第5話 満員電車の難しさ(令菜護衛1回目)

 改札口を通り抜けて、ホームへと続くエスカレーターを降りると、ホーム上は電車を待つお客さんでごった返していた。

 俺と令菜さんは、前から二両目の車両、二つ目のドア乗車口の待機列最後尾へと並んだ。

 直後、当駅止まり、折り返しの電車が入線してくる。

 電車が完全に停車してドアが開くと、乗り込んでいた乗客が一気に降車してきて、ホームは一気に通勤客でごった返してしまう。

 降車客をかき分けるようにして、俺たちは一歩ずつ歩みを進めて電車へと乗り込んでいく。

 すると、一人のサラリーマンが、令菜さんの前を容赦なく横切った。

 通り抜ける際、男性の肩と令菜さんの肩がぶつかってしまう。


「キャッ……⁉」


 令菜さんは軽く悲鳴を上げ、ふらふらっと後ろへバランスを崩してしまう。

 俺は咄嗟に令菜さんの両肩を掴み、転倒しそうになった彼女を後ろから支えてあげた。


「令菜さん、大丈夫ですか?」

「あっ、ありがとう……」


 申し訳なさそうにお礼を言ってくる令菜さん。

 しかし、彼女の身体は心なしか、小刻みに震えているように見えた。

 俺は咄嗟に昨日の痴漢を思い出し、咄嗟に令菜さんの身体から手を離す。


「ご、ごめんなさい!」

「平気よ。むしろ支えてくれてありがとう」


 令菜さんはにっと作り笑いを浮かべるものの、頬は少々引きつっていた。

 やはり、まだ昨日の恐怖が少し残っているのだろう。


「さっ、乗り込みましょう」

「はい……」


 令菜さんを促すようにして、俺たちは電車へと歩みを進めていき、やっとのことで乗り込むことに成功する。

 といっても、車内は相変わらず満員状態。

 何処を見ても、人、人、人のオンパレード。

 令菜さんをドア側へと誘導してあげて、俺が他の乗客の壁となる形でスペースを作ってあげる。


「ドア側にいれば、俺がガードできるので、被害を受ける心配もないと思います。こっち側のドアは、ここを出発してしまえばしばらく開かないので」

「よく知ってるのね。ありがとう、助かるわ」


 令菜さんは感心した様子で、お礼の言葉を述べつつ、ドア側に作ったスペースへと入り込んだ。

 だが、相変わらず表情は硬く、身体も強張ったままである。


『お待たせいたしました。まもなく三番線から、各駅停車かくえきていしゃ八工大はちこうだい行き、発車いたします』


 車掌さんからのアナウンスが響き、ホーム上に発車メロディーが鳴り響く。

『ドアが閉まります、駆け込み乗車はおやめください』と、駅員のアナウンスが三回ほど流れたところで、ようやく扉が閉まり、俺たちは密閉空間へと閉じ込められた。


「そっち側のドアはもう開きませんので、ドアを壁代わりにして寄りかかっててください」

「分かったわ」


 令菜さんは俺の言う通りに、閉じたばかりのドアへ背中を預けた。

 これで、令菜さんは車内の端を取ることに成功。

 俺と令菜さんは向かい合う形になっているので、万が一左右から痴漢の魔の手が襲ってきたとしても、すぐに反応することが出来るため、心配はないだろう。

 ベストポジションを確保した令菜さんを乗せた電車は、ガタっと車体を揺らしながら、ゆっくりと動き出した。


 しかし、ここで別の問題が発生する。

 ここは、通勤ラッシュ真っ只中の満員電車内。

 いくら俺が背中で乗客をガードして、令菜さんのスペースを確保しているとはいえ、普段よりも至近距離で向かい合っていることに変わりはない。

 モワモワとした車内で、微かに令菜さんが身じろぎすると同時に香ってくる女性らしい匂いが、俺の鼻孔を刺激してくるのだ。

 ここから、俺は令菜さんが降車する駅まで、監視という名の、彼女の美しい容姿と顔を見続けなければならないのである。

 思わず、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。


 いかん、いかん!

 俺は、令菜さんに信用されているからこそ護衛になったんだ。

 こんなところで、令菜さんの魅力に俺がやられてどうする!

