屍竜の翼 その5
腹の底から響く振動が丸木の様に硬く張ったミラベルの変化した腕から伝わってくる。
「浮上します」
こちらの気持ちなど考えるつもりなどないミラベルが言った。途端、腕を掴んでいるだけの俺の靴底が草地の上から離れ始め、頭上に広げられた翼の被膜から肌を打つような波が放たれているのが分かった。
「うぉぉっ!?」
「ははは、よし、行こう!」
「おい! こっちは心の準備ってものがっ」
俺の叫びはミラベルの翼が作る波動音がかき消してしまったらしい。まもなく、ミラベルは緩く地面を蹴って飛び上がると、腕を掴む俺とオルフェと共に宙へと舞い上がって行く。
始めはゆっくりと高度が上がっていたが、翼をはためかせるたびにその速度は上がっていき、顔肌に風を受けているのを感じた頃には、地上は遥か遠く、星空の光と月光が照らす夜の雲が、高山の高みから望むよりも近く迫っていた。
「うおおおっ!」
「うはははは!」
俺の絶叫と弟の歓喜の声を聞く者は誰もいない。風を切る轟音が己の耳さえ塞いでいた。
「ミラベェェル! オルフェェエ!」
「あっはっはっは! 空を飛ぶのは楽しいねぇ!」
オルフェは楽しんでいたが、俺としてはそれどころじゃない。ミラベルの腕にしがみつき、身体にかかる浮遊感が生む恐怖に打ちのめされ、俺は叫ぶばかりだった。
「見なよドリジャ! 月に掛かる雲があんなに綺麗だよ! それにビッグレッドシャーを囲む山脈も!」
「現在、高度約2000メートルです。時速560キロメートルで航行しておりますわ」
「はっ!?」
辛うじて正気を掴んでいるだけの俺にはこいつらが何を言っているのか咄嗟に理解できなかった。
「もういいから! 早く俺を地面に降ろしてくれ!」
「ええ? こんな素晴らしい体験そう何度も出来ないよ。もう少し飛んでいようよ。ミラベル、ビッグレッドシャーを一周するんだ」
「畏まりましたわ」
俺の発言を無視して、二人は遊覧飛行と洒落込むことを決める。俺はそのまま腕を掴んだまま、叫び続ける事しかできなかった。
遠く東の空の稜線が朝焼けの光で青紫に染まっているのを、俺は地面に突っ伏していた時にようやく気付いた。
一晩中、ビッグレッドの上空を飛び回った俺たちは、朝日が昇る頃になってローズ&メイ館まで戻ってきたのだ。
徐々に高度を下げ、ふわふわと地面に着地した瞬間、この数時間を除いてはいついかなる時も身体に掛かっていたはずの肉体の重みが戻ってきた。俺は地面に身を投げ出し、草の上を転がり、土の臭いに塗れながら喘いだ。
「……戻って、きた……?」
「ふぅ、楽しかった」
俺より体力的には遥かに劣るはずのオルフェはしかし、満身創痍になっていた俺とは違い、興奮に肌を紅潮させつつも元気にそう答えた。
奴は地面に転がっている俺の傍に座り、俺の息が戻るのを待っていた。
「……オルフェ」
「うん」
「もう二度と俺を空に飛ばそうなどと思うなよ。もし次があるなら……」
身を起こし、俺は弟を見た。奇想と軽妙さでセルジュゲイルの一族に並ぶものがないであろうオルフェウスは、万人をしてセルジュゲイルの男らしい俺を、その何物も見通しているかの如き目で、ひた向きに見返している。
「その次は兄弟の縁を切るからな」
「それは、とっても困るなぁ」
本当にそう思っているのか、甚だ怪しい様子でそう言うのだった。
こうして俺たちの『ビッグレッドシャーのドラゴン』に関する説話を端に発す一連の探索は幕を閉じた。
暴かれたドラゴンの正体に関して、ビッグレッドシャーの住民たちは何も知らないし、これからも知ることはないだろう。
ただ、ローズ&メイ館の蔵書庫の片隅に、真新しい紙で書かれた報告書が一冊追加され、その内容は時期を経て国々の死体魔術師どもの巷間に知れ渡ることだろう。
それから、随分と経った頃のことだ。
俺はその時、領地から戻ってきたオーラムセンとベーコンを肴に酒を飲んでいた。奴は透けるような肌を酒気で染めながら、こう話し始めた。
「この前な、俺の地所を任せている家人の一人が噂話を聞かせにやってきたんだ。なんでも、以前、夜空を巨大な翼のある、しかし鳥ではない何かが横切っていったらしい。そいつは人のような叫び声を微かに空から聞かせながら、飛び去って行ったというのさ。それ以来、領民たちは大昔のドラゴン伝承を思い出して恐々としているってさ」
酒の入ったがなり声で言いながら、オーラムセンは笑った。
「馬鹿馬鹿しい! 今日びドラゴンなどいるわけないだろう! と言って追っ払ったがな。これだから田舎領主なんてやるもんじゃねぇな。やっぱり俺は海に出ているのが一番、気楽だね。そうは言っても先祖代々の領地だから、手放すわけにもいかないんだが」
それを聞いた俺は、ふとこの一件のことを思い出した。
「オーラムセン、お前の館の蔵書庫の片隅を見る機会があるのなら、そこにある報告書を読むといい。きっとお前は先祖の偉業を改めて見つめ直し、領民の慰撫に努めることになるだろう」
「なんだ? ちびのドリジャ―ル、俺に意見するつもりかよ」
「……なんでもない。忘れろ」
オーラムセンが報告書を読むかは分からない。
だが、相変わらずビッグレッドシャーは赤土の肥沃な土地で家畜を育み、人の胃を満たしてくれているし、これからもローズ&メイ館の主たちは、領民を良く導くことだろう。
皿に出されたベーコンの一切れを食べる時、俺はそう思うのだった。
オルフェウス死霊浪漫譚 きばとり 紅 @kibatori
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