 俺がふっと笑って言うと、マリが小さく頷いたのがルームミラーの端に見えた。そういうとこ、って分かってんのかな。俺はまた笑う。さっきより、ちょっと嬉しそうに。だってそのことは俺が一番分かってると思うから。でもまあ、マリが俺の十分の一でも分かってるんなら、マリはきっとヒトミにとって大事な友だちなんだろう。

 ヒトミは意地悪で、無気力で、無趣味で、人に興味が薄くて、人を人とも思ってなくって、でも情の深いとこがあって、友だち思いで、人を切るのが苦手で、思い切り不器用で、そんで、可哀相なぐらい強い。

「ごめんなさい」

 マリは項垂れて、そう言った。泣くかな、と思ったけど、たぶん泣いてなくて、それは立派だと思った。車はまた少し進んだ。

「謝るんなら、ヒトミに謝って欲しいな」

 俺は本革巻きのステアリングのしっかりしたステッチを指先で定めながら言った。どっかから高音の抜けたトンチキなクラクションが聞こえる。まあ待てよ、もっとゆっくり行こうぜ。いいじゃん、たまにはこんな時間があっても。ほら、夕陽が綺麗だし。

「トミーは、おじさまのことが好きなんですよ」

 いきなりそんなことを言われて、アルミパッドのブレーキペダルをぺったんこの靴底が滑りそうになった。慌てて強く踏み直し、車ががくんと停まる。こいつ、えらいこと言うな。つうかそんな恥ずかしいことよく言えるな。大人びて見えても、やっぱ中学生なんだな。それに、それはちょっと違うと思ったけど、否定すると意識してるみてえだから言わんかった。冬の夕陽はすぐに落ちて、西の空はあっという間に色合いを変えてく。時間が早回しみたいだった。これまでのヒトミとの遣り取りを一気に思い出して、やっぱりちょっと違うと思った。

「トミー、いつもおじさまの話してますよ」

 マリはくすっと笑って言った。何が可笑しいんだ、と思ったけど、気づいたら俺も笑ってた。

「どうせ悪口ばっかだろ?」

 俺はそう尋ねる。

「はい」

 そういう返事を期待しながら。

 それから俺とマリはヒトミの話をたくさんした。学校でのヒトミのことをたくさん教えてもらった。俺は俺の知らんかったヒトミをたくさん知った。でも、俺は知らないヒトミよりも、知ってるヒトミのがずっと多い。そのことを俺はマリに教えた。マリは驚いたり、笑ったりした。わたしのイメージが崩れる、なんつって、後でヒトミに怒られるかもな。まあいいや、おかげで会話が弾んだ、って言っときゃ、機嫌は治まるだろ。あいつは褒められるのにすげえ弱いから。

 陸橋に囲まれた大きな交差点を左折して湾岸道路に入ると、工場地帯だからか車は一気に少なくなった。トレーラーも通過するため幅広に作られた片側一車線の道を加速しながら、俺はラジオを点けてみた。普段はヒトミのアイポッドもどきに連動させてるチャンネルを別のチャンネルにスキャンする。カウントダウンするデジタルのチャンネル表示が78.7に止まったと思うと、GLAYが流れ出して笑った。これ、いつもヒトミが掛けてくれる曲じゃん。

「あ、この曲、俺とヒトミが一番好きな曲なんだよ」

 俺はマリにそう教えた。GLAYのアルバムはいくつか持ってるんだが、そんなかでも俺たちが一番気に入ってんのは、GLAYの最初のベストアルバム「REVIEW」。GLAYのまさに全盛期に出たアルバムで、あの頃、中高生たちはこぞってこのアルバムを聴いた。俺はヒトミがどういう趣味を持とうと知ったこっちゃないし、趣味が被っても嬉しくないっつうか、なんならちょっとうざったくもあるんだが、ヒトミがGLAYを気に入ってくれて、「REVIEW」を一番好きになってくれたのは嬉しかった。なんか、俺の青春と、ヒトミの青春が繋がってる気がしたんだ。こんなこと思うのはおかしいかな。

「この曲、おじさまとトミーの関係に似てますね」

 サビを聞き終えた後、マリはそう感想を漏らした。「REVIEW」の九曲目。GLAYで一番有名な曲。そんで、俺たちが一番好きな曲。マリの言葉で、俺はどうしてか泣きそうになった。ほんと、年は取りたくないもんだな。しょうもないことで、どうしようもないことで涙もろくなる。マリの声はやっぱりちょっとイズミに似てる。

