chapter1 彷徨える姫君の霊はここに
そこで俺は
「こちらのコーヒーをどうぞ」
ガチャガチャと騒がしく置かれたカップには淹れたてのコーヒーが湯気を立てている。
以前は随分とまずい珈琲を飲まされたものだが、今日のこれは以前よりずっとマシな出来だ。部屋に漂う薫りが鼻をくすぐって、神経を和らげる。
だがその一方で俺の心は重く、悩みを深めて胸を苦しめている。それというのも、このセルジュゲイル館の離れを住処としている我が弟オルフェウスがためだ。
「うーん、今日のケーキはマロンとポテトを使っていて、美味しいなぁ」
三つ下のこの男は今、俺の前で出されたケーキをうまそうに食べている。その顔には何の屈託もなさげで、なんとも憎らしい。
「おまえ、よくそんな甘ったるいものをバクバク食えるな」
「頭脳労働には糖分が必要なんだよ。最近新しい素材を手に入れたから研究が捗ってさぁ」
汚れた白衣と縮れた金髪、眠そうな目に煌きを湛えた弟はまるで童のようだ。
だがこいつは見た目では測れぬほどの智謀を備えた、恐るべき死体魔術の使い手であるのだ。
先だってオルフェウスはペールギュンテ伯爵が企図したゾンビ兵士による叛乱を看破してみせ、俺と共に伯爵の潜む地下墓地を強襲、見事その野望を打倒してみせた。
だがそれによって我がプリシィア王国は、死体魔術によるゾンビ兵士の使用を全面的に廃止した。代わってゴーレム兵士の起用が進むことになった。
この背景にはゴーレム製造の基盤になる霊石の採掘鉱山を持つ正妃マリーメイア様とその一族による介入があったらしいが、まぁいい。
とにもかくにも、こうして死体魔術の一端が公の場から遠ざけられれば、当然それを作っている死体魔術師たちは冷や飯を食らうことになる。
オルフェウスもついこの間までは細々と続いていたゾンビの製造や修復の依頼が途絶えたことで、意気消沈していたものだった。
それがこれだ。気のせいか給仕に蠢いている黒づくめの従僕ゾンビ、ゾーエもやる気に満ちて、甲斐甲斐しくケーキのおかわりを差し出しているように見えた。
「……さて、小腹も満たされたし、用件を聞こうじゃないか、ドリジャ」
「俺がよく相談事があるとわかったな」
「そうじゃなかったら、本宅のメイドも寄り付かない僕の部屋にやってくることなんてないじゃないか」
「人を冷たい奴みたいに言うじゃないかよ、結構気にしているんだぞ。お前のような男が、こんな狭い離れで人目にもつかず、世間に埋もれているなんてもったいないことだ」
「買いかぶり過ぎだよ。それに僕はドリジャと違って立身出世には興味がないしさ」
「まったく、セルジュゲイルの男が情けないことを言う。まぁ、いい。実は先だって王宮で葬式があった」
「……ああ、亡くなったんだっけ。お姫様」
「うむ。侘しいことだよ」
我が国の王家におわしたミラベル・エル・プリシィア殿下が、長らく病に臥せった後、お隠れになられた。
嫁入り前とはいえ、齢十七の乙女であれられた殿下だが、正妃のお子ではなかったために宮中行事で不遇を受け、生前は専ら庫裏で古今の蔵書を読みふけっている所を時折見かけられる程度の、それは陰の薄いお方だった。
かくいう俺も、宮内に参上できる身の上になった頃、未だ幼い少女であられた彼女の姿を、辛うじてお見かけした程度の記憶しかない。
そうは言っても王の血を分けた姫君であり、その死は
参列者の一人として、俺は棺に眠る彼女の姿を見た。年相応に成長なされ、貴人の血を引いた美しい娘が、柔らかな布に装われて冷たくなっているのを見るのは、いかに血生臭い戦場で死体を数え切れぬほど向き合ってきた俺でも、心に痛みを感じないわけにはいかなかった。
葬儀は粛々と進行し、そして終わった。教父として招かれた司教
その時、事件が起きた。
「霊安室で日に一度、専任の守り人によってご遺体の様子が改められるのだが、ある日、前日と同じように棺を開けたところ、そこにはミラベル殿下のご遺体が無かったというのだ」
「なんと。そりゃあ驚きだね」
「驚きなんてもんじゃない。守り人は驚きの余り叫びを上げ、外で行き来する王宮付きの使用人たちまで巻き込んだ大騒ぎに発展したよ」
