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 そんなに大したことじゃねえ。それは有り触れたある冬の一日の、ごく有り触れた出来事だったんだ。俺の人生はそんなもんでできてる。違うな、そんなもんでやりくりしてるうち、無理が祟ったんだろう。

 雪は降ってなかったな。でももし雨がふりゃ間違いなく雪だっていう、呼吸も鼻毛ごと凍りそうな日だった。この町にはたまにそういう冬の日があんだ。瀬戸内なんで、特に冬は雨も雪もほとんど降らねえ。遠くを見渡すと北にはどっかりした山塊があって、そこで雨だか雪だかは落ちちゃうわけだ。海沿いなんで、真冬でもそんなに寒くないんだが、日によっちゃ北の山から吹き下ろす山風がらんぼうに頬を打つ。これがむちゃくちゃ寒い、冷たい、っつーか、SM好きの雪女にしめった鞭でしばかれてるみてえに痛い。でも俺はそういう日が嫌いじゃない。なんか、希望があるじゃねえか。だって降るとしたら、雨じゃなくって、雪なんだぜ。そういう日に俺は真っ青な空を見上げるのが嫌いじゃない。吐く息はとびきり白くて、真っ当で、ちゃんとやれてる感じがする。雪が降らない冬の日は、俺の溶けそうな自尊心を慰めてくれる。

 浜かもめ団地は広大な埋立地に建てられたんで、どこまでも平べったいゼロメートル地帯なんだが、中心部あたり、今は使われてねえ公民館の隣に、余った土を使って造成したんだろう、きれいなおわん型をした丘がある。「わだつみの丘」なんてたいそうな名前が付いてるが、ガキどもには「おっぱいの丘」って呼ばれてる。そのてっぺん、つまり乳首んとこには石でできたベンチがあって、そこから浜かもめ団地を見下ろすのが休日のお気に入りだった。廃墟みてえな公民館は真っ暗で浮浪者でも住んでそうな有様だが、脇の自動販売機は不気味に動いたままで、貧乏人ご用達のメーカーの怪しいジュースが買える。コーヒー一缶ワンコイン、五十円だ。粉の風邪薬をたっぷりの人工甘味料で誤魔化したようなコーヒー。それを飲みながら俺は丘の上の乳首にへばりついたニップレスみたく怠惰な時間を過ごす。周りには煙草の吸殻が散らばってるが、俺は煙草は吸わねえ。酒も飲まねえ。そんな俺の、週末の、ちっさな贅沢だ。

 丘のふもとに芝生が禿げ散らかした空き地があって、あどけない女子ふたりがバドミントンをしてた。このクソ寒いのに元気印のミニスカートだ。おしゃまなフルスイングのシャトルが空に吸い込まれ、もっと高い声がきゃあと追いかける。呑気ないい風景だなあ、と目を細め、ぬるいコーヒーを啜ってると、声変わりを半ば終えた少年のがらがらした声が響いた。

「ちゃんとやれよ、ヒトミルク」

 鼻に掛かったやらしい口調が気になって、俺はベンチにもたれてた上半身を起こし、声のほうにやおら目線を向けた。広場の隅っこに名前も知らねえ広葉樹が野放図に茂ってて、昼下がりのしなやかな木陰に中学生ぐらいの少年たちの姿が見えた。周りからは隠れている風だったけど、高い場所にあるベンチからはよく見下ろせた。

 少年たちに囲まれてる子の、安っぽいピンク色のパーカーに目が釘付けされた。古着屋のワゴンによく積まれてるペラくて光沢のある布をしっかり覚えてた。俺は貧乏たらしくちびちび減らしてたコーヒーを一気に飲み干すと、たぷたぷの中年腹をゆすりながら、なだらかな芝生を全力で駆け降りた。やっぱ少年たちに囲まれてんのは、ヒトミだった。

「こらあ、何してんだ!」

 俺は叫ぶなり、空き缶を思い切り投げた。立ち位置からして、クソガキのリーダーは誰なのか分かった。俺はガルベスよろしくそいつの側頭部に空き缶をぶつけるつもりだったが、悲しいことに運動は昔から不得手なんで、空き缶はいつかの遠投大会で学年最低記録を出した時みたく、足元に力いっぱい落下した。が、運よく地面から飛び出した岩頭にぶち当たり甲高い音が上がったんで、やつらを威嚇すんのにはちょうどよかった。クソガキどもは俺の姿に気づくと、加齢でキレが悪くなった小便みてえにあちこちへ逃げ去った。

