第8話 和寿のバイオリン

「ここが伯父さんの家じゃなかったら、お前の事、押し倒すんだけどな」


 にやりと笑って、和寿かずとしが言った。ワタルは顔を赤くしながら、


「それだけ元気なら、すぐに治るね」


 立ち上がって、背を向けたが、和寿に「おい、待てよ」と声を掛けられ、足が止まる。ワタルは振り向くと、真剣な顔つきで言った。


「和寿。みなみさんも君を好きかもしれないけど、譲れません。今までずっと、君を好きだって認めること、この気持ちを伝えることから逃げてきたけど。向き合って良かった。逃げなくて良かった。もう一度言います。和寿。君を大好きだよ。だから、早く治って帰ってきてね」


 ワタルがそう言うと、和寿は「ああ」と言って頷き、


「ワタル。オレ、由紀に言うから。わかってもらえるかわからないけど、オレも逃げない。この気持ちを説明する。別れないって言われても、何度も話をしていく。だってさ、今好きなのはお前なんだから」


 真剣な表情の和寿に、ワタルは深く頷いて見せると、


「ありがとう、和寿。じゃあ、行くよ。お大事にね」


 手を振って、部屋を後にした。



 伯母に挨拶をして玄関を出た後、工房を覗くと、伯父が作業をしていた。声を掛けると手を止めて、


「ああ、吉隅くん。もう、話は終わったんですか」


 ワタルが頷くと、


「良かったら、工房の中を見て行ってください」


 伯父の言葉に甘えて、工房内を見回った。様々な状態のバイオリンがそこにあった。こうしてあの楽器は作られていくのだと、感動を覚えた。


 ワタルは、ふと思いついて、


「もしかして、和寿くんのバイオリンは、ここで作られたんですか?」


 ワタルの問いに伯父は頷いた。


「そう。和ちゃんがフルサイズのバイオリンを持てる身長になった時ね、和ちゃんのお父さんが、和ちゃんと一緒にここに来てね、和ちゃんに選ばせたんだよ。それが、今使っているバイオリン」


 伯父は、懐かしそうに目を細める。その頃を思い出しているようだった。


「たぶん和ちゃんは知らないと思うけど、あれは、あの時この工房で一番出来が良くて、一番値段の高いバイオリンだったんだよ。いろいろ弾いた後に、これって言って。耳がいいんだね、和ちゃんは。あれを選んだ時、この子はプロになるかもしれないと思ったんです。親馬鹿でしょう。いや。私は親じゃないけれどね。子供のように思ってるんですよ。うちには子供がいないんでね。でも、本当にそう思ったんです。そして、今でもそう信じているんです」


 手を休めずにそう告げた。伯父の言葉にワタルは深く頷き、


「僕もそう思っています。和寿くんのバイオリンの音色は、世界中の人に聞かせた方がいいと思うんです。和寿くんの無伴奏ソナタを聞いて、僕は号泣しました。心の奥深くに、何か強く訴えてくるような、そんな圧倒的な演奏でした。あんな音を聞いたのは初めてで。あの時、思ったんです。彼は世界に出た方がいいって。それが、僕たちの関係を変えてしまうとしても」


 言って、自分で傷ついた。さっきまでの幸福感が消えていくようだった。が、すぐに思い直した。


 その日が来るまでは仲良しでいよう。世界に出たから二度と会えないとか、ないだろう。彼が他の人を好きになってしまったとしても、自分はずっと和寿を好きだ。それでいい。


 言い聞かせると、心は落ち着き、幸福な気持ちが戻ってきた。


「たとえ世界に出たとしても、和ちゃんと友達でいてくださいね。和ちゃんも、それを望んでいると思います」


 作業の手を止めて、ワタルの肩を軽く叩いた。ワタルが頷くと伯父も頷いた。


「引き止めて悪かったね。気を付けてお帰りなさい」

「ありがとうございました」


 心を込めて言った。


 工房を出ると、雪がちらちらと降り始めていた。


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