第2章
第1話 宝生先生
念願叶って音楽大学に入学したワタルは、ピアノのレッスンを終えて、ドアに手を掛けた。と、その時、
「あ。
担当教授の
「はい。今日は、何も予定はありません」
「そう。では、お願いしたいことがあります」
「え。お願いしたいこと、ですか」
思いがけないことを言われて、戸惑う。宝生はこちらを見ずに、
「ええ。お願いしたいことがあります」
ピアノを拭く手は止めずに言葉を継ぐ。
「『ファルファッラ』に行ってほしいんです。ほら。ここに来る途中にある、レストランです。知っているでしょう」
言われて頷き、
「確か、蝶の絵の看板がかかっていますよね」
「ええ。そうです。『ファルファッラ』は、イタリア語で『蝶』ですから」
宝生は言葉の意味を説明してくれたが、ワタルが知りたいのはそんなことではない。
「先生。ぼくは何故、そこへ行かなければならないのですか。それがわからないんですが」
ワタルの質問にようやく宝生は鍵盤を拭くのをやめて、ワタルの方を見た。そして、微笑を浮べて言う。
「それはね、君。そこへ行けばわかることです。もちろん、行ってくれますよね」
答えられずにいると、宝生はもう一度言った。
「行ってくれますよね」
「でも、何故ですか」
「まあ、いいじゃないですか。四時半くらいまでにそこに行ってください。あそこは五時開店ですから。では、頼みましたよ」
涼しい顔をしているが、断りを言えないような押しの強さがある。ワタルは諦めて頷いた。
「わかりました。何だかわかりませんけど、行きます。行けばいいんですよね」
「そう。行けばいいんです」
宝生は、ワタルのそばまで来ると、肩を軽く叩いた。ワタルが宝生を見ると、
「では、頼みましたよ」
やはり、微笑みを浮べていた。よくわからない人だ、とワタルは思った。
一礼して部屋を出た。どこからか、金管楽器の音が聞こえている。本当に音大なんだな、と改めて思った。そして、自分がここにいていいのかどうか考えてしまう。この空間に慣れていないせいなのか、時々違和感を覚える。
校門を出て、まっすぐの道を百メートルほど歩くと、右手に例のレストラン。蝶の絵の横に、イタリア語とカタカナで店名が書かれている。
学校に行く途中で何度も見ていたが、入ったことは一度もない。が、何の為かはわからないが、今からこの中に入らなければならない。
ワタルは、覚悟を決めて、ドアを押し開けた。
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