第13話 老ピアニスト
翌日、大学の食堂で食事をしていると、目の前に誰かが立った。顔を上げてその方を見ると、
「ここ、座っていい? 話があるの」
ワタルが何か言う前に、彼女はワタルの正面の椅子に座った。ワタルは、手にしていた箸をお盆に置いた。
「昨日、何があったか、
「あ。はい。聞きました」
「騒がせて悪かったけど、あのくらいのことはしていいと思う。だから、絶対あやまらない」
「はい」
彼女が黙ったので、ワタルは深呼吸をしてから、
「それで、南さん。話って何ですか?」
たぶん、ここまでは前置きだったのだろうと思い、そう訊いてみた。彼女はまっすぐワタルを見ると、
「言いたくなかったんだけど」
「え?」
「だけど、言うんだけど。私はね、あんたが大嫌いなの。私が大事にしてきたものを取り上げたんだから。だけど、私はあんたのピアノの音は好きなんだ。ファルファッラで演奏しているのを聞いてそう思ったし、和寿と一緒に演奏してるのを学園祭で聞いた時も思った。本当に良かったよ。和寿の演奏も、私が伴奏してる時とは明らかに違ってた。私はあんな風には出来ない」
由紀は俯いて唇を噛んだ。再び顔を上げた時、彼女の目は、少し潤んでいるように見えたが、はっきりとした口調で言った。
「私はさ、音楽上のパートナーとしても、恋人としてもダメだったんだよね。それはもういいんだ。良くないけど、いい。諦めた。だから、あんたにお願いするんだけど。あの人が演奏活動をしていくには、あんたのピアノが必要なの。私はそう思う。あの人がいい演奏出来るように、ずっとパートナーでいてあげてほしい。私の願いは、あの人が幸せでいること。それだけ」
彼女は立ち上がると、「じゃあね」と言って去って行った。ワタルは、彼女の姿を目で追っていたが、食堂から出て行ったのを確認すると、由紀がさっき言っていたことを反芻した。
「あの人がいい演奏出来るように、ずっとパートナーでいてほしい」
自分の気持ちより、相手の幸せを願える由紀。ワタルは、彼女を心から尊敬した。そして、言われた意味を考える。
ずっとパートナーでいる為に、自分はどうすべきなのか。
和寿は、プロのバイオリニストを目指している。その人と演奏していくということは、自分もプロを目指さなければならないのではないか。
(出来るのか? それよりも、僕はプロになりたいのか?)
自分に訊いてみる。が、答えが出ない。そもそも、どうして音大に入ろうと思ったのか、そこから考えてみることにした。
音大に入ろうと思ったのは、中学を卒業してまもなくだった。外国の老ピアニストが、ワタルの実家のそばのホールで演奏会を行なった。奇跡的にチケットが取れて、一人で聞きに行った。
彼がステージに現れると会場は拍手に包まれたが、ピアノの前に座ったとたん静まり返った。一音目が鳴った時、ワタルは全身に鳥肌が立ったように感じた。そして、最後まで彼を食い入るように見ていた。手の動き。音の響き。表現力。全て完璧だった。正に、音楽と一体になっている、そんな感じを受けた。
演奏会終了後、ワタルは家まで走って帰った。すぐにピアノを弾きたい。そう思った。家に着くとピアノ室に入り、何時間も弾き続けた。疲れて手を止めた時、母から夕飯の時間だと言われた。
仕事で遅くなることが多い父が、その日は珍しく帰宅していた。ワタルは、両親と妹に向かって、見てきたことを興奮気味に語った。その様子を見ていて、しまいに父が笑い出した。
「わかったよ、ワタル。君はやっぱり、音楽をやっていった方がいいみたいだ。君がどれだけピアノを好きか、そのピアニストに感じ入ったか十分伝わってきた。今から高校を変える事は出来ないけど、大学は音大にしたらどうかな」
父の申し出に、ワタルは深く頷いた。
「そうする」
即決した。いつも、はっきりしない子だと言われていたが、この日はあり得ないスピードで決められた。
その日からワタルは、受験に向けて猛勉強をした。そして、合格を勝ち取る事が出来たのだ。
(それで? 僕は今、どうして悩んでいるんだろう)
本当はどうしたいんだろう。失敗が怖いから、興味のない振りをしているんだろうか。何度も自分に問うてみた。
あの時、自分は何を感じたのか。自分でも、こんな素晴らしい、人に感動を与えられるような演奏をしたい。だから、音大に行きたい。そう思ったのではなかったか。それはつまり、どういう事か。
「そうか。そうだったのか」
ワタルは一人、呟いた。
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