 自分を奮い立たせるようにして、俺は一つ大きく深呼吸をして煩悩を振り払う。

 さらに運悪く、俺は今、手すりにも何もつかまっていない状態。

 やや後方にあるつり革は、既に他の乗客に使用されているため、電車の揺れが来るたび、両足だけでバランスとらなければならないのだ。

 万が一バランスを崩してしまえば、他の乗客に迷惑がかかるだけではなく、令菜さんにも迷惑をかけてしまう。

 電車の揺れでバランスを崩さないよう、下半身に全神経を集中させる。


「裕介君、大丈夫?」


 すると、令菜さんが心配そうな様子で尋ねてきた。

 身長差もあるため、必然的に至近距離で、令菜さんの上目遣い攻撃が発動されるわけで……。

 俺は直視できず、視線を逸らしながら答えた。


「だ、大丈夫ですよ。これでも体幹は、部活で鍛えてる方なので」

「無理はしないでね。というか裕介君、体鍛えてるってことは運動部なの?」

「はい、そうですよ」

「差し支えなければ、何部なのか聞いてもいいかしら?」

「一応、バスケ部です」

「バスケ部かぁー! 運動部の中でも花形の部活よね」

「そんなことないですよ。荻原うちの高校はサッカー部とバレー部が強いので、バスケ部はそんなに目立たない二流の部活感が強いんです」

「そうなの? 運動部ってだけで、十分凄いと思うけどなぁー」

「そう言ってもらえるだけでも嬉しいです。まあ一応、それなりには部活で身体も鍛えてるつもりなんで、万が一のことがあっても安心してください。令菜さんをしっかり護衛しますから」

「うん、ありがとう」


 そんな他愛のない話をしたことで、令菜さんの緊張も解けたのか、先ほどよりも表情がリラックスしているように見える。

 なので、話の延長線上で、俺も令菜さんに質問をしてみることにした。


「そう言えば、令菜さんってどういうお仕事されてるんですか?」


 カフェで作業している姿を見て、令菜さんがどんな仕事をしているのか気になったのだ。


「へっ⁉ わ、私のお仕事⁉」


 すると、令菜さんは明らかに狼狽した様子で視線を泳がせる。


「えっと……そのぉ……」

「あっ、言いたくなければ言わなくていいですよ」


 俺が慌てて取り繕うと、令菜さんは身体をモジモジとさせながら、上目遣いに潤んだ瞳を向けてくる。

 その暴力的な視線を受け、俺の胸の鼓動も必然的に早くなっていく。


「えっと……幻滅、しないでくれる?」


 頬を真っ赤に染めながら、令菜さんが恐る恐る俺の方へ顔を近づけてきて、耳元で言葉を発しようとした時だった。


 キィィィーッ!


「うぉっ⁉」

「きゃっ⁉」


 電車がカーブへと差し掛かり、物凄いGの力が俺たちを襲う。

 令菜さんが耳元に近付いてきていて、意識がそっちへと向いてしまっていたため、足腰の力がおろそかになっていた。

 俺はバランスを崩してしまい、そのまま令菜さんの方へと倒れ込んでしまう。


 バンッ!


 刹那、俺はとっさの判断で手を出して両手でドアを押さえ、何とか転倒を免れる。

 しかし、両手を出した場所が悪く、令菜さんを両手で覆うような形になってしまう。

 まるで、令菜さんを壁ドンするみたいな形になってしまい、二人の視線が至近距離で交わる。

 相手の吐息が聞こえてきてしまうぐらい近い。

 先ほどより、令菜さんの香りがふわりと漂ってきて、頭がくらくらしてきてしまう。

 ちらりと令菜さんの様子を窺うと、俺の腕の間で、プルプルと小刻みに身体を震わせていた。

 そこで、俺ははっと我に返り、とっさにドアについていた手に力を入れ、態勢を整え直す。


「ご、ごめんなさい……!」

「ううん、私は平気。裕介君は大丈夫……?」

「はい、ちょっとバランスを崩してしまって……ごめんなさい」

「謝らないで頂戴。裕介君にケガとかなくて安心したわ」

「……」

「……」


 それから、二人の間になんとも言えない微妙な空気感が漂ってしまい、電車のモーター音と駆動音だけが辺りに鳴り響き、無言の時間が続いた。

 その後、チラチラお互いの様子を窺うように観察しながら、特にこれと言って会話を交わすこともなく、令菜さんが下車する駅にあっさり到着してしまう。


「それじゃあ、私はここで降りるから」

「はい、お疲れ様です」

「……送ってくれてありがとう」

「いえ、とんでもないです」

「学校頑張ってね」

「令菜さんも、お仕事頑張って」

「うん、それじゃあ、また明日」


 そう言って、逃げるようにして電車を降りていく令菜さん。

 扉が閉まり、電車が再び動き出す。

 俺はドアに腰掛け、令菜さんを無事に送り届けることができたという安堵のため息を吐いたと同時に、令菜さんを怖がらせる羽目になってしまったことを反省する。

 一応、『また明日』と言ってくれたので、これからも護衛はお願いするということなのだろう。

 結局今日は、令菜さんの職業も聞けずじまいで、ろくな会話もできぬまま終わってしまった。

 なので、明日以降は、電車内が令菜さんにとって安心できる場所になるよう、積極的にコミュニケーションをとって行こう。

 そう心の中に近い、俺にとって初めての護衛任務は、多くの課題が見つかる結果となり、改めて守る難しさというものを痛感させられることになるのであった。

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