第2話 午前中、護衛を頼まれる
「ご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。車内での勇敢な行動、感謝致します」
駅員と警官に敬礼で見送られて、俺は駅員室を出た。
改札前の時計へ視線を向ければ、時刻は午前十時を回っている。
駅前は、通勤ラッシュのピークを過ぎ、比較的穏やかな空気が流れていた。
俺は、朝の通勤電車内で、痴漢被害に遭っていた女性を助け、痴漢魔を無事確保。
次の停車駅で駅員さんに身柄を受け渡すと、事情を聞かせてほしいと言われ、駅員室へと連れて行かれた。
そこから、警察もやってきて、俺は色々と事情聴取を受ける羽目に……。
主犯格の男が、初めはしらを切っていたものの、俺がスマホで撮影した証拠映像を警察に提出すると、顔色を変え、観念したように痴漢魔は犯行を認めた。
これで一件落着かと思いきや、その決定的証拠となった映像を撮影していた俺も共犯者なのではないかという疑いをかけられてしまい、今度は俺が警察官に根掘り葉掘り事情聴取をかけられたのだ。
最終的に、痴漢被害を受けた女性が『彼は私を助けてくれた恩人です。共犯者なんかではありません』と無実を主張してくれたおかげで、俺は無事に解放されたのである。
「こりゃ、学校に着くの昼前とかになりそうだな」
学校へ連絡を入れなかったため、担任が心配して、両親に連絡を入れているかと思ったけど、スマホの通知を見ても、着信などの通知は一切来ていなかった。
まあ、うちの担任は比較的遅刻に寛容なところがあるので、昼過ぎ頃になっても連絡が来なければ電話するスタイルなのかもしれない。
そんなことを思いつつ、学校へ向かおうと歩きだとしたところで、不意に後ろからトントンと肩を叩かれる。
振り返ると、そこには、先ほど俺が助けたOL女性が立っていた。
「あの……先ほどは本当にありがとうございました」
茶髪髪の女性はそう言って、俺に向かって深々と頭を下げてくる。
「いえいえ、俺はただ、当たり前のことをしただけですから、お礼なんて……」
「そんなことないです!」
すると、女性は俺の言葉を遮るように鋭い声を上げたかと思うと、ゆっくりと顔を上げて、すっと俺を見据えてきた。
「私が恐怖で何も出来ず耐えるしかなった時、あなたは勇敢に立ち向かって私を助けてくれました。感謝しようにもしきれません」
「そう言っていただけるのであれば気持ちだけ受け取っておきます。ただ、俺にはあなたが受けてしまった心の傷を癒すことは出来ないので、それだけは心残りですが……」
俺が申し訳なさそうに言うと、女性は目をぱちくりとさせてから、ふっと破願して、優しい笑みを浮かべた。
「優しいんですね……でも私は平気です。こういうのは、もう慣れていますので」
「えっ……?」
女性の言葉に、思わず俺は耳を疑ってしまう。
今、この状況に慣れていると言ったか?
彼女の言葉が間違っていないとすれば、推測するに、こういった被害を受けてきた経験が今までに何度もあるということになる。
俺が驚きのあまり呆然と立ち尽くしていると、女性はきょろきょろと辺りを気にしつつ、口元へ手を添えて、内緒話のように尋ねてきた。
「もし良かったら、この後ちょっとだけお話出来るかしら?」
そう言われて、女性とやってきたのは、駅前のトトール。
二人掛けの席に向かい合って座り、頼んだアイスコーヒーをストローで啜る。
女性はホットコーヒーを上品に嗜んでから、カップを音を立てず受け皿に置くと、すっと視線を俺に向け、柔らかい笑みを浮かべた。
「改めて、先ほどはありがとうございます」
「いえ、コーヒーまで奢って頂きありがとうございます。聴取の方はもう大丈夫なんですか?」
「えぇ、無事に終わりました。恐らく、罰則金と慰謝料の支払いでの解決になると思います」
「そうですか……」
あそこまで必死になって痴漢魔を捕まえたというのに、逮捕されないことを少々残念に思いつつ、俺はコーヒーをちびちびと啜った。
俺は一つ間を取ってから、アイスコーヒーの入ったグラスをテーブルの上に置き、女性の方を見据える。
「ごめんなさい、自己紹介がまだでしたね。俺は
「初めまして、私は
「えっと、遠野さん……でよろしいでしょうか?」
「そんなにかしこまらなくていいわ。もっとフランクに呼んで頂戴」
「では、令菜さん」
「えぇ、何かしら?」
「その、俺に話したいこというのは、なんでしょうか?」
そう、俺は令菜さんに話したいことがあると言われ、カフェへと連れてこられたのだ。
たまたま助けただけの高校生である俺に、痴漢の被害を受けていた女性から話があるとしたら、お礼関係の話題以外考えられないけど、他に要件でもあるのだろうか?
