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 海沿いの団地群はいつもなら小汚くて、特に夜はお化けかド変態あたりがモンゲーッつって飛び出しそうな雰囲気なんだが、銀世界にかすむ浜かもめ団地は幻想的に見えた。普段は気づかんかったけど、微妙に色の違ういろんな灯があって、それが雪に反射すると、あったかくとろける。ああ、このぶきっちょな灯のひとつひとつに、ちゃんと人間が暮らしてんだな。怒ったり、泣いたり、さいごの唐揚げを素手で奪い合ったあげく床に落としたり、狭いベランダに並んでかちかちのポッキンアイスを分け合ったり、みんなしてんだろうか。奇跡じゃねえか。俺たちゃ血縁があるわけでもないし、母親はいないし、他に身寄りもないし、金もない。なのに俺とヒトミは生きてきた。すげえ。俺はヒトミのことなんか、娘だと思ってないし、別に好きでも大事でもない。なんつうか、縁だな、と思うだけだ。ヒトミも俺のこと、そう思ってるんじゃねえかな。切ろうと思っても切れない、給料日だけ食べる粗悪なステーキみたいにややこしい縁。でもその縁が、この日は珍しく貴重なもんに思えた。もうすぐクリスマスだからかな。一応、ヒトミには毎年プレゼントをあげてる。ちゃんと奴の要望は訊いてるし、金もそれなりに積んでるんで、まあ毎年別に嬉しそうではないけど、まんざらでも無さそうだった。今年はアイポッドが欲しいっつってたな。あれ高えんだよな。買えるかな。買いたいな。ヒトミの好きな、ピンク色のやつ。そんで、今年もいつもみたいに、まんざらでも無さそうな表情で受け取って欲しいな。雪でぴかぴか輝く浜かもめ団地は、クリスマスツリーみたいだ。

「……事情、訊かないんですか?」

 ふいにマリに話しかけられて、驚いた。すっかり感傷に浸ってたんだ。

「え?」

 しかも、マリのいった言葉の意味が分かんなくて、俺は頓狂な声を上げて横を振り向いた。ヒトミは俺よりだいぶ背が低くて、並んで歩いててもナルトみたいな旋毛が窺えるだけなんだが、マリは中学女子にしては背が高いほうだったから、彼女の横顔が見えた。やっぱ綺麗だな。化粧を整えたのか、肌がおろしたての画用紙よりも白くて、そこにぽつんと赤い絵の具を落としたような唇に艶がある。俺はヒトミに口紅なんか買ってやったことがないから、油絵みたいにざらついた幼児っぽい唇を思い出し、胸が痛くなった。

「お昼におじさまが助けてくれたとき、あたしとヒトミちゃん、苛められてたじゃないですか。その理由とか、訊こうとしないんですか?」

 マリの声はさっきまでよりも凜として、芯があった。ますますイズミの声に似てる。

「言いたけりゃ、言うだろ。ヒトミのほうから」

 俺は幾分の気まずさを覚えながら、とにかくそう答えた。実際、ヒトミは言いたいことがあれば必ず口にしてきた。むしろ言わんでいいことまで言うからな。それで喧嘩になることもしょっちゅうだし。負けるのはいつも俺。つうかヒトミには「会社に電話を掛けてくる」っつう必殺技があるんで、俺はそうならんようどっかで引かないといけねえし、狡いと思う。味噌汁に塩入れすぎとかいうしょうもない内容で、会社の電話担当の子に三十分愚痴を聞かせてたのは閉口した。学校の公衆電話から掛けたんだろう、つまんねえことに貴重なこづかいと昼休みを使うな。

「信じてるんですね、ヒトミちゃんのこと」

 マリは俯いて笑った。信じてる、っていうのとは、またちょっと違う気がするけどな。小学校に上がった時、俺はヒトミと一緒の風呂に入るのを止めた。タイミングとしてはちょっと早い気もしたけど、まあヒトミはしっかりしてたし、それに血が繋がってない分、裸付き合いってのもほどほどにした方がいいだろうからな。けどその後も、ヒトミは風呂上がりに平然と素っ裸でうろうろしてることがあるし、毛が生えた時もドヤ顔で見せてきた。初潮の世話をしてやったのも俺で、一緒にお赤飯を炊いてドンチャン騒ぎした。そういうの、なんつうんだろうな。世間の父娘は普通にやってることなんだろうけど、俺とヒトミのは、父娘ごっこ、って感じがする。悪い意味でなく。どっかで冷めてて、茶番みたいだ。

「ヒトミちゃんのこと、男の子たちが、ヒトミルクって呼んでたの、あれ、どういう意味だと思います?」

 マリの声は、相変わらず芯が通ってて、堅くて、ちょっと冷たかった。イズミに訊かれてるみたいな気分になった。

「わからん」

 俺は即答した。そうじゃないことを訊かれてるみたいな気持ちになった。分かるなら教えてほしかった。ヒトミが一体なんなのか。俺にとって。

「ヒトミちゃんね、胸が大きいじゃないですか。だから牛と引っかけて、ヒトミルク、って言われてたんです」

 確かにヒトミは胸が大きい。ヒトミはそういうの隠そうとしねえから、俺はもちろん知ってる。それにブラジャーは一緒に買いに行くし、サイズが65Eだってことも「むごい」って語呂合わせで覚えてる。馬鹿みてえだよな。だからマリはさっきからちょっと笑ってんのか。