当然、死んだ人間が蘇るわけがない。
ゾンビにでもしない限り……。
「正妃はこれを王家に恨みもつ死体魔術師による仕業と断じて捜査を命じられた」
「そうは言っても、有象無象の死体魔術師を虱潰しに探すほど、王国陸軍の将校は暇じゃないだろう。特に、戦場で勇猛果敢に戦う“狂犬”ドリジャ―ルほどの男を使うほどかい?」
「だが、そこはほら、ペールギュンテ伯爵事件という実績を買われたわけだ」
お陰で俺は進行中の遠征作戦から外される格好となってしまった。
「正妃からは『なんとしても犯人の首級を挙げよ、これは戦働きと同等の価値のある任務である』と、直々に仰せだ。……まぁ、実際、王族の遺体が盗み出されたとあっては問題だ」
「ふぅん。それでドリジャは僕の所に来たわけだね」
「そうだ。……そのとおりだ」
「おかわりは御所望ですか?」
「……いや、いい」
「お煙草はお吸いになりますか?」
「……ああ、頼む」
俺の前からコーヒーのカップが下げられ、代わりに見事な細工の施された
「ライターとマッチ、どちらもご用意しております」
「自前のがある。必要ない」
「かしこまりました」
俺は煙草入れから腸詰のようにふとましい葉巻を引き抜き、封を切って火をつけた。
一筋の紫煙が南国を思わせる香りで俺の神経を和ませてくれた。
「ふぅ。いい葉巻だな」
「王国通商会社が取り寄せた逸品でございます。来年には恩賜品に指定されることになるとか」
「ほぅ。近頃のゾンビは煙草の吟味も出来るらしいな?」
俺は煙草を捨てる。すかさず腰に刺したままの
「ドリジャっ!」
「オルフェ。いい加減このメイドゾンビの正体について話さんと、お前を牢にぶち込まねばならなくなるぞ。お前の住処に近寄るメイドがセルジュゲイル家にいるはずがないのだからな」
「それは酷いなぁ。けどまぁ、事実だよ。その子は確かに僕の作ったゾンビさ」
目の前で兄弟が
流石は俺の弟だ。
「でもメイドじゃないよ。今日はたまたまメイドの恰好をさせていただけさ」
「じゃあ、なんだ。やけに落ち着いた物腰で話し、俺の呼吸を読んで給仕を行うこの女ゾンビを、お前は一体どこで用立てたんだ」
「そういきり立って話しては、聞こえる話も聞こえなくなるのではないかしら」
俺はサッと振り向き、そう話すメイドゾンビの姿をまじまじと見た。
その姿は古く擦り切れたお仕着せに真新しいエプロンを合わせた、どこにでもいるメイド装束である。しいて違いがあるならば、それはこの女ゾンビは顔の下半分をヴェールで覆っているということだ。
とはいえ、ヴェールで顔を隠したり飾ったりする子女は市井にごまんといる。従者が貴人の顔を直視したりされたりすることを嫌う雇い主が、顔を隠させることも珍しくない。
俺の前で顔を隠す女ゾンビの目が、密かに笑っているように見えた。
「やけに話すゾンビだ。ゾーエとは偉い違いだな?」
「そりゃあ、そうさ。ゾーエに組み込んでいるのは僕が自分で作った人工霊体だからね。でも彼女は違うよ。天然の霊体が入っている。それも、肉体の元の持ち主の霊体を僕は組み込むことが出来たんだ」
「なんだと? それじゃ何か。このゾンビは魂も肉体も生前と同じ組み合わせで動いているってのか」
「その通り。だからこうして流暢にしゃべるし、生者と変わらない程よどみなく動ける」
「……そしてある程度は自分の意志で話すことが出来ますよ。今この時のように」
間違いない。この女は俺を見て笑っているのだ。
「そうかい。じゃあ女。お前の氏名、年齢を聞こうか。正式にお前がオルフェの手に渡った死体なら俺が何をすることもないんだからな」
「まぁ。ドリジャ―ル卿はお噂に聞いた通り、荒っぽいお人のようですね。そんなにことを急くと、後で後悔しませんか」
「ゾンビでメイドのくせに俺の上から喋るんじゃない。その首を斬り飛ばすぞ。なに、切ったところでオルフェがくっつけるんだろうから構いやしまい?」
そりゃくっつけるけどさ……と、オルフェが小声で漏らしていた。
女ゾンビは俺から視線を外す、その目はオルフェを見ているらしかったが、その目の色はまるで恋人を見るような、陶酔を帯びているようでもあった。
