第2章 やくそく
1
食卓にピンク色のアイポッドもどきがほったらかしにされてた。珍しいな、なんだかんだ言いながらヒトミは俺のプレゼントを大事にしてくれてて、肌身離さず持ち歩いてくれてたもんだが。まあ、トイレにでも行ってんだろう。俺は何気なくもどきを手に取ってみた。本物を見たことは写真でしかないが、外観だけは見分けがつかねえぐらいよくできてる。ちゃんとトレードマークのリンゴも銀色に輝いてるし。ただ中身は中華製のパチモン基板が入ってて、本物とは違い、SDカードに入れた曲しか再生できねえそうだ。ヒトミは学校のパソコンを使ってCDを音源に変換し、SDカードに入れて使ってくれてるらしい。学校ではアイポッドが流行ってるみたいで、ほんとなら皆と楽しく音源の交換ができただろうに、毎度のことながら友だち作りの邪魔をして申し訳ない。けど、ヒトミは「こっちのが楽でいいよ」って平気で言ってくれたから救われた。あんなことがなけりゃ、ちゃんと本物が買えたのに、と、俺はつい右足に触れちまう。ちょうど一年前の冬だったな。ヒトミのアイポッドがパチモンに化け、俺が右足を怪我し、そんで、イズミに再会したのは。
恐る恐るイヤフォンを耳に嵌めてみた。また、イズミの声が聴こえる気がして。
「ちょっとー! ミキオ、トイレ使ったらちゃんと便座下ろしといてって言ったじゃん!
わたし言ったよね? ねえ、言ったよね!? ちょっとちびったのどうしてくれんの! ミキオの勝負パンツ借りたけど、これは罰だから!」
あいにく聴こえたのは耳馴染みのあるヒトミの怒声だった。派手な音を立ててトイレのドアが開き、バタバタ足音を立てながら居間に駆け込んでくる。すげえ剣幕のわりに上半身ブラウスで下半身は俺のトランクス姿だからちょっとおかしい。ヒトミが嗤いながら選んでくれたアンパンマンのトランクス、俺より似合ってんじゃん。あ、やべえ、しょんべんしたあと便座を上げっぱにしてたっけ。うちの家にはヒトミが決めたルールがいくつかあって、例えば「牛乳は切らさない」「ブラジャーはネットに入れて洗う」「生理用品のストックはトイレの戸棚の一番上に入れておく」なんてのがそれだ。俺はズボラだからしょっちゅう忘れるんで、ヒトミに怒られるのは慣れっこなんだが、会社に電話かけられたときはさすがに堪えた。
「あれ、音楽聴いてんの? 珍しいね」
俺が所在なく立ち尽くしてるのを見つけると、ヒトミは一転、けろっとした口調に替わり、俺の左耳からイヤフォンを奪って、自分の右耳に移した。うちは貧乏でモノが少ねえから、昔からいろんなもんを共有してきた。だからお互いのもんを共有するのに今さらの抵抗はないし、こういう動作も自然にやれる。世間の父娘より近いようでいて、ときどきひどく遠い。
「……いやいや、何も聴こえないし」
ヒトミは乾いた声で笑い、イヤフォンを俺の耳孔に戻した。乱暴な手つきに頭んなかのかたつむりが揺れる。平衡感覚が消える。耳たぶで触れたヒトミの指先は他人のもんみてえに冷たかった。
「病院、いくわ」
俺はふと思いついて、そんなことを言ってみた。ヒトミの目が一瞬丸くなり、それから破顔した。笑わかしたかっただけなんだが、思った以上の反応が返ってきて戸惑う。
「……耳からな、聴こえねえ音が聴こえんだよ」
冗談めかしてそう続けると、ヒトミは分かりやすく眉を顰め、頭が痛そうな素振りをした。自分でやっといてなんだけども、いろんな表情があっておもろいな。
「あたま診てもらえ!」
ヒトミはそう叫ぶと、俺の手元からアイポッドもどきをひったくり、足早に去っていこうとした。
「なんでそんなに、俺の右足を治すのに拘るわけ?」
俺はヒトミの背中にそう問いかけた。実際、分かんねえんだわ。ちゃんと働けてるし、歩くぐらいなら不都合はないし、車もオートマだから最悪左足だけでも全然運転できる。右足がイカれても、ヒトミにはちっとも迷惑を掛けてねえんだ。俺はこのままでいいと思ってるよ。けど、ヒトミがどうしても治して欲しいんなら、理由ぐらいは聞いてやらんでもない。応えるかどうかは全くの別だが。
「……マリーがね、心配してるんだよ」
ヒトミは振り向かないままそう言い残し、またバタバタ足音を鳴らしながら階段を上っていった。力いっぱい扉を閉める音が遠くから響く。
その回答じゃ、俺が右足を治すわけにはいかねえな。俺の右足を動かせるのは、世界でたったひとりだけなんだ。
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