「ヒトミ、大丈夫か」

 変質者かっつうぐらい息を切らしながらヒトミに近づくと、ヒトミの隣にももうひとりの女子が屈んでることに気づいた。ヒトミの顔も整ったほうだと思うけど、その子はびっくりするぐらい綺麗な顔をしてた。彼女は見るからに怯えた表情で、唇は青紫に染まり、膝の前で堅く結んだ手をがたがた震わせてた。一方のヒトミは、いつもと変わらない平然とした表情だった。

「おせーよ、ミキオ」

 ヒトミはちょっとムカつくぐらいのあっけらかんとした表情で言った。同時に隣の子が号泣し始めた。ヒトミはずっと笑ってた。くちびるの端から固まりかけた赤黒い血が線を引いてて、左頬にはどどめ色のでっかいあざが痛々しいのに、ヒトミは全然平気そうに笑ってた。

 なんでヒトミはこんな強えんだろう。ときどき不思議に思う。可愛げねえし、口は悪いし、態度悪いし、箸の持ち方はバッテンだし、けど、時々びっくりするぐらい、強え。母親がいなくても、父親と血が繋がってなくても、そんなことで嘆いたりしねえ。金がねえっつってぐちぐち文句は言われるが、ほんとはそんなこと、不満に思ってないんだって、分かってる。いつも飄々として、けど苦しいときに笑う。なんで笑っていられんだよ。何があったかぐらい、見りゃ分かるよ。中学生の女子にとってどんだけ怖えかぐらい、鈍(にぶ)ちんなおっさんの俺でも想像つくよ。ちゃんと泣けよ、そんで俺を、もっと頼ってくれよ。

「……ケーキでも食うか」

 俺がそう提案すると、ヒトミは両手を上げて喜んだ。その喜び方はわざとらしくて、俺はヒトミを見ると、悲しいのか寂しいのかよく分からん感情に襲われる。

 ヒトミと隣の子をうちまで送った後、俺はR1を爆走させて野球場そばのショッピングモールにジムカーナかっつう勢いで飛び込んだ。高級な店ばっか入ってるそこは普段は行かねえんだが、世界一うまいケーキを食わせてやりたかった。しかし駐車代が高え。ケーキ代もクソ高え。そのうえ中学生女子の食欲は恐ろしく、ふたりとも三個は余裕で食べられるっていう。ヒトミがチラシの裏に丸文字で書いてくれたメモと見比べながら、俺はショウケースの中のケーキを指差し、たどたどしい口調で注文してった。ケーキはどれも小難しい名前がついてて、どれがどれなのか全く分からん。「天使の囁いた嘘を下さい」って言わされるとか、どんな罰ゲームだよ。ペコちゃんみたいな可愛い顔の店員さんには含み笑いされるし。つうかヒトミが頼んだケーキは高いのばっかだ。しかもよく見たら四個もあんじゃん。一緒にいた子が頼んだケーキは割安のプリンとかだし、ちゃんと三個なんで、好感が持てる。駐車場を出る時、買い物をそれなりの金額してりゃ駐車代が無料になることをようやく知り、ものすごく悔やんだすえ帰り道の赤信号を危うくぶっちぎりそうになった。普段は駐車場なんか使わねえから知らんかった。ケーキご馳走するとか偉そうに言っときながらみみっちいことばっか気にして、うんざりするぐらい小せえ人間だと思う。

「おかえりー」

 家に帰ると、珍しく居間からヒトミの明るい声がした。風呂の換気扇がぎしぎし回ってるんで、どうやらシャワーを浴びた後なんだろう。ヒトミと共用してるシャンプーのケミカルな匂いが漂う。ヒトミも隣の子も着替えてた。隣の子はヒトミのいっとうお気に入りの服を着せてもらってた。頬が桜色に上気してて、ますます綺麗だな。一方、ヒトミは俺のジャージを着てた。小学校の修学旅行でヒトミが買ってくれた、「熊出没注意」ていう北海道土産の冗談みたいなジャージだ。なんでお前が着るんだよって思うけど、ヒトミは俺よりだいぶ身体が小せえから、着るとぶかぶかになって寛ぐのにちょうどいいらしい。いつものこととはいえ、メシ食うときに着るのは止めて欲しいな。ヒトミ、しょっちゅう俺の服汚すからな。そのジャージは俺のパジャマなんで、汚されると地味に困る。

