屍竜の翼 その3

「さぁ、ここからは歩きだ。ゾーエ、荷物を持って」

「かしこまりました」

 ゾーエが背負子に積まれたトランクを担いた。俺は自分の装備を検める。

 まさか本当にドラゴンなんて出てくるわけもなかろうが、危険な野生生物くらいは出てこないとも限らない。だから俺はせめての用意として、自前の剣の大小、革張りの籠手グローブ、あとは多少の小物を身につけておける雑嚢帯を持ってきた。こいつには俺が戦場でよく使う、いわゆる七つ道具が入っている。

 革籠手も厚みがあって丈夫な奴だ。野犬や狼、あるいは熊の類でも噛みつぶせないように、中に鉄板を仕込んである。

「仰々しいねぇ、ドリジャは」

「見知らぬ自然に踏み込むんだからこれくらいはするだろう。お前は何の用意もないのか」

「うーん、僕は短剣一つあればとりあえずいいかな。ミラベルもいるしね」

「はい。オルフェウス様に危険が迫れば、私が排除します」

 そう楚々と答えるミラベルだが、そのミラベル自身もいつもの黒尽くめの包帯とドレス姿だ。

 まるでこれからちょっと街の散歩にでも行こうか、という腰の軽さを見せつけられると、それなりに準備をしてきたつもりの俺としては調子が狂う。

「……真面目に働いてるのは俺とお前だけだな、ゾーエ」

「おほめにあずかり、こうえいです」

 トランクを担いだ黒い巨漢の言葉に僅かな慰めを覚えつつ、俺たちは巨石に守られた湿原の中へと足を踏み入れた。

 道はない。辛うじて生き物が出入りしてできたような、細い獣道の痕跡くらいはあったので、取り敢えずそれを目印に、灌木が茂る林の中へ進むことになった。

「時折、木を切りに人が入るらしいとは聞いたけど、この様子じゃそれもままあることじゃないだろうな」

 足元は思ったよりは悪くない。泥沼を行くような場所だと進むも退くもならないところだが、現状の具合ならせいぜい、深い足跡が残るくらいのものだ。

 俺とオルフェが先頭、後ろにミラベルとゾーエが続く。茂みが深い所は剣で払い、なるべくまっすぐ進むように心がけた。

「帰り道が分からなくなるからな。一応方位は確認してあるが」

「良いことだと思うよ。僕らにあるのは地図だけだし、目印らしいものもないし」

 オルフェはあらかじめ、古い地図に示されたドラゴンの居場所を現在の地図に重ねて書き移していた。それも大まかな位置でしかないから、ある程度湿原に踏み込んだら方々を探し回ることになる。

 俺たちは暫く歩いた。風景は木々に覆われ、足元は丈の長い水草や葦が繁っている。羽虫の不快な感触が時折ある以外、生き物の気配は薄い。

 次第に踏み込む足に水の感触があるようになった。湿原の奥地にはまだ沼地があるのだろう。

 どれくらい歩いただろう、振り返ると自分たちの進んだ道が、切り開かれた下生えの痕跡ではっきりと見え、これを逆に辿れば馬車を繋いだ石柱まで問題なく帰ることが出来るだろうと安心できた。

 ちょうどそんな時、オルフェが足を止めた。

「あの辺で休憩しよう。乾いた地面がある」

 オルフェが指さした先には小島のような盛り上がった地面があった。背の低い茂みが大半を覆っているが、反ってそれがよかった。

 俺たちはそこに『上陸』した。湿っぽい空気から解放されて一息つける場所だった。早速ゾーエはトランクから敷物を取り出すと俺たちに示した。

「おすわりください」

「うん、ありがとう」

 抵抗なく座るオルフェとミラベルだが、俺は落ち着かないので小島の上をうろうろとしていた。

「何にもいないな。本当にドラゴンなんているのかね?」

「さぁて。ドラゴンが実在するとは僕も思っていないよ」

「は?」

「ドラゴンと呼ばれる生き物に最も近いのは、古代に棲息した巨龍種と呼ばれる生物たちさ。これらは象よりはるかに巨大で、鱗の身体に鋭い牙や爪を持っていたことが、化石なんかで分かっている。でも、生きた姿を見たことがる人は誰もいないよ」

 呆気にとられた俺を軽やかな笑みでオルフェは見ていた。

「まさか本当にドラゴンがいると思っていたの?」

「……いや、だがステラ・フラッグ卿……つまり俺たちの友人であるオーラムセンの先祖だが、彼はそれを見たと書き記したのだろう」

「そう言っただけさ。本当にそれがドラゴンとは限らない。むしろ僕は、それは意図的にドラゴンに似せられた何かだと思っているよ」

「ドラゴンに似せた?」

「うん。何故なら、ステラ・フラッグ卿がドラゴンを目撃した時代、彼は戦争をしていたから。敵軍がもし卿の軍団を混乱させようと何かドラゴンに似せた物体を、彼の前に持ってきた可能性が高い……しかもそれは魔術的な力を持ち、沼地の水を毒で侵すことが出来るんだ」

