第8話 わかったよ

 それからしばらく、由紀ゆき和寿かずとしを責め、和寿があやまる、が続いた。そして、十分も続いた頃、由紀がワタルをきつい目つきで見た。ドキッとして、一歩後ろに下がってしまった。


「あんたの演奏、聞かせてよ。今日、この人と一緒にレストランに行くから」

「え。二人で、来るんですか。あ……ありがとうございます」


 店に来てくれるからには、ゲストだ。お礼を言うのが筋だろう、と思って口にしたが、由紀の不興を買ってしまった。


「お礼なんか言っちゃって、あんた、馬鹿じゃない?」


 ワタルは何も言えず、固まってしまった。由紀は和寿に視線を戻し、


「今日、一緒に行くからね。いいよね」


 和寿は頷き、「いいよ」とだけ言った。


 夕方になり、ファルファッラに行くと、店長から、


「あれ? 何かあった? 元気がないみたいだけど」


 今日、これから起こることを考えると憂鬱で、楽しそうには振る舞えない。が、説明は出来ないので、「ちょっと疲れているので」とごまかした。店長は納得してくれたようで、


「あんまり無理しなくていいからね。適当でいいから」

「いえ。あの……頑張ります」


 店長へ一礼すると、更衣室へ行き、着替えた。鏡で全身チェックをすると、ホールへ向かった。すれ違うスタッフへ挨拶をしながら、ピアノへたどり着く。ピアノの前に座ると、少し気分が落ち着いてきた。


 開店から一時間程した頃、約束通り和寿と由紀が来店した。動揺して指が転んだが、すぐに立て直した。仕事だ、と自分に言い聞かせた。


 ミスしたのがわかったのだろう。由紀がワタルの方を見てきた。そして、ふっと笑った。その顔は、ワタルを馬鹿にしているように見えた。冷水を浴びせかけられたような気持ちになった。


 しばらくは調子が出なかったが、時間が経つにつれて、普段の状態に戻って行った。


 そして、気が付いた。由紀が、食事の手を止めてこちらを見ている。見ている、というより、ピアノの音に真剣に聞き入っている、という風だ。


 今、自分は、由紀にジャッジをされている、と理解した。


(気にしてもしょうがない)


 平常心を心掛け、最後まで弾き切った。


 彼女を見ると、もうこちらは見ておらず、食事を再開していた。ワタルは溜息を吐いた。


 休憩の為彼らのそばを通り休憩室に行こうとした時、由紀がワタルの腕をつかんだ。びっくりして彼女を見ると、「わかったよ」と言った。


「わかった?」


 聞き返すワタルに由紀は頷き、


「そう。わかった。もういい。私、伴奏は降りるよ」


 ワタルは、何も言えずにその場に立ち尽くした。和寿は、「え」と言った後、

「由紀。いいのか」と、興奮気味に、由紀に訊いた。


「その人が上手いのはわかった。あんたは、この音がいいんでしょ。もう、いい。わかったから」


 言うなり由紀は立ち上がり、「ごちそうさま」と和寿に言って店を出て行った。


 和寿は傍らに立っているワタルを少し見上げると、「だ、そうだ」と肩をすくめて言った。ワタルが何か言おうとした時、


「準備出来たよ。奥で食べておいで」


 店長に遮られた。渡された食事を手にして、休憩室に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る