「ヒトミちゃんは学校で苛められてるんです。おじさま、ヒトミちゃんの本当のお父さんじゃないんですよね? それを知った男子たちが、どうせやってんだろ、って揶揄って。あ、意味わかりますか? ヒトミちゃんってちょっと色気があるじゃないですか。そういうのも、男子の興味というか、そういうのを誘ったみたいで。今日も、俺らにもやらせろって言って、男子たちに迫られてたんです。あたしは止めたんだけど、おじさまが来なかったら、危なかったと思う」

 マリは言いたいことを言い切ったとばかりに、俺の顔色を品定めするかのごとく覗き込んできた。鼻先を掠める香水の匂いが冷たい。へ、と口で息をするとのどちんこが寒さを思い出し、すぐさま身体中に広がった。ああ、ヒトミは、俺と血が繋がってないことを知ってたんだな、と、まとまらない頭で思った。そりゃそうか、そんでそのことを学校でも相談してたわけだ。悩んでたんだろうか、苦しんでたんだろうか。そんなとこを俺の前では全く見せんかったヒトミの気高さを思うと、申し訳なくて死にたくなった。

「おじさまはヒトミちゃんと離れたほうがいいと思う」

 マリの硬質的な声が俺の胸をえぐる。マリはきっとヒトミを軽んじてるに違いなくて、ヒトミが虐められてるのが嬉しいんだろうなって、空々しいマリの口調とか、いやらしく上がったマリの口角とかから、どんくさい俺にも察することはできた。けど、イズミの声だから混乱する。俺はやっぱヒトミと離れなくちゃいけないんじゃねえか。それも、今すぐにだ。

「気持ち悪い。おじさまは、ヒトミちゃんのこと、どう見てるんですか? どうしたいんですか? おじさまにとって、ヒトミちゃんは何なんですか?」

 分かんねえよ。分かってたら、もうちょっとマシにやれてたよ。傘を握る手が、産まれたばかりのヒトミを抱きあげたときより激しく震えてた。いつの間にか雪が止んで、車の走らねえ湾岸道路は真っ白に染まってた。傘を閉じ、ため息をたしかめる。こぎたねえ俺の吐息も、冬の世界ではしろくてきれいだと。

「教えてあげましょうか? ヒトミちゃん、言ってましたよ。『わたしはお父さんにとって、引換券にすぎないんだ』って」

 いっとう冷酷なイズミの声は、真理を捉えてる。手が役割を思い出したように震えを止めた。俺がどうすべきなのかも腹が決まった。ヒトミがその言葉をどういうニュアンスで言ったのか分からん。ああ、でも、ヒトミのほうが分かってたんだな。そうだよ、俺にとって、ヒトミは引換券だった。ヒトミを育ててりゃ、いつかはイズミに会えるっていう、それだけの。当たり前だが、ヒトミはイズミのことを知らねえ。俺とイズミがどういう関係だったかも、知る筈がねえ。けど、やっぱそういうのは伝わるんだな。今になって、俺とヒトミとはちゃんと「父娘」だったのかもしれねえ、って、最低なことを思った。

「ああああああああ」

 傘を両手で強く握り、先端で俺の右足の太ももをぶっ刺した。首とか腹とか心臓とか使ったことのねえ皮かぶりの粗チンとか、もっと急所を狙えばよかったのに、俺はそういうとこが駄目なんだ。ビビリなんだ。サラピンの傘の先端はあまり尖ってなくて、ちょっと赤く腫れただけだった。俺は傘を持ち替え、なるべく深く刺さるよう、何度も太ももを突いた。

「おじさま、やめて!」

 マリが俺の背中に抱き着いてきたが、癇癪起こしたガキみてえに手をぶん回して彼女を跳ね飛ばし、一心不乱にその作業を続けた。いったい俺は死のうとしてたのか、そんなことでヒトミに責任を取れると思ってたのか。違うな。俺は俺のなかにいる、イズミの影を消したかったんだ。

 マリは身を切られてるみてえな悲鳴を上げながら髪を振り乱して逃げていった。ひとり雪んなかで自分の太ももをぶっ刺すおっさんは全然カッコよくなくて、ひどく滑稽だった。今さらだ。俺がヒトミの前でカッコよかったことなんて、一度もねえんだから。しょうもねえオナニーしてんじゃねえよ。ヒトミをネタにしてよ。最低だな、そりゃ「お父さん」なんて呼ばれるわけがねえ。傘の先端にある白いプラスチックがもげて、銀色の鉄芯がズル剥けになり、それを太ももに打ち付けると、やっと深く刺さってくれた。グッバイ童貞。痛くはなかった。気持ちよくもなかった。傘を引き抜くとヤバい量の血液が噴出して、それはあったかかった。白い雪のなかに溢れたそれはヒトミの好きなピンク色で、こんな俺でも死ぬときにゃちっとは愛してもらえんのかなとつまんねえことを考えた。

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