 隣の子が食卓に腰かけたまま、恥ずかしそうにぺこりと頭を下げた。いいところのお嬢ちゃんなのかな。所作がいちいち洗練されてる。

「マリー、早くケーキ食べようよ!」

 ヒトミが俺の手からケーキの箱を奪い取るなり言った。ああ、隣の子、マリって名前なのか。ヒトミは箱をびりびりに裂いて、雑な手つきでケーキを食卓の上に並べた。つうかちょっとは俺に気を遣えよ。俺にもケーキを分けてやるとか、そういう殊勝な気持ちはないわけ?

 ふたりぶんのフォークを手渡してやると、ヒトミは大きな声で、マリは小さな声でいただきますをして、勢いよくケーキを食べ始めた。いいなあ、クソ。つーか居間じゃなくて、自分の部屋で食えよ。うちの家は居間は広いんだが、部屋は納戸を除けば二階にヒトミのがあるだけなんで、こうして居間を占拠されると居場所がないんだ。いつもふたりでいるから、食卓にも椅子はふたつしかねえし。

 俺が居間の端っこでちんまり体育座りしてると、ヒトミが俺を見てにっこり微笑んだ。うわ、嫌な予感。

「はい、あーん」

 ヒトミはフォークにでっかい洋梨を突き刺し、俺に差し出してきた。おいおい、イズミにもこんなんされたことねーぞ。

 むちゃくちゃ警戒したけど、乗らねえとヒトミの機嫌が悪くなってめんどいし、まあ俺も洋梨が好きなんで、南無三とばかりに、洋梨に向かって思い切りパクついてみた。すげー甘そうで、いい匂いのするぷりっぷりの洋梨だった。俺が洋梨を口に含もうとした瞬間、ヒトミはフォークを引っ込めて、その洋梨を自分で頬張った。案の定である。やることがベタなんだよ。

 けらけら笑ってるヒトミの頭を俺は軽く引っぱたいてやった。実際、ちょっと本気で怒ってたし。腹が減ってるときの恨みは怖えんだぞ。

「いったー、ひどーい、DV。これでもう『お父さんにも打たれたことないのに』っていうネタ使えなくなっちゃうじゃん。責任取ってよ。えーんえーん」

 ヒトミはわざとらしく泣き真似をした。よく言うわ、俺のこと、父親とも思ってねえくせに。つうか、いちいちネタが古いんだよ。ヒトミは俺の本棚からいろんなもんを借りパクして知識を得てるんで、エンタメの趣味がオヤジ臭いっつうか、九十年代で止まってる。

 けど、ずっと硬い表情をしてたマリが笑ってくれたから、それは良かった。

「仲良いですよね、ヒトミちゃんと、おじさま」

 マリが控えめに笑いながらほっそりした声で言った。声も透明感があって綺麗だった。余計なもんを含んでないから、本当のことを言われてるみたいな気分になる。イズミの声もそうだった。

「そうお?」

 俺とヒトミは同時に言って、顔を見合わせた。そんで、たぶん同じ顔をして笑った。まあこんなところが仲良いっつうか、ずっと一緒にいるだけあって似てんのかな、とは思う。

 でも、あんまりヒトミには、俺には似て欲しくないな。頭悪いし、下品だし、モテないし、甲斐性ないし、箸の持ち方もバッテンだし。ヒトミにはそうじゃない人生を生きて欲しい。そうだな、できれば、マリみたいになってくれると嬉しい。賢そうだし、上品だし、モテそうだし、将来性ありそうだし、食事の仕方が見惚れるぐらいに端正だ。フランス人形みたいな造形の指でフォークをさりげなく使い、スポンジのかけらひとつ残さず食べてくれた。よく言うけど、メシの食い方には人柄が現れるな。美味しそうに残さず食べる人をみんな好きなんだろう。残念ながら俺にゃ無理だ。生まれつき胃腸が弱いし。

