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 水曜日は定時退社奨励の日で、ほかの企業もそうなんだろう、珍しく満員の阪神電車に揺られて早く帰宅する。会社最寄りの駅は「普通」しか止まらんので、各駅停車で三十分ぐらいゆっくりと進む。乗り換えの駅は、長いホームが川をまたぐ形で建てられてる、日本でも有数の珍しいもんらしい。ダイヤの間隔が長いため、発車までしばらく待ってると、やがて線路に沿って走る広い川がギイという金属音とともに動き出した。車窓の向こうの川は海に近づくと青みが濃くなり、窓を開けてもないのに胸が詰まるような磯の香りが漂う。この路線は相変わらず乗客が少なく、群青色の縞が入った薄っぺらいウレタンの椅子に深く腰かけたまま、前傾姿勢でかさついた手を組み、何かを堪えるように目をかたく瞑る。やがて疲れた声のアナウンスが終点に着いたことを知らせてくれる筈だ。

 ヒトミは俺に結婚して欲しいとか、お母さんが欲しいとか、そういう話をしたことがない。どう思ってるのかも分かんない。ヒトミは決定的にセンシティブな話題を避けてると思うことがある。俺にヒトミの言葉を受け取る度量がないことを察してるのか。最近ではよく「早く病院に行け」ってどやされるけど、それすらまともに受け取ってない。右足はだんだんと動かなくなってく。それでいい、この右足は、イズミが俺にくれた罰だと思ってる。

 終点だ。吊革に身体を預けて懸垂みたいに立ち上がり、窓の外をさがす。くたびれた町だけど、夕陽だけはとにかく綺麗なんだよな。けだるそうに横たわる団地の群れが真っ赤だ。生活のなかに一日の余熱があくびみたいに吸い込まれてく。こんな時、煙草を吸ったらちっとは楽になれるんだろうか。俺は煙草をやらない。ギャンブルも、酒も、女も、やってねえ。だって金を貯めないといけねーから。それがヒトミのためかっていえば、違うと思う。それに、そういう風に貯めた金をヒトミは決して受け取らない。あいつはちょっと天邪鬼なところがあるっていうか、そういう奴だ。

 ぜんぶ、イズミのためなんだよ。イズミに会いたい。そんな俺を、右足が叱ってる。

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