「分かりました。まず素顔をお見せしましょう」
女ゾンビはそう言うと、ヴェールを外し、一緒に被っていた帽子も脱ぎ捨てた。帽子に納まっていた霞むような薄い金色の長い髪が、肩口から背中にかけて流れた。
器量の良さがにじみ出ており、さぞ血筋良き家の出と察せられる……と思ったところで、俺の脳裏に引っかかるものがあった。
「……貴様、どこかで会ったことがあるような気がするぞ。それもそう昔じゃない……」
「ふ。噂程の武力一辺倒の方ではないようですね、ドリジャ―ル卿。もっとも、そう話していたのは宮中の小娘たちで、私はそれを遠くから小耳に挟んでいただけだけれど」
俺は剣を納めた。俺の勘働きが、何やら尋常でない事態が目の前で起こっていることを告げていた。
「オルフェ。貴様この女をどこで手に入れた。ま、まさか……」
「ああ、そうだよ。ドリジャはつくづく、勲に縁があるね。流石はセルジュゲイルの嫡男、僕とは違うよ」
オルフェはニコニコしているが、冗談ではない。
俺は飛び上がるように腰かけから離れ、素顔を晒した女ゾンビの前に跪いた。
「おやめくださいドリジャ―ル卿。そこまでする必要はないんですよ」
「いや、しかし」
額と首筋に冷や汗が浮かぶのを感じるなか、俺はゆっくりと顔を上げて彼女の顔を見た。
「……やはり、間違いない。プリシィア王女ミラベル殿下であらせられる」
「なるほど。確かに私はミラベルです。故、ですが」
まるで酒場にたむろする媒酌娘を扱うような気やすさでミラベル殿下を長椅子の隣に招くオルフェを見て、俺は声を上げた。
「オルフェ! 貴様!」
「まぁまぁドリジャ。そう怒らないで、剣から手を離して」
「そうですわドリジャ―ル卿。あまり怒ると命を縮めますよ」
一体誰のせいで俺が激昂しているのか分かっているのか。いや、分かっていて言っているのだ。そういう弟であることを俺は知っている。
だからこういう時、俺は手を下ろして目を瞑り、ゆっくりと息を一呼吸させる。
そして一瞬だけ、殺気だけで目の前の人を切りつけるように睨めつける。
「……わぉ」
そして弟も、そんな俺の振る舞いを知っているから、黙って俺に睨みつけられる。
「まぁ恐ろしい。まるで狂った犬のようね」
知らぬ殿下はこの通りだ。
「……で、貴様がミラベル殿下のご遺体を盗み出した張本人で間違いないんだな?」
「まあ、結果的には」
「……何故だ。お前が死体魔術研究のために死体をいつも欲しがっているのは知っている。しかし、なぜ、わざわざ……」
「愛のためさ」
「は?」
得意げに言ったオルフェに対し、殿下ははにかみ、顔をそっと伏せた。
「実はね、ドリジャが地下礼拝堂でミラベルの葬儀に出席していた時、僕も王宮に居たんだよ。もっとも、礼拝堂から離れた場所にある、王室蔵書庫にだけど」
オルフェ曰く、それ以前から希少な書籍の閲覧を求めて王宮の庫裏に忍び込むことはあったらしい。
「巡回してる警備ゴーレムの目を盗むのは簡単なことだからね」
「なんということだ……近衛警備の怠慢だな」
「でも、お陰で私はオルフェウス様とお会いすることが出来ました」
夢見るような目つきで殿下はそう言った。
「僕が蔵書庫をうろうろしていた時、端に置かれた書見台の前で漂っている
「人付き合いが苦手なくせに、よく話しなんぞできたものだな」
「そりゃあ、相手が霊やゾンビなら気安いからね。生き身の人間は面倒だもの」
「でも、それが私には嬉しかったのです。……生前は、人に疎まれることが多かったから」
確かに殿下は生前、決して恵まれているとは言い難い境遇ではあった。
王女ではあったが、正妃の血を受けておられないから、今後も表舞台に出てくることはなかっただろうし、その内に国内外の有力諸侯へ嫁がれて表世間から見えなくなるだろうことは容易に予想できた。
「僕は今までいろいろな人霊を見てきたけど、彼女は飛び切りの美人だし、頭もいい。このまま天に召されるのを指をくわえて見てるなんてもったいないこと、死体魔術師としてできないわけさ」
