第6話 ソナチネ第一番

 それは、シューベルトのソナチネ第一番だった。ワタルは、勉強不足で、どんな曲かわからない。楽譜を見ていると、和寿かずとしがワタルの方を見て、


「初見は、得意?」


 訊かれてワタルは頷く。和寿は、「そうか」と言い、


「じゃあ、第1楽章だけでいいから、最後まで見て。大丈夫そうなら声掛けて」

「わかりました」


 ワタルは、楽譜を真剣に目で追った。実際に聞いたわけではないが、今、頭の中で音楽が鳴っている。わくわくしてきて、楽譜から目を離すと、


油利木ゆりきくん。始めましょう」


 催促するような口調で言っていた。和寿は楽器を構えると、


「じゃあ、悪いんだけど、Аアーください」

「А? ああ。はい」


 言われた意味を理解し、ラの音を鳴らす。それを聞いて、和寿はペグを回して音を決めていく。器用なものだ、と感心した。


「テンポはこのくらい」


 言って、ピアノの側面をコンコンと叩く。ワタルが頷くと、


「オレが息を大きく吸ったら、それが合図だから。じゃ、始めようか」

「はい」


 合図が来て、演奏を始めた。ワタルは今まで、バイオリンの伴奏をしたことはなかったが、音楽が進むにつれて、楽譜に目を通した時の感情が沸き上がってくる。


 楽しい。


 和寿が楽器から弓を離すと、スタッフと二人の先生たちが大きな拍手をくれた。

「ブラボー」という声さえ聞かれた。和寿は、バイオリンを持ったまま左手を突き上げた。中村なかむらが和寿のそばに駆け寄ると、


「何だか君、急に上手くなったんじゃないか? 今、何かが起きたよ」


 喜んでいると言うよりは、むしろちょっと恐れているような顔に見えた。そんな中村の表情など全く気にしていない様子の和寿は、満面の笑みで、


「やっぱりそうですか。オレもそう思ったところです。今、ワタルのピアノに引っ張られて、弓の使い方が急に良くなったと感じていたんです。先生がそう言うなら、本当にそうなんですね。やったね」

「レッスンでも、今の感覚を忘れないでくれるといいんだけど」

「忘れませんよ。今日帰ったら、すぐに練習します」

「本当だね? 明日のレッスン、楽しみにしてるからね」

「はい。オレもすごく楽しみです」


 二人のやりとりを聞いていると、宝生ほうしょうがワタルのそばにゆっくりと歩いてきた。


「先生。どうでしたか、今の演奏」

「良かったですよ。君たち、相性が良さそうですね。でも、油利木くんには伴奏者がいるんでしたね」


 高揚していた気持ちが、一気に沈んでしまった。今日だけ、と言い出したのは自分だったと思い出した。


「あ、はい。そうですね」


 それしか言えなかった。宝生は、ワタルを横目で見ながら、


「あれ? 僕、何か悪いこと言いましたか?」

「いえ、別に言ってません」

「それなら良かったです」


 微笑する宝生。本当に愛弟子と思ってくれているのだろうか、とワタルは疑いの気持ちを持たずにはいられなかった。

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