 それからマリとも打ち解けて、いろんなことを話した。やっぱりマリは医者の娘なんだって。浜かもめ団地のなかにある有名な内科だ。俺も行ったことがある。切れ痔なんて専門外だろうに、たらい回しにせず責任もって診てくれる、誠実で真面目そうな福山雅治似のイケメン医師だった。浜かもめ団地は貧乏人ばっか住む町だけど、隣町は全国的に有名な高級住宅地で、そことの境目あたりにもバブリーなマンションが建ってる。ヨットハーバーが傍にあるんで、ほぼ別荘地として使われてるみたいだが、マリはそこに住んでるんだって。部活は硬式テニス部で、スクールにも通い、県大会に出て表彰されたこともあるそうだ。趣味は茶道と日本舞踊らしい。好きな音楽を尋ねると照れながら「ビートルズ」だと教えてくれた。いろいろ聴いても、全然嫌味を感じないところがマリの人柄なのかな。この子がヒトミの友だちでいてくれて良かった、と思った。

 メシ食ってから帰るか、ってマリに訊いてみたんだが、もうおうちにごはんできてるから、と丁重に断られた。俺とかヒトミなら、メシ食わせてもらえるっつったら大喜びでごちそうになるけど、マリはやっぱ遠慮深いところが偉いな。まあ、俺の男料理よりも、自宅の料理のがずっと美味いんだろうし。もしかすると、コックさんとかいるのかもしんない。

 この辺はあんまり治安が良くないんで、俺が車で送っていくことにした。けど、ヒトミが腹減った腹減ったって育ち盛りの雛鳥かっつうぐらい喚くから、ヒトミのリクエストどおりペペロンチーノを作ってやって外に出た。さっきまで夕陽で見惚れるようなグラデーションに染まった海を見渡せたはずが、いつの間にかこの世の色をぜんぶ吸い込んだほどに真っ暗く、そんで、空からしゃららんと光るもんが落ちてきた。

「うわあ、雪だあ」

 後ろからマリの声が聞こえて、やっと俺はそれが雪だって分かった。空の底が割れて星が零れたんじゃないかと思うぐらいたくさんの光が降ってて、きれいっつうより、おかしかった。

「おい、ヒトミ! 雪降ってんぞ!」

 もっかい玄関の扉を開けて声をかけてみたが、ヒトミからは反応なし。あいつにはほんま情緒ってもんが欠けてるかんな。

 久しぶりに見るバカ雪だった。興奮しながらエレベーターのボタンを高橋名人ばりの連打して降りると、雪がどかどか降り注ぐ中を歩いた。すげえ、ちっとも寒くない。心なしか、マリも楽しそうに見えた。

「あっ、やべえ、タイヤ、ノーマルだ」

 愛車のR1のとこまで来て、俺はやっとそのことを思い出した。金がねえし、それに雪が降ったことはほぼなかったから、スタッドレスタイヤなんて買ったことがねえ。チェーンも持ってねえ。俺は車検を自分で通してるし、ローテーションもちゃんとこなしてるタイヤの状態は悪くないはずだが、かなり安いアジアンタイヤだし、滑りやすい雪の降り始めを走るのはまずい。それにマリんちのある高級住宅地までは、運河にかかった橋をいくつか越えないといけねえから、海面を立ちのぼる冷気にたっぷりいたぶられた路面はすでに凍ってそうだ。ひとりならそれでも構わないんだけどな。さすがによそのお嬢さんを乗せて事故るのは体裁が悪い、っつーか、間違いなくヒトミに殴られる。あいつは手加減しないんで、パンチはむっちゃ痛い。いつのバレンタインだったか、冷蔵庫の奥に隠してあったゴディバの生チョコを勝手に食べたら、ヒトミの自分用だったらしく、タイソンばりのダックインから渾身の右ブローを肝臓(リバー)に浴び、その晩はメシが食えんかった。

「いいですよ、歩いていきましょう」

 マリはうたうようにそう言って、バレエみたいに優雅な足取りで歩き始めた。俺は慌ててR1の狭いトランクに置いてあるサラピンのビニル傘を取り出し、どたどたとマリを追いかけた。俺はよくビニル傘を失くすんで、いつもサラピンなんだ。

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