第4話 油利木くん
ファルファッラでピアノを弾くようになってから、半月ほど過ぎた。だいぶ慣れてきたとはいえ、ドアのベルには反応してしまう。
その日は、やや客足が鈍く、ノーゲストになる時すらあった。
「
「はい」
店長は、大きく伸びをするとワタルのそばを離れ、ウェイトレスらと談笑し始めた。
ワタルは椅子から立ち上がり、体を少し動かした後、ピアノの影に置いておいたペットボトルの水を、一口飲んだ。
はーっと息を吐いた時、ドアのベルが鳴った。ワタルは、急いで椅子に座ると、ドビュッシーの『月の光』を弾き始めた。
ゲストを何気なく見ると、よく知っている人だった。
(
ワタルは、急に鼓動が速くなったのを感じた。
彼等は、ウェイトレスに注文した後、楽しそうに何かを話している様子だ。気になりながらも、演奏を続けていた。そこへ、店長がやってきて、「休憩どうぞ」と言った。
「今日は、先生たちと食事していいよ。特別だよ。今、あの席に食事持って行くから」
「いいんですか? ありがとうございます」
椅子から立ち上がると、宝生たちのテーブルに向かった。宝生は、ワタルに気が付くと軽く手を挙げ、
「お疲れ様。いい演奏ですね。ちゃんと分をわきまえている感じで」
「はい。そのつもりです」
ワタルが席に着くと、すぐに食事が運ばれてきた。
「吉隅くん。バイオリンの中村先生。一度会ってますね。それから、中村先生の門下生の……」
宝生の視線が、中村からもう一人の方に移った。ワタルもその人を見ながら、
「
言われて彼は、驚いたような表情でワタルを見て、
「え。オレを知ってるんだ?」
「入学式で
ワタルの言葉に、和寿は笑顔になり、
「オレ、有名人? やった」
その嬉しそうな表情を見て、ワタルは顔が赤くなるのを感じ、思わず視線を外してしまった。そうされて和寿は、
「なんで俯いてるんだよ。オレ、気に障ること言っちゃったかな」
「違います」
「そっか。じゃあ、食事しなよ。時間、決まってるんだろう」
促されて食べ始めるが、あわてて口に運んでいるせいか、味がよくわからない。
「君さ、すごくきれいな音で弾くんだね。なんかさ、癒される。先生たちも、そう思いませんか」
和寿が言うと、宝生は深く頷く。
「そうでしょう。だってね、この人は僕の愛弟子ですから。僕は、そう思ってるんです」
愛弟子。
ワタルは、その言葉に驚いて、食べ物を引っ掛け、むせてしまった。それを見た和寿が、ワタルの背中を叩きながら、「落ち着けー。落ち着けー」と呪文のように言う。そのおかげか、少しすると落ち着いてきた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「良かった」
和寿が、ほっとしたように息を吐くのを、つい見つめてしまった。
「あのさ、ワタル。オレの伴奏、やってくれないかな。君と合わせてみたいんだけど」
「伴奏ですか」
和寿から、いきなり名前の呼び捨てをされて動揺しながらも、なんとか言葉を返した。
「そう。伴奏。どうかな」
ワタルが答えられずにいると、今まで黙っていた中村が和寿の肩を叩き、
「油利木くん。君、伴奏やってくれてる人がいるんじゃなかったっけ。高校の時からやってくれてるって言ってたよね。しかも、その子と付き合ってるんだろう。彼女、どうするつもり? 伴奏断った後、絶対気まずいよね」
中村の言葉の何かに反応して、胸がどきっとした。何に反応したのだろうと考えていると、和寿が頭を掻く。
「それを言われると……。じゃあ、今日ちょっと合わせるのはどうかな。今日だけ」
ワタルの目をとらえながら、訊く。ワタルは、ためらいながら、
「今日だけなら。あの。僕が油利木くんの伴奏をすることでもめるんだったら、やりたくないんです。だから、今日だけ」
「わかったよ。じゃ、仕事終わるの待ってるから」
和寿は嬉しそうだったが、宝生は微妙な表情をしているように見えた。心配になって、
「宝生先生。先生は反対ですか」
「いえ、別に。君の人生ですからね。君の好きにするといいですよ」
愛弟子と言いながら、突き放すようなことを言う。やはり、理解するのが難しい、とワタルは思った。
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