それでオルフェはかつてのペールギュンテ伯爵が、自ら作った人工霊体を運んでいたように、殿下の霊を当時持っていた硝子容器に封じたという。
「後は適当な時期を見て、彼女の身体に霊を組み入れて、手に手を取って脱出してきたわけ」
「あの時のオルフェウス様は情熱的でしたわ。『一緒に行こうミラベル』なんて、止まった心臓が弾むようなことを仰ってくれて……」
「えへへ」
でれでれと顔を崩すオルフェの胸に擦り寄る殿下も殿下だが、そんな殿下の背中にちゃっかりと手を伸ばして引き寄せているオルフェもまぁ大概である。
「ええいオルフェ、殿下から離れろ。殿下もそのようなことをされては困ります」
「ドリジャ―ル卿、私はもう死んだ身です。いわば生者のしがらみから解き放たれた身ですよ。誰とどのようなことをしようと勝手ではないですか。そうですよね? オルフェウス様」
「ああうん。そうだね」
「っ!……だが、それではいつまでも正妃はミラベル殿下のご遺体を探して人を遣わし、いずれ発見されるでしょう」
「それは困るなぁ」
呑気な様子のオルフェだが、ことは深刻だ。殿下も眉をひそめていた。
「あの方、私が嫌いなんです。私が母に似すぎているからだろうとお父様は仰っていたけれど」
「陛下が?」
「知っているでしょうけど、私の母は位の低い貴族の娘として王宮で奉公人をしておりました時、お父様のお情けを戴き私を生みました。卑しい女の娘だと、あの方は私を嫌っていたのです。だからどうしてそこまでして私の身を案じているのか、見当が付きませんわ」
どうやら外野が見聞きしているより、王族家庭内の問題の根は深く、暗いようだ。
「ねぇオルフェウス様、どうにか私をお傍に置いておけるようにはできませんか?」
「できるよ」
「え?」
「は?」
俺と殿下は即答したオルフェに向かって同時に驚きを返した。
「ちょっと手間だけどね。なぁに、ゴーレムの目を盗むように、王妃の目を盗むことはできるよ」
「簡単に言ってくれるが、どうするつもりなんだ」
「それにはドリジャ、君の協力が必要だ。もちろんミラベル、君にもね」
「もちろんですわ。ドリジャ―ル卿もお力を貸してくれますよね?」
「頼むよドリジャ。それとも、僕を牢にぶち込んで、正妃の覚えめでたくなった方がいいかい? その方が立身出世にはよかろうけど」
こともなげに言ってくれる。この鬼謀高き男を前に、俺は頭を掻く。
「貴様、この俺が本当にお前を牢にぶち込むと思っていたのか」
「とんでもない。僕の兄は気心の知れた良き友だ。きっと僕の力になってくれると信じていたよ」
オルフェは俺を見てそう言って笑った。
実に物分かりがいい弟だった。
それから、十日が経った。
俺とオルフェは自家用馬車に乗り、王都から少し離れた土地にある王家の集合墳墓のある谷へと向かっていた。
荒っぽい道すがら、傍らのオルフェは広口の瓶を大事そうに抱えていた。一見すれば酒か薬でも入っていそうなその瓶に、ミラベル殿下の霊が収まっているという。
「うまくいったね」
「ああ」
揺れる馬車の上で喋っていると舌を噛みそうになるから、俺は黙っていたが、オルフェはぺらぺらと喋っていた。こいつは気心の知れた人間の前でしか喋ったりしない。
問題はその気心の知れた人間というのが俺だけだということだ。だが、これからはミラベル殿下を相手に好きなだけ喋っていられることだろう。結構なことだ。
「陛下も正妃も、ミラベルがもうゾンビになっていたことに気づかなかったみたいだね」
「そりゃそうだろう」
見た目でゾンビだと分かる奴と分からない奴がある。分かる奴は大概、身体の表面組織が崩れていて、それを薬品を塗った包帯や布で覆っている。
が、ミラベルはまだできて間もない、新鮮な肉体と新鮮な霊でできたゾンビだ。その上肉体に何らかの加工をしていたわけじゃない。
専門的な教育を受けた魔術師ならともかく、見た目で分かろうものではなかった。
「僕らの説明で王妃や陛下が納得してくれたのは日ごろの行いの成果だね。なにせ、ドリジャはわざわざ捜索の任務を与えられた位だから」
「それですぐさま殿下の遺体を見つけてきて『下手人は内々に処理しました』と言えば、向こうは納得するしか無かろう」