 ライトを点けてハイビームにした。すっかり暗くなったアスファルトを真っ白いライトが切り裂く。R1のエンジンが吠える。実は軽自動車の四気筒エンジンは低回転のトルクが薄く、スーチャで補うんでなけりゃ、あんまり速くない。でもマリがそう言ってくれたから、今はむちゃくちゃ速く感じられた。中学校で好きな子に告白した後、全速力でチャリを漕いで、赤信号をクラクションのなか突っ切ったことを思い出した。そん時は、しっかり振られたけど。それに、いまは赤信号でもちゃんと停まる。大人になった。それでいい。だから優しくできることもあるから。

「トミーは、いじめられてなんか、ないんです」

 マリのマンションの豪奢なエントランスに車を停めて、マリを降ろす前、やっとそのことを教えてくれた。そうだろうな、と思ってた。ガチでいじめられてたら、ヒトミは絶対、俺に言う。俺たちは父娘でも家族でもねえけど、俺らなりにちゃんと積み重ねてきたもんがあるんだって、そのことだけは信じてる。なあ、ヒトミ、そうだよな。俺らの関係はぐだぐだだったが、ぐだぐだなりにいろいろ乗り越えてきたよな。

「ごめんなさい。あたしはあの頃、トミーが羨ましくてしょうがなかった。おじさまのことを嬉しそうに語るトミーが憎くて苦しかった。だってあたしは、父親と全然うまくやれてなかったから。前に話しましたよね、父親、医者なんです。だからか、相談してもあたしのことを患者みたいに見てるところがあって、そこがすごく嫌だった。でも、トミーとおじさまの関係は違った。ふたりとも、お互いをちゃんと見てるんだなってことが、話を聞いてて伝わった。あるとき、トミーが教えてくれたんです。『わたしとお父さんは、本当は血が繋がってないんだよ』って。そのときの、照れ臭そうなはにかみを見て、あたしはもう我慢できなくなった。クラスのみんなにバラしたんです。トミーのお父さんは本当のお父さんじゃないんだよって」

 俺は頷きながら、何も言わないでおく。マリとヒトミの話だから、俺が言えることでもねえし。ただちょっと、やっぱムカついたかな。やっぱり許せねえとも思う。あの夜のやりとりを通じて、マリがヒトミを羨んでることは分かったし、ほんとにいじめてるのはマリなんじゃねえかなってことも想像はしてた。ただ、俺がヒトミの父親じゃねえってことを使ったのは許せねえ。それをされたときのヒトミの心中を慮ると、俺は頭んなかがぐちゃぐちゃになる。だって全然わかんねえもん。

「それで、おじさまが助けてくれたあの日。クラスのみんなで遊んでるとき、男の子がトミーに言ったんです。『お前、父親と血が繋がってねえんだろ』って。内容はともかく、悪意のある言い方じゃなかった。悪戯して構ってもらいたいみたいな、そんな口調だった。その子、トミーのことが好きだったんです。でも告白してもあっさり断られて、話しかけても気のない素振りで、そういうのが溜まって、どうにかして気を惹きたかったんだと思う」

 少年の気持ちはちょっと分かる。俺も中高んときモテないほうだったし。悪戯して気を惹くってのは中学男子にしちゃ幼稚な気もするが、あんまり女子に無視されりゃ、子どもに戻っちまうのが男ってやつなんだ。

「そしたらトミー、ブチ切れて。トミーはいつも明るくて、優しくて、みんなから愛されるいい子だったから、あんな風にキレるとこ、初めて見た。怖かった。何よりも、あたしのせいでトミーがここまで怒るんだってことが、一番怖かった。トミー、男の子に飛び掛かって、馬乗りになって、ボコボコに殴ったんです。他の男子が止めようとしたけど、トミーはお構いなしで、みんなぶっ飛ばしちゃった。あの日、トミーも怪我してたと思うけど、男の子の怪我のがずっとひどかった。前歯が折れた子もいたらしいし」

 俺もヒトミがマジ切れするのは見たことないから、想像できんかった。でもヒトミがキレるとしたらそこだろうな、とは思った。俺がヒトミのマジの父親じゃないってことを、ヒトミが俺に尋ねたことはねえ。キレる理由は分かんないくせ、その重みは分かる。だって俺はその重みを知ってる。俺がヒトミの父親じゃねえっていう、そのことを気にしてるのと同じぐらいの重みで、ヒトミはそのことを気にしてる。金がなくって、いろんなもんを半分こしてきた俺たちだ。目に見えないもの、耳に聞こえないもの、さわれないものすらも、俺たちゃきっと分け合ってるに違いないんだ。分けれるはずのないもんですらな。

