第10話 水浸し

 翌日、ファルファッラでピアノを弾きながらも、いつその時が来るかと気が気ではなかった。彼らが来た時、仕事がまともに出来るのだろうか。


 二人が来たのは八時頃で、店内は少し人が少なくなっていた。席に着くと、二人でメニューを見て、何か注文した。和寿かずとしは、由紀ゆきに何か話している。神妙な顔をしていた。


 料理が運ばれてきてすぐ、由紀が立ち上がり、コップの水を和寿の顔に掛けた。そして、何か彼に向かって言った後、そのまま振り返ることなく出て行った。


 驚きのあまり、ワタルはピアノを弾くのをやめて、和寿へ向かって走り出した。


「和寿」


 声を掛けて彼を見ると、笑っていた。それも、本当に楽しそうに。ワタルは目を見開き、


「え。笑うとこ?」


 ワタルの言葉に、和寿は笑うのをやめたが、やはり笑顔のままで、


「良かった。掛けられたのが水で。コーヒーだったら、熱かっただろうなー」


 ワタルは、何も言えずに彼を見ていた。


「それか、このスープスパゲッティー、頭からかけられるとか」

「和寿」


 彼は急に真顔になって、呟くように言った。


「後で、事の顛末、話してやるよ。楽しみにしてな。さ。おまえは仕事しないと」


 そう言った後、和寿が、ワタルの後ろの方に目をやっているのに気が付いた。振り向くと、そこには店長が立っていた。店長は、いつもの優しい笑顔で、ワタルたちを見ていた。


 和寿は立ち上がると、店長に頭を下げた。


「すみません。お騒がせするつもりはなかったんですけど。お詫びに何か一曲弾きます」


 和寿の言葉に店長はニヤッと笑い、


「じゃあ、『タイス』」

「ですよね。弾きますけど、すみません。何か着替えをお借りしたいんですけど。このままだと、が濡れてしまうので」


 とは、もちろん彼の大事なバイオリンのことだ。シャツがこれだけ濡れていれば、確かに楽器も濡れるだろう。


「店長。更衣室にスタッフ用の白いシャツ、ありますよね。着てもらっていいですか?」

「いいよ。だって、『タイス』を弾いてくれるんだから。楽器が濡れたら大変だしね」

「ありがとうございます。じゃあ、和寿。こっちに来て」


 和寿の手をしっかりと握って、更衣室に向かった。


「はい。これ着て。僕は後ろを向いています」

「何だよ。別に見てたってかまわないのに」


 ワタルの反応を面白がっているのか、小さく笑っている。


「だって……」

「そんなに可愛いと、ここで襲うぞ」

「え。嫌です。絶対ダメです。ここは僕の職場です」


 必死で言い返すと、


「何だ。つまんないな。わかりましたよ。さっさと着替えて演奏します」


 脱ぎ着している音を聞くだけで、心臓がバクバクしてしまう。少しして、「はい。終わりました」と声を掛けられて、ワタルは和寿の方を向いた。その白いシャツがあまりにも似合っていて、ワタルは顔が赤くなってしまった。和寿は一歩前に出て、ワタルを抱きしめてきた。身動き出来ずにいると、和寿は笑顔になり、


「ワタルくん。可愛過ぎ」


 口づけが降ってきた。つい、うっとりとしてしまう。が、すぐに正気に戻った。


「和寿。早く戻らなきゃ。こんなことしている場合じゃありません」


 和寿は、わざとらしく大きな溜息を吐き、「わかったよ」と言うと、ワタルの髪を一撫でしてから、「行くぞ」と言い、歩き出した。ワタルは、「うん」と返事をして、彼の後を追った。

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