「うんうん。人は自分の信じたいことを信じるのさ」
遠くを見つめるような目でそう言うオルフェの声音には、なかなか心胆を寒くするものがあった。
「……オルフェ。なぜミラベル殿下はお前に様をつけて呼ぶんだ?」
「簡単なことだよ。全てのゾンビは製造者や指揮者のコントロールを受ける。それはなぜか。彼ら彼女らの霊体には『
そうだ。ゾンビは生者に服従する。ゾンビの兵隊なら文字通り体が砕け散るまで戦い続け、その他のゾンビでも同様、命令に対する絶対的な服従を示す。
「天然霊体に服従回路を付けると、霊体はその記憶に基づいて服従を示す。友情や肉親への信愛、あるいは」
「異性への愛?」
「かもね。言っておくけど、僕はミラベルを『そのようになるように』弄ったわけじゃない。組み込む前の霊体の彼女も、今の彼女も等しく愛おしい存在さ」
「……だが、ゾンビになる前と後で全く同じ素振りをしているわけじゃあるまい」
あるいは、ゾンビとして生まれ変わった瞬間、彼女の中にかすかに芽生えていたオルフェへの感情が、服従回路によって強調された結果かもしれない。
「お前それでよかったのか」
「いいよ。人の気持ちなんて容易に変わるものだから。ゾンビならば、そう変わったりはしない」
その言葉尻には微かにさみしいものが混じっているような気がした。
人間というものへの、ほんのちょっぴりの失望だ。
兄として何か言ってやるべきなんだろうが、悲しいかな。
俺は何も言うことが出来なかった。
ミラベル殿下の遺体が帰ってきた王宮では、改めて遺体の納棺がされ、速やかに墳墓の移送が行われた。
谷間の岩壁をくりぬいて作られた墳墓は、内部が無数の
中には権勢を誇った結果、豪勢な玄室を作らせ、そこに己の身を預けた大王もいるという。とはいえ、一臣下の身で墓暴きをするほど、俺の忠誠心も目減りしてはいない。
例え陛下や正妃を謀って、今こうして殿下の身体を頂戴するとしてもだ。
「大丈夫だよドリジャ。僕らが墳墓の中に入るわけじゃない。だからそんなに難しい顔をしないで」
そうオルフェが言っているのは、墳墓へと入るための大きな扉の前でのことだ。複数人が棺を担いで入れる大きさがあり、閂で封印されている。
「閂は外しておこう。ドリジャ、手伝って」
俺とオルフェは二人係りで巨大な閂を外すことにした。酷く重く、冷たく、肌が切れそうだった。
閂がやっと外れると、オルフェは瓶を取り出して口を開けた。
そこから何かが出て行ったのかもしれないが、俺には分からなかった。
ただ、何となく周囲の空気が冷たくなったような気がした。
墳墓のある谷間は、ひと気もなく、空気の流れもない。ひと気はないが、万一のこともある。俺は辺りを見回していた。
「きたよ」
オルフェがそう言うと、俺は耳を澄ませた。遠くから、何かが歩いてくる微かな音がする。
それは目の前の、閂を外された扉の向こうから聞こえてくるのだ。
ぎしり、と音を立てて扉が動いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、死に装束として新たに着せられた白いドレス姿のミラベル殿下が飛び出した。
「はぁっ!」
「おかえり、ミラベル」
「オルフェウス様……!」
感極まった様子のミラベル殿下が、待ち受けていたオルフェの腕の中に飛び込むのを、俺は見た。
それが、正真正銘の愛なのか。それともゾンビになったことで歪んだ感情なのか、俺にはわからなかった。
だが、どちらにせよオルフェはそれを受け入れているし、ミラベル殿下も、生前には誰も見たことがないだろう喜びに満たされた姿をしている。
ならば、俺からは何も言うことはなかった。
かくして、ミラベル殿下の死に始まる一連の事件は幕を閉じた。
人々は王宮の片隅で暮らした王女の記憶を徐々に忘れていくことだろう。
そして人々は、セルジュゲイルの屋敷の離れを出入りする、顔を隠したメイドの姿を目撃するようになるのだが。
それはまた、別の話。
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