chapter2 盗人は貪り食われ
生き物が息絶えるときに放つ、断末魔を聞いたことがあるだろうか。
俺はある。それは戦場でのことで、まだ辛うじて生きているだけの倒れた敗残兵に、腹を空かせたゾンビ兵たちが群がり、その血肉を貪る時のことだった。
そして今、俺の目の前でかつて深窓の姫君であられたミラベル殿下が、鳥かごの中に捕らえられた鳩を掴み取り、翼を引きちぎって口に運び始めたことで上げる鳩の必死の叫びが屋内に響くのを聞いた。
人だろうが鳥だろうが、自分の命を奪う致命の刺激で限界まで縮こまった筋肉が絞り出す声というのは変わらないものだな、などと、俺は埒もない感傷を覚えた。
「だがせめて俺たちと同じ食卓で食べ始めることはないだろう。落ち着いて飯も食えん」
「そうは言ってもさ、ミラベルは僕のパートナーなんだから。同じ食卓でともに食事をするのは当たり前じゃないか。まぁ、食べてるものは違うけど」
俺たちのテーブルに乗っているのは、パン、鳩肉のロースト、安物のワインとシードルくらいの、至って質素な代物だ。まぁ、男所帯のつましい晩餐って所だろう。
「うん。ミラベルも料理が上手になってきたね。嬉しいよ」
「うふふ。喜んでもらえてうれしいわ。いかがかしら、ドリジャ―ル卿も」
「まぁ、確かに美味いが、こう気が散るんじゃのんびり味わえないだろうが」
せめて家にいるときくらいは寛ぎが欲しいのが人情だろう。
隣で見目麗しい女人が、手づかみで生きた鳩を絞め潰しながら貪り食っているのだ。落ち着ける環境とは程遠いものがある。
「仕方ないじゃないか。ゾンビは体組織を維持するために生きた生物の肉を摂取する必要があるんだから。でなければ体組織が徐々に崩壊して、見るも無残な姿になる。僕はそんなミラベルは嫌だね」
それは知っている。今まで何度もゾンビの兵隊を引き連れて戦場を闊歩してきた身なのだ。飢えたゾンビがどれほど醜悪な姿になっていくか、いやというほど見ている。
それに比べれば、なるほど目の前で今、鳩の頭を割り砕きながら飲み下すミラベルの姿はまだ見苦しいわけではない。ちょっと体のいい見世物と辛うじて解釈できるかもしれん。
「……ごちそうさまでした」
こっちの皿が冷めていく中で、あっという間にミラベルは自分の食事として出された生き鳩を平らげた。皿替わりの籠の上には暴れた鳩の残した何本かの羽の欠片が残っているばかりだ。
ミラベルは生前に身に着けたテーブルマナーよろしく、ナプキンの端で口元を拭いているが、胸元に広げられたナプキンには鳩から迸った鮮血がべったりと残っている。およそ食事とは結び付かない、なんとも凄惨な景色だった。
「……ひとつ聞きたい、ミラベル」
「なんでしょう」
「お前は生前の記憶を保持しているな。プリシィアの姫として、養育と薫陶を受けた……その身にとって今のような食事に違和感はないのか?」
「……そうですね。なるほど確かに『生前のミラベル』であれば、凡そこのような悍ましい食事など受け付けるものではありません。しかし今の私、オルフェウス様に隷属するゾンビのミラベルにとっては何の痛痒も感じません。我ながら不思議な事です。まだ生きている動物の肉や骨にかじりつくことに全く抵抗が湧かないし、むしろこうして咀嚼して飲み込むと、生前のそれとは少し違う満腹感を覚えます」
だから、とミラベルは微笑む。
「きっと私、ドリジャ―ル卿も食べることが出来ますのね」
「俺の腕に噛みつこうものならオルフェでも復元できないくらい細切れにしてやるからな」
「安心しなよドリジャ。ミラベルにはちゃんと『食べてはいけないもの』が分かっているんだから」
したり顔で言うオルフェの様子を見て、俺は眉を顰めた。が、すぐに得心した。
「なるほどな。そういうように弄ったわけだな?」
「だんだん分かってきたねぇドリジャも」
「おまえとミラベルの様子を見に、しょっちゅうこの離れにくるようになったからな。大体、お前ら二人が日中何をしてるのか想像もつく……胸のむかつく様な事をしているんだろう」