「……そんなことが出来ると思っているのか」

「できるさ。僕にもできる」

 こともなげに言ってオルフェは立ち上がった。

「さぁ、休憩は終わりだよ。地図に照らし合わせると、この小島からドラゴンの目撃地点まではそう遠くはないはずさ」

 

 再び俺たちは湿っぽい地面とそこに生い茂る草木の中へ降り立った。すでに随分と泥に塗れ、身体に嫌なにおいが染みついている気がした。それが単に泥の臭いなのか、泥水の中に流れている毒の臭いなのかはわからない。

 オルフェが示す方向へどんどんと進んでいくと、ますます地面はぬかるんでいき、くるぶしまで泥に沈むようにさえなった。

「ふぅ。くそ、忌々しいなっ!」

 さらに繁茂はんもする草木も太く、ねじくれ、刈り落して進むのが困難になっていった。切り落とした茎の断面から流れる樹液の臭いで頭がくらくらする俺に対し、オルフェの目が爛爛らんらんと光って先の深い茂みへ注がれていた。

「おお、あそこの林、あの樹木の品種にしては不自然な密集状態で生育しているのが分かるかい? 植物と言うのは魔術的な感受性が極めて高い生き物で、近くにあるとそれを内部に取り込んで成長していってしまうことがよくある。古い遺跡なんかで、生い茂る巨木の根をかち割ってみると、中から古い呪具が見つかったりすることがあるが、密生状態で成長する事例も存在する。恐らく、あの林の中にドラゴンの正体があるよ」

 流れ出る樹液の臭いにやられているのは、どうやら俺だけらしい。俺は足元が揺さぶられているような錯覚を覚え、呼吸が荒くなっていくのを感じていた。

「……ドリジャ?」

「オルフェウス様。ドリジャ―ル卿はお身体の調子がよろしくありません様ですわ」

 大して中身の入ってない胃から込み上げる酸っぱいもので胸が詰まりそうになっていた俺の肩に、誰かが手を置いた。

「なんだ……」

「やはり、具合がよろしくありませんわね? ドリジャ―ル卿」

「なんでお前たちは平気な顔をしていられるんだ……」

「私とゾーエはゾンビですので、生体を侵すような毒物は効きませんわ。オルフェウス様も普段から実験で多様な毒物を微量に摂取していますので、普通の方よりも耐性がございます」

