第2話 レストラン・ファルファッラ

 ドアのベルがカランカランと鳴ると、モップを持った女性が、ワタルの方に振り向いた。


「まだ準備中なんですが」

「あ、その……。えっと……店長さんはいらっしゃいますか? 宝生ほうしょう先生に言われて来たんですが」


 ワタルは、どうにか来意を告げることが出来て、安堵の息を吐いた。女性はワタルに一歩近づくと、


「あなた、可愛いわね」

「え?」

「店長呼んできてあげる。ちょっと待っててね」


 微笑みを浮べた後、ワタルに背を向けて、奥に入って行った。


「店長」と呼んでいる声が聞こえ、少ししてから男性が出てきた。


「私が店長の長田ながたです。宝生先生に言われてここに来てくれたってことは、ピアノ弾けますよね」

「はい。宝生先生に教えて頂いています」

「じゃあ、早速ですけど、ちょっと奥まで来て下さい」


 言うなり長田店長は歩き出した。ワタルもその後を追った。テーブルと椅子が並んでいるその奥の一角に、グランドピアノが置かれていた。長田店長はピアノの脇で立ち止まり、


「ちょっと弾いてみてくれますか。何でもいいんですけど、出来れば、こういう場に合った綺麗な感じの曲をお願いします」


 訳が分からなかったが、とにかくピアノの前に座った。蓋を静かに開けて鍵盤を見つめた後、


「それでは、ショパンのノクターン第二番を弾きます」


 呼吸を整えて弾き始めた。静かに始まり、きらきらした感じで終わる。ペダルから足を離してふっと右側を見ると、いつのまにか人が増えていた。その人たちがいっせいに拍手をし始めたので、立ち上がって一礼した。


 店長は、ワタルのそばへ来ると肩をぽんと叩き、


「すごくいいです。採用しますから、今晩からお願いしますね」

「採用? それはどういう……」


 ワタルの言葉に、店長が首を傾げた。傾げたいのは自分の方だ、とワタルは思ったが、口にはしなかった。


「あ。もしかして、先生から何も聞いていないんですか?」

「はい。何も。何故ここに来なければならないのか何回も訊いたんですけど、教えてくれなかったんです」

「彼らしい」


 店長は、そう言って笑った。


「先生にお願いしていたんです。ピアノを弾くアルバイトをやってくれそうな子がいたら紹介してくださいって。それで、君が選ばれたようです」

「よくわかりました。僕で問題がなければ、やってみます」


 ワタルの言葉に、店長は驚いたように目を見開くと、


「本当? しばらく弾いてくれる子がいなくて、寂しかったんですよ。もちろん、君でいいです。ピアノの演奏も、もちろんいいですけど、君は容姿もいいから」


 褒められて、戸惑いながらも、「えっと。ありがとうございます」とお礼を言った。店長は、ワタルの腕を軽くつかむと、


「それじゃ、早速ですけど着替えてもらえますか。ここでは、正装で弾いてもらうことにしています」


 更衣室に連れて行かれ、渡された服に着替える。燕尾服だった。本格的だ。


「じゃあ、これに着替えて、今いたホールに来て下さいね」


 軽く手を振り、店長は更衣室を出て行った。ワタルは、渡された服に急いで着替えると、ホールへ戻った。店員たちは、一斉にワタルの方を見た。そして、女性陣がどよめいた。


 店長は、ワタルの上から下まで眺めた後、満足そうに笑むと、


「いいじゃない。似合ってるよ。あれ、そういえば、名前を聞いてなかったですね」

「そうでした。僕は、吉隅よしずみワタルと言います。よろしくお願いします」

「こちらこそ。五時から営業しますから、それまで何か弾いていて下さい。そこに楽譜もありますから、適当にお願いします」


 お金をもらうのに適当になんて出来ません、と言いそうになったが、やはり言わずにいた。楽譜を見てみると、フランスの有名な曲が多かった。店名はイタリア語だが、あまり関係ないようだ。


 楽譜を見ながら何曲か弾いていると店長が、「それでは、よろしくお願いします」と言った。いよいよ初仕事の時が来た、と緊張が走った。

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