第7話 南由紀

 和寿かずとしと合わせたその日から、ワタルは大学で彼を見かけることが多くなった。ワタルからは声を掛けなかったが、彼がワタルに気が付くと、必ず声を掛けてきた。それが、他の誰かと一緒にいる時でも、なのだ。


「あの、油利木ゆりきくん。友達が待ってるみたいですけど。早く戻った方がいいのでは?」


 思い切ってそう言ってみたが、和寿はあまり気にしている様子はなく、


「いいじゃん。それよりさ、今日、仕事? またワタルのピアノ、聞きたいんだけど」

「えっと。今日は仕事です。来てくれるなら、何か希望の曲を弾きましょうか」


 和寿は、ワタルの質問には答えず、


「いつまで敬語使うんだよ。それと、オレのこと、名前で呼べ。もう、名字で呼んでも返事しないからな」


 急に何を言い出すんだろう。ワタルは、あまり砕けた話し方が得意ではない。名前の呼び捨ても、あまりしたことがない。


「それは、たぶん無理です。油利木くん、でいいじゃないですか」

「オレ、返事しないって言ったぞ。今から実行します」


 和寿がワタルをじっと見る。呼んでほしいとの期待が込められた目をしていた。が、ワタルはあえて、


「油利木くん」


 呼んでみたが、予告していた通り返事をしない。さらに何回か呼んでみたが、やはり返事をしない。ワタルは息を吐き出すと、意を決して、


「和寿」


 彼は笑顔になり、


「やっぱり名前で呼ばれる方がいいな。あとは、敬語をやめてくれたらいいんだけど」

「だから、それは難しいって言ってるんですけど」

「じゃあ、徐々に」


 譲歩した。ワタルは頷き、


「あ、はい。努力します」

「よし。約束だぞ」

「はい」


 和寿が笑い出したのにつられて、ワタルも笑った。少し距離が近づいたような気がして、嬉しかった。


 その時、「和寿」と呼ぶ女性の声がした。二人でそちらを見た。和寿は複雑な表情になりながらも、その人に手を振った。


「あの人が、オレの彼女」


 伴奏をしてくれているという、彼女。そういえば、何かの講義の時に見かけたことがある。ほっそりとして涼やかな目元。黒くて長い髪。美人系の人だ。


 彼女は和寿の傍らに立つと、ワタルに視線をよこした。ワタルは彼女に向かい、頭を下げた。和寿は彼女に目を向け、


由紀ゆき吉隅よしずみワタルくん。由紀と同じ、ピアノ科」

「見かけたことはある。みなみ由紀ゆきです。よろしくね」


よろしくね、とは言ってくれているが、目は笑っていない。


「あ、はい。よろしくお願いします」


 空気が少し重い。和寿の顔つきも微妙なままだ。彼は隣に立つ由紀の目をとらえながら、「あのさ……」と切り出した。


 ワタルは、和寿が何を言い出すのか想像し、止めなければ、と思ったが遅かった。


「由紀。今まで伴奏やってくれてありがとう。でも……ごめん。今日で終わりにしてくれ」


 ワタルは、和寿の発言に鼓動が速くなっていた。


「このまえ、ファルファッラでワタルと一緒に演奏してさ。あ。ワタル、あそこでピアノ弾くバイトしてるんだよ。で、仕事が終わった後、やった。すごく……楽しくて」


 和寿が、言葉に詰まった。由紀が、和寿にきつい目をして、


「なに、それ。よくわからないんだけど」

「オレもわからない。何でこんなにワタルと一緒にやりたいのか。でもさ……」

「嫌だって言ったらどうするのよ」


 由紀が、和寿の左腕を揺さぶりながら、強い口調で言った。


「嫌だって言ったら……」


 繰り返す由紀に、和寿は頭を下げた。


「ごめん。何回でもあやまる。だけど、オレはワタルとやっていきたい」

「何でその人なのよ。私の何がそんなにいけないのか、言ってよ」

「ごめん」


 繰り返す和寿。泣きながら訴える由紀。ワタルは、ただ二人を見ていることしか出来なかった。

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