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 ぼんやりした意識のなかで、イズミに会った。あれから十数年経って、イズミももういいおばさんの筈なのに、昔のままの姿だった。昔のまま、無垢に笑ってた。俺が初めてヒトミを抱きしめたとき、ベッドのうえで笑ってたように。

(やっと会えたな)

 気恥ずかしくて、無理やり笑顔を作ったままそう話しかけてみたが、声にならんかった。イズミの口元も動いたものの、なにも聞こえんかった。けど、イズミがよく口にしたその言葉は分かった。

(ばか)

 って、イズミはそう言ったんだ。

 真っ暗な世界で、うえから降りてくる光が俺とイズミを照らした。ほかに誰もいなかったし、何も存在しなかった。こういう世界を俺は知ってる。そう思った。あの軽自動車の後部座席だ。眠れない夜、俺とイズミが手を取り合って、こっそり潜り込んだあの後部座席に似てる。室内灯の弱い光がやけに心強かった。

(イズミ、俺、がんばったんだ)

 俺はあの頃、イズミと後部座席で「あのこと」を語り合ったときみたいに、前のめりな口調で言った。

(俺はヒトミをちゃんと育ててきたんだ。ヒトミ、可愛くなったんだぜ。あの猿みてえだった赤子がよ。いっちょまえに制服着て学校行ってるし、友だちも少ねえけどいるし、性格もいいっつって先生から評判だ。まあ、俺にだけは当たり強いけどな。背はちょっと低いけど、健康そのものだ。学校の成績もむちゃくちゃいい。やっていけると思う。なあ、イズミ。俺、がんばったよ。だから、もういいだろ。俺は……)

(それはかこのはなしでしょ)

 イズミの唇がそのかたちに動いた。俺の悪戯を諫めたときの、したたかな眼差しで。

(あのころは、みらいのはなしばかりしてくれてた。わたしはそれが、うれしかった。だからこれからも、たくさんみらいのはなしをしてほしい。わたしにじゃなくて、ヒトミに)

 イズミがそんなふうに思ってくれてたことに驚いた。そうだ、俺はいつもイズミといるとき、未来の話をしてた。将来は東京に行って、一緒に住んで、がんばって働いて、いつかは子どもを持って、そんな話をあの後部座席でしたんだ。けど、イズミが居なくなって、俺はそのことが間違ってたんじゃないかと思うようになった。未来のこと(あのこと)なんか、話すべきじゃなかったんだって。だから俺はヒトミとも未来の話ができてねえのか。ヒトミとのあるべき未来を見つけられてねえのか。

(やくそくしたはずだよ。ヒトミをきっと、しあわせにするんだって)

 そう言って、イズミは俺に唇を重ねた。全然大人のものじゃない、あの頃のままの、冗談っぽい口づけ。そんなことで、俺のこれまでが全部報われたような気がした。そうだ、俺にとってヒトミは、引換券なんかじゃねえ。そのことを伝えたい、そのためだけに生きてえと思った。俺にとってヒトミは――。

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