「うふふ。嫌ですわドリジャ―ル卿ったら」
屍の
「こおひいを おもちしました」
黒づくめの巨漢が俺の前にコーヒーを出した。ミラベルが来る前からオルフェの従僕として駆動しているゾンビの『ゾーエ』だ。
手先の器用なミラベルがやって来て、さぞかし暇をしているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「誰も離れに来てくれないから色々と修繕しなきゃいけない所が増えててね。ミラベルに僕の用事をさせている間に、ゾーエにはその辺の仕事をさせているよ」
そう言ってオルフェが見せたのは、離れの中に通る短い廊下だった。古く痛んで黒ずんだ板張りや漆喰の零れた箇所があちこちある中で、そこここに真新しい部材で繕ったところが目についた。
「とりあえず雨漏りの類は何とかなりそうだよ。まぁ、噂に聞く魔術師狙いの泥棒が目を付けるようなものはないにしてもね」
その言葉に俺は思わず震えた。
「知っていたのか」
「当然だよ。一応これでも、都の死体魔術師の集まりでは顔や名前が知られているんだよ?」
実のところ、今日の俺はその噂について話すためにオルフェの暮らす離れにやってきたのだった。世事に疎い弟に兄なりに警告を与えてやろうと思ったのだが、要らぬ世話だったと見える。
なるほど、そう言えばかつてのペールギュンテ伯爵もオルフェの事は知っていたな。
「僕はわざわざ外に出て新聞を買ったり、スタンドに寄って読んだりはしないけど、そう言うのが好きな知り合いが僕に知らせてくれるのさ」
俺とオルフェはコーヒーを持って食堂から廊下を通り、隣の部屋に入った。
そこはオルフェの書斎……のような部屋の一つだ。離れにある生活に必要な部屋以外は全部オルフェの書斎か、実験室かのどちらかだ。
この部屋は壁に沿って棚がある。棚には本の代わりに小動物の骨格標本が並んでいた。猫、鼠、大小の犬、馬や牛の頭骨、俺の知らない奇怪な獣の物も多数ある。
「知らない奴が見たら悪趣味と思うだろうな」
「まぁ、知らない人は入ってこないから」
オルフェは書斎の隅に置かれた鳥籠に近づくと、中にあるものを取り出して見せた。中にあったのは鳩だった。正確には、鳩だったもの、だろうか。
「死体魔術で作った伝書鳩だよ。普通の伝書鳩と違って、色々な事が出来る」
それは乾いた鳩の死骸のようだが、胸の羽毛の膨らみの中にオルフェが手を入れると、鳩の小さな嘴から若い男の声が出た。
『オルフェウス。イケーの兄弟。ジョーダンより君へ。最近は会合も開くのに苦労するほど懐回りが悪くていけないな。それだというのに無知な連中は、魔術師が金持ちだと思っている。なんと嘆かわしいことだろう。先月、バリアンの研究所に賊が入った。幸運にも彼は温泉療養で家を空けていたから事なきを得たが、荒らされた所内から貴重なサンプルや資材の一部が盗み出されていたそうだ。君は僕らよりいい暮らしをしているから、この手の泥棒の目に付けられるとも限らない。それなりに備えをすることをお勧めするよ。では、その内にまた会おう。私は暫くは衣食のために働くとするよ。まったく、腕が鈍って行けない……』
ゾンビ鳩はそこまで喋ると大人しくなった。
「同じイケーの魔女に魔術を習ったジョーダンがくれた伝言だよ」
「そのジョーダンという奴は魔術師の他に何をやっているんだ?」
「町医者さ。評判はどうか知らないけど、以前はそれなりに食べていけてたはずさ。でも」
と言葉を切る。オルフェは机の引き出しから紙の束を取り出して俺に投げ渡した。
「ゾンビ鳩が届いてから二日後の日付の新聞だよ」
「わざわざ買ったのか! お前らしくもないな」
「見出しの端の記事を見てみなよ」
冷めたコーヒーを飲みながら俺はその新聞を見た。
市井で売られている新聞というのはどれもこれも偏見に塗れた煽情的な話ばかりで信ぴょう性なんてろくにない。だが、時には事実を記している記事もある。
今、俺が目にしているこの記事もそう言った事実のひとつ、なんだろう。