「なるほど、そうか。……オルフェ、剣を取れ。この先はお前が進め」

 俺は自分の剣をオルフェに握らせて、さっきの小島までの細い道を戻った。

「俺はさっきの場所で休むことにするよ。ドラゴンの正体はお前たちだけで確かめてくれ」

「……わかった。じゃあ、代わりに僕の短剣を貸そう。丸腰じゃ不安でしょ」

 オルフェが放り投げた短剣を掴み取って、俺はぬかるむ道を逆走した。振り返るとオルフェとミラベルが遠ざかって行くのが見えた。

 ただ、ゾーエだけが俺について戻って来ていた。

「どうした、ゾーエ。オルフェの方へ行かないのか」

「どりじゃさまの、おせわを、いたします」

「変な奴だな。いや、そう言うようにオルフェが仕込んだか」

 まぁいい。一人ぽつねんと小島に佇むより恰好は付く。

 俺とゾーエの二人で小島に戻ると、ゾーエはまた背負いの荷物から敷物を出そうとする。

「やめろ、敷物はいい。水をくれ」

「はい。どうぞ」

 硝子の水筒から水を飲みながら湿原に吹く風に当たっていると、だんだんとさっきまでの不快な状態が引いていく気がした。

 そうして暫くの間、俺はぼんやりと水を飲みながら二人の進んでいった方角を眺めていた。

 自然と俺は小島に転がっていた丁度いい高さの岩に腰かけていた。やすりでも当てたみたいに滑らかで座りやすいそこで、オルフェの言葉を思い返す。

 オルフェが切り込んでいった密生する樹木の壁ともいうべき場所を差して、奴はそれが魔術を使うための呪具による作用だと言っていた。

 と言うことはやはり、ドラゴンの正体は魔術的な何かなのだろう。

 ドラゴンのゴーレム……ということは、あるまい。ゴーレムを作る魔術は確か、ゾンビのそれよりもずっと新しいものだったと聞いた気がする。

 ステラ・フラッグ卿の時代にはまだその萌芽があるかなしか、といったところだろう。

 ということは、それはドラゴンのゾンビである、と言える。

 しかし、オルフェはドラゴンの実在を否定した。あるのはドラゴンに似せた何かだろうと。

 ドラゴンのような何かをゾンビとして使役し、何も知らないステラ・フラッグ卿を足止めし、この地を永く汚染させたものがある……。

 俺の拙い想像力で分かるのはこの程度のことだった。

 貰った水をすっかり飲みほした俺は水筒をゾーエに返した。

「ゾーエ、おまえの荷物の中には何が入っているんだ」

「しきもの、すいとう、たべもの、らんぷ、よびのしゃつ、はんかち、おるふぇうすさまのえらんだやくひんがたくさん、かわひも、ひなわ……」

 延々とゾーエは荷物の中身を諳んじてみせた。大体の中身はピクニックに持って行くような他愛のない代物だが、中にはオルフェらしい胡乱な品物も混じっているらしい。

「革紐とランプを出してくれ」

「かしこまりました」

 言うやゾーエは荷物の中から小型のランプと一巻きの革紐を出した。受け取ってみるとランプにはしっかり油が入っているし、革紐も細いが丈夫そうだ。

「お前はそこでオルフェたちの戻ってくるのを待っていろ。俺は、そうだな……この小島の探索でもするさ」

 この小島はものの数分で反対側にたどり着けそうな狭い場所だが、ここにだってなにがしかの痕跡が無いとも限らない。……と、高説を打ってみたが単に二人を待っているだけなのが嫌なだけだった。

 俺は革紐の端をゾーエの立っている近くの木に結び付け、徐々に紐を引き出しながら茂みの中へと入って行く。茂みとは言っているが、生えているのは細い木のような植物で、ほとんど林といってもいい。

 オルフェたちの入って行った密生植物といい勝負だ。そんなところだが、片手で紐を引っ張りながら、もう一方の手にランプを持ち、足で踏み開いていくと、だんだんと地面の形状が伺えるようになっていった。

 俺たちの上陸した小島の反対側はなだらかに傾斜していき、やがて湿原の泥の中へと埋没していくようになっていた。なんてことはない、この小島は湿原の中に点在する乾いた地面の一つに過ぎないことは分かっていたことじゃないか。

 ……と、俺が足先で地面を踏み広げていると、何かそれまでと違う質感の場所があった。明らかに硬い、何か大きなものがそこにあった。

 藪草の群れにうずくまるようにそれは泥を薄く被っていた。俺はランプを地面に置き、短剣でその泥を剥ぎ取ってみた。

 のみの痕も鮮やかな石板がそこに存在した。脳裏には湿原の前にあった石柱の存在がよぎった。確証はないが、同じ時代に作られたものだと感じた。

 短剣の先で丹念に石板を掘り出していった俺は、最終的に縦横一メートル弱はある、一枚の石板に対峙した。付け根の所が砕けており、恐らく当初はこの小島に突き立っていたものだろう。

 この石板には絵と文章が刻んであるようだ。古文書の解読には明るくない俺には伺い知るところではないが、オルフェたちの向かった場所を思えば、何らかの注意を示す文言が書かれているのかもしれない。

 絵の方は、辛うじて読み取れるような気がした。鋭い爪と巨大な翼、根元まで裂けた顎に並ぶ牙を持つ怪物の姿が、風化と侵食で消えかかった様子で目の前にある。

 これがどれほど現物の形を現しているのかは知らないが、少なくとも当時、これを目撃した人間たちの驚きと恐怖だけは窺い知ることは出来る。

 警告の碑文、と仮に俺はこれを名付ける。これがここにあるということは、俺たちがここまで進んできた道筋は概ね合っていたのだろう。

 そう満足して俺は自分が持っていた革紐を逆に辿ってゾーエの待つ地点まで戻ろうとしたその時、風向きが変わった。

 それまで湿原に流れていた微風が嗅いだことのない臭いを伴った強風になって小島の上を吹き流れ、たまり水の薄冷たさがあった空気には、まるで生き物の吐息が吹きかけられたような生暖かさが加わった。

 首筋の肌が粟立つ。俺は足早に草むらを掻き分けてゾーエのいる乾いた地面へ戻った。

 膝から下を泥と青汁で汚しながら戻って来てみれば、ゾーエは相変わらずそこに佇み、次の命令を待っている。だが、足元に感じられる振動は隠しようがない。

「ゾーエ、何があるか分かるか?」

「いちじほうこうやくさんじゅうめーとるさきより、なぞのしんどうをかんちしています」

 身を振るわせてゾーエは自分が言った一時の方向へ頭を向けた。その虚ろな目が身体に巡っている魔術の力で、微かに光ったように見えた。

「みしきべつのまじゅつはんのう、あり。ぼうぎょをすいしょうします」

「は?」

 それだけ言うとゾーエは両手を前に突き出すような奇妙な恰好を取った。流行りの三文雑誌に載っていた異境の格闘術を思い出させる姿だ。

「ぼうぎょをすいしょうします」

「防御と言うが、魔術に対する防御など俺には何も……」

 同じ文句を繰り返すゾーエに言い返すのは失敗だった。

 俺は咄嗟にゾーエの背中側に回るべきだったのだ。次の瞬間、ゾーエの向いていた方向、オルフェとミラベルが向かっていった密生植物の塊の先から、天地を切り裂くような大音響が一帯に轟き響いた。

 その衝撃が空気を波打ち、草木の茂みを打ち払いながら俺たちのいる小島を襲った。

 俺の目の前で空気が弾けながら壁のように迫った。それは分かった。

 分かったのはそれだけだった。その壁が俺の身体を打った瞬間に、俺の意識は消失していたのだ。

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