「で、最初にトミーに殴られた男の子がね。『本当の父親なら、キスできるはずだぜ』って、そう言ったんです。本当の親子っていうのはそういうもんだって。キスぐらいしてもぜんぜん平気だって。それができないなら、嘘だって。汚れてるって。そう言ったんです。あんまりな言い方だった。あんまりにやらしくて、やるせなくて、かわいそうな言い方だった。でも、この子はきっと、本当にトミーが好きなんだって、そう思った」

 馬鹿か。なんてこと言うんだ。

「んで、ヒトミは、なんて答えた?」

 ずっと何も言ってなかったからか、俺んなかで何かがくすぶってんのか、ひどく乾いた声が出た。

「できる、って。トミーは即答しました。それが一番羨ましくて、あたしはおじさまにひどい嘘をつきました。ごめんなさい。許されないと思うけど。誰よりもトミーが許してくれないと思うけど」

 できるわけねえだろ。手を繋いだこともねえ俺たちだぜ。父娘として完全に機能不全なんだ。そりゃ物理的にゃ簡単だろう。でも俺たちがそうしたとき、きっと失われる。「キスぐらいしても減らない」ってよく言うけど、ちゃんと減るんだ。あれと同じもんを、俺とヒトミはきっと失う。そんでそれは取り戻せない。ああそうじゃねえか、ヒトミ、お前だって、分かってんだろ。俺たちゃ、父娘なんかじゃ全然ねえんだよ。

 結論出たな、と思った。もうそれ以上に言うことも訊くこともなかった。車内は静まりかえって、四気筒エンジンのアイドリング音だけが頼りなく息を切らしてた。マリが申し訳なさそうに「そろそろ行かなくちゃ」と言い出して、俺は「すまんな」と応え、助手席のシートを前に倒し、ドアを開けてやった。R1はスリードアなんで、こうしてやらねえと後部座席の人は降りられねえんだ。

 マリは車外に降りても、なかなか去って行こうとしなかった。俺に気ぃ遣ってんのか。まあ俺は感情を隠すこともできねえクソだから、表情見たら心配になったかもしれんけどな。いいんだよ、ほっといてくれ。もう全部、分かったから。

「じゃあ」

 そう言って、助手席のドアを閉めようとすると、マリの手がそれを制した。目線だけ上げてマリの表情を窺うと、なんでか微笑んでた。ふふ、という大人びたその声に触れ、俺んなかのイズミがまた大きくなった。

「トミーがヒトミルクって呼ばれてるのは、胸が大きいからじゃないんです。トミーが牛乳を好きだから、そう呼ばれてるだけなんです」

 マリはそう教えてくれた。そうだな、ヒトミ、牛乳大好きだもんな。毎日魔法瓶に牛乳パック1リットルぶん入れて学校に持ってってるし、それじゃ足りなくて学校の自販機でブリックタイプの牛乳を買って飲んでることも知ってる。その牛乳はたった五十円らしいね。でも毎日飲むとそれなりの額になるから、「ミキオのおこづかいは全部牛乳に消えてる」って笑って言ってたっけ。

「あと、もうひとつ、言っておかないといけないことがあって。このこと言うと、トミーに怒られるかもしれないけど。いよいよ絶交されるかもしれないけど」

 マリは一転、体のわるい悪事を白状する子どもっぽく眉尻をしょんぼり下げ、緊張した声を息苦しそうにこわごわと吐いた。なんだよ、もういいよ。何も聞きたいことや知りたいことや知るべきことはねえから。これ以上何かを知ったからって、俺とヒトミがどうにかなるわけじゃねえから。

「トミー、自分はお父さんにとって、引換券だって、そう言ってました」

 マリの言葉に、うん、と頷く。右足がしきりに疼きはじめた。そうだよ、俺はヒトミのことを、引換券だと思ってた。いつかイズミに会うためのな。その戒めとして、俺は右足を刺したし、どっかに行かないため、俺は右足を治すわけにはいかねえんだ。

「その本当の意味っていうのは――」

 なんだよ。引っ張んなよ。イズミの声で、何を言ったって無駄だ。

「――自分はお父さんにとって、『しあわせの引換券』なんだって、そう言ってたんです。わたしがいるから、お父さんは、しあわせになれるんだって」

 それを教えてくれたのはイズミじゃなかった。マリだった。俺のなかの大きなもんが消えてくのを感じた。初めて知った。真理ってのは、意外と優しいんだな。

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