『アルデン地区の外科医にして歯科医、ジョーダン・エステの部屋が何者かによって荒らされていることが今朝分かった。ジョーダンはアルデン地区の住民に医療を提供する優れた医師として周囲からの評判も篤い人物であり、当局は犯人の捜索に全力を尽くすと述べた。また、ジョーダンによれば当日前夜、所用により施術室を備えた家宅を空けていた彼は、朝日と共に帰宅した際、部屋内の棚という棚が引き出され、書斎の希少な書籍群が床に全て放り出され、施術用の台や手術道具が散乱している姿をみて仰天したという。加えて彼は所蔵する希少な薬品や危険な器具類の幾つかが紛失していたことを明かし、犯人の異常な犯行に対して当局へ警告を発した……』
「ジョーダンは魔術師狙いの盗賊に狙われた、そう言いたいのか?」
「ジョーダンが言っている『希少な薬品』や『危険な器具』っていうのはね、死体魔術で使うものなんだよ。ミラベルにも使っている奴さ……あれがあれば魔術に疎くてもゾンビを作れるんだ。僕ら死体魔術師はそういったものが表に出ないように管理している。誰かが不要になったら他の誰かがもらい受けたりしてね」
「だが今は違う。持ち主不明の道具が出てきている」
「そう。犯人は何のつもりか知らないが死体魔術師の懐を探って回っているのさ。ただ、屍を弄って叡智を磨いているだけの、純朴で善良な魔術師を責めている。なかなか、困ったものだねぇ」
果たして死んだ人間を道具にしている死体魔術師が善良なのかどうか、軍人である俺の分かるところではないが、邪悪だ、と罵る輩もいるだろう。
そう、例えば王宮から死体魔術師とゾンビ兵を追い出した、プリシィア王妃マリーメイアのように。
俺がオルフェの離れを後にする時、屋根の上に黒い塊のようなものが張り付いていて驚いた。よく見ればそれは大工道具を手にしたゾーエで、屋根に開いていた小さな穴を塞いでいるようだった。
離れから遠ざかり、本宅の勝手口に入る前に、俺はもう一度離れをよく見た。全景が望める立ち位置で、屋根の上に伸びる暖房の煙突、駒形屋根の灰色の塗料に塗られたスレート、漆喰の染みで斑になった壁に、硝子石で作られた細い採光窓が刻んである。
ここは俺たちセルジュゲイル家の敷地の中だが、外部から忍び込もうと思えばできないわけじゃない。
俺は微かな不安を覚えたまま、家に入った。
それから、数日が過ぎた。
事が起こったのはある日の夜半だった。俺は本宅の自室で休んでいたのだが、部屋の窓から外を走る小さな光が目に映った。
目を凝らして俺はそれを見ようとしたが、すぐに見えなくなった。気のせいかと思い、その後寝床に入ってしばらくした後のことだ。
絶叫が外から聞こえた。
身体に沁みついている尖兵としての本能で俺は跳び起き、ベッドの傍に立てかけてある
月さえ出ない夜闇の中だったが、本宅に灯されたわずかな灯りのお陰で迷わず歩くことが出来た。
声の聞こえた方角から言って、叫びをあげた者がいるのは離れに違いなかった。
そして声の主がオルフェではないことは明白だった。俺が弟の声を聴き間違えるはずが無かった。
戸口を蹴り開けて中へ転がり込んだ俺は、鼻に嗅ぎ取れる血の臭いで緊張がさらに高まるのを感じた。
「オルフェ! オルフェウス!」
「ドリジャ」
俺の誰何に対して、オルフェの返答ははっきりと、しかし穏やかなものだった。
「こっちだ」
そう言ってオルフェは燭台を持って俺の前に現れた。ガウンを着た寛いだ姿で、今まさに起きたばかりといった様子だ。
一方俺はシャツとズボンに裸の剣を持っている。はたから見れば俺の方がよっぽど剣呑に見えるだろう。
「君も聞いたね」
「ああ、聞いた。眠る前にちらっとだが、この離れの周りを動く灯りの影も見た」
「そうか。どうやら噂の盗人が僕の所に来たらしい。行こう」
オルフェの明かりを頼りに俺たちは血の臭いを辿って歩いた。
離れの内部はそう広いわけじゃない。出所はすぐにわかった。それはこの前、俺たちがミラベルと一緒に食事をした食堂だ。
あの時間近で見た、生き鳩を貪り食うミラベルの姿が脳裏に蘇る。
細く狭い廊下の先にある食堂の戸口が細く開いていて、中からかすかな光がちらちらと覗いていた。
それと同時に、何か固いものを削ったり、すりつぶしたりしているような不気味な音が聞こえ、鼻孔には一層濃厚な人血の臭いが嗅ぎ取れた。
「開けるよ」
オルフェが戸口に手をかける。俺は軽く頷き、剣を握る手に力が入った。
戸口は軽い動きで開いた。最近の手入れの成果だろう。開いた先には食堂が見えた。テーブル、椅子、バーカウンター、食器棚……。
食堂に暖炉はなかったはずだ。
だが床を照らす火灯りが見える。
火灯りが揺らめく中で誰かが蹲っている。その傍に男が倒れ、血だまりの中に沈んでいた。
火灯りの正体は壊れたランタンのようだ。ランタンから漏れた油が燃える傍で、蹲っている者が一心不乱に男の胸倉に顔を埋め、ごり、ごり、ぐちゃ、ぐちゃ、と不快な音を立てていた。
俺は衝動的に剣を繰り出したくなるのを懸命にこらえた。オルフェが口を開く。
「ミラベル、そこまでだ」
果たして、オルフェの燭台に照らされて振り返ったミラベルの顔には、今まさに貪り食っていた侵入者の血肉と骨片がこびりついていた。
ミラベルは食べてはいけないものが分かっていた。
それ以外の者は食べても構わないことを、侵入者は知らなかったのだ。
以来、死体魔術師を狙って活動する盗賊の噂は絶えた。
盗賊が盗み出したとされる道具や薬品の行方は謎のままだ。
「それじゃあ困るだろう」
「うん。困るんだ。だからこうして『彼』に聞くための準備をしている」
俺はオルフェの実験室に来ていた。オルフェは俺の前で大きな甕に粘土を入れて、息を入れながらかき混ぜていた。
「死んだ人間から話を聞く方法はいくらでもあるからね。隠し立てはなしさ」
「あれをゾンビにするのか。あの食いさしを?」
食いさし。
あれはまさに食いさしだ。そうとしか言いようがない。
あの晩、オルフェの暮らすこの離れに入り込んだ賊は、この建物に張り巡らされていたオルフェの結界に触れた、という。
「建物の修繕に合わせて、不正な侵入者に反応する魔術をかけておいたんだ」
そしてそれに触れたものが現れると、オルフェの就寝と共に活動を停止しているミラベルとゾーエが起きあがり、対応するのだ。
今回はミラベルに見つかった賊があのような姿になってしまったわけだが、ゾーエに見つかっても同様の結末を辿ったであろうことは疑いない。
むしろゾーエの方が食べる速度が速い分、もっと楽に死ねただろうことを思えば、ミラベルに見つかったのはなかなか不運な話だ。
まぁ、盗人に同情しても仕方ない。
「とりあえずあれの肉を溶かして骨を取り出し、今度はこの粘土で顔を作ってやるんだ。そうすれば魔術で話が聞ける。霊体は捕まえてあるしね」
オルフェの目線の先には小瓶があった。俺には空の小瓶にしか見えないが、それに盗人の霊が入っているという。
「話を聞いた後はどうするんだ」
「ひみつ。とりあえずあれの骨と霊は有効利用するとだけ言っておくよ。荒らされて泣きを見た魔術師たちの損失を多少なりとも補填できるようにね」
うそ寒い話だ。死体魔術師にかかればまさに骨身の欠片まで使い尽くされてしまう。
「……そろそろ俺は行く。王宮に召喚されているんだ」
「またどこかに派遣されるのかい?」
「わからん。だが、戦場があるならどこでもいいさ」
冷たく臭い死体より、傷つき燃える戦場の方が今は懐かしかった。
俺は実験室を出た。すると廊下を向かってくるミラベルと出くわした。彼女はトレイにコーヒーを持っていた。
「もうお帰り? コーヒーを淹れたのだけど」
「ああ。二人で飲んでくれ」
濃厚に漂うコーヒーの芳醇な香りの中に、ミラベル自身が放つ死肉の臭いが混ざっていた。
……彼女は今、どれくらいかつてのミラベル殿下の名残を備えているのだろう。
見た目は全く変わっていない。変わっていないはずだ。
だがあの時は。
俺の目には、悍ましくも妖しい気配を備えた獣のように見えた。
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