俺が疑問に思いながら令菜さんを見据えると、令菜さんはすっと視線をコーヒーのマグカップに視線を向けたまま、しばらく黙り込んでしまう。
カフェの店内BGMと、落ち着いた近所のマダムたちの話し声だけが辺りに響き渡る。
すると、令菜さんが意を決したように顔を上げ、俺の方を見据えて恐る恐る尋ねてきた。
「あの……裕介君って、いつもあの電車に乗ってるの?」
「えっ? まあ、大体はそうですね」
想定外の質問が飛んできたため、俺の返答は当たり障りのないものになってしまう。
しかも、俺が質問に答えたら、令菜さんは真剣な表情で腕を組んで黙り込んでしまった。
何だろうと首を傾げていると、令菜さんは思い立ったように組んでいた腕をほどいて、両手をテーブルへとバンっと置き、羨望の眼差しでこちらを見つめてくる。
「あのね裕介君! 助けてもらった身で、こんな無礼なお願いをするの悪いとは思ってるんだけど……もし差し支えなければ、今後しばらくの間、私と一緒に電車に乗ってくれないかしら!」
「……へっ?」
突然の令菜さんから受けたお願いに、俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「俺が、令菜さんと一緒に……ですか?」
自分を指差しながら答えると、令菜さんが首を縦に頷きながら答える。
「えぇ、裕介君も始発の
「そうですね……」
すると、令菜さんはバッと俺の腕を掴み、懇願するような目で訴えかけてくる。
「お願い! 裕介君しか頼れる人がいないの。通勤時間帯を変えることは出来ないし、この路線、女性専用車両がないでしょ? だから、実は今まで何度も同じ被害にあって来てて……」
「そ、そうだったんですね……」
やはり、先ほど俺が思った予想は当たっていたらしい。
令菜さんはこれまでに何度も、電車内で痴漢被害を受けていたのだ。
「今まで、助けてもらったことはなかったんですか?」
「えぇ……誰も私の事を助けてくれる人はいなかった。だから、ずっと恐怖に怯えながら、我慢し続けて耐えてきたわ。周りの人も、気付いていたとしても見て見ぬふり。面倒ごとに巻き込まれたくない、首を突っ込みたくない。誰か助けてくれるだろうっていう集団心理が働いて、結局誰も助けてくれなかった。しかも、今日に限っては集団で襲ってきて……。まるで監獄にいるような最悪な気分だった。でもそんな時、私がちっ……痴漢されているのを目撃して、裕介君はすぐに目の色を変えてすぐに助けてくれた……。こんなことしてくれた人、人生で初めてなの」
令菜さんは、俺を正義のヒーローか何かと勘違いしているのではないだろうか?
それほどに、令菜さんの表情は、期待に満ちていた。
「いやいや、俺は本当にたまたま偶然助けたってだけですから! そんなに買いかぶりすぎないでください」
俺が謙遜していると、令菜さんはさらに手を握る力を強めてきて、瞳を潤ませながら上目遣いにこちらを見据えてくる。
「裕介君がいてくれたら、私は電車に乗っている間、恐怖におびえずに済むの。無理を言っているのは承知よ。断ってもらっても構わない。でも私が信頼出来るのは、裕介君だけなの。君が隣に居てくれるだけで、私は安心して通勤できる。一か月……いえ、一週間でもいいわ。私と一緒に同じ電車に乗ってくれないかしら?」
令菜さんの必死の懇願に、俺は困惑してしまう。
でも、これも何かの縁だと思った。
もしここで、俺が令菜さんのお願いを断ってしまったら、また彼女は痴漢被害を受けてしまうかもしれない。
そう思っただけで、やるせない気持ちが沸々と俺の心の中に湧き上が来るのを感じた。
令菜さんと一緒に電車に乗ってあげるだけで、彼女の平穏な日常が保たれるのであれば、少しでも助けになってあげたい。
気づいた時には、俺は逆に令菜さんの手を包むようにして握り返していて――
「分かりました。俺が令菜さんの護衛になります」
そう口にしていた。
「本当に……? 迷惑じゃない?」
「平気です。令菜さんの熱意は十分に伝わりましたから。それに、俺も令菜さんみたいな美人な方と一緒に電車に乗れるなら、鼻が高いです」
「び、美人だなんて……そんなことないわよ」
令菜さんは恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまう。
俺からすれば、令菜さんはかなり美人だと思う。
顔も小さくてプロポーションも良く、
けれど、それを口にすればセクハラになってしまうので、ここでは伏せておくけどね……。
「それじゃあ、早速明日からお願いしてもいいかしら?」
「えぇ、もちろん。誠心誠意、令菜さんを無事に職場の最寄り駅まで送り届けます」
「ありがとう……やっぱり裕介君に頼んでみて正解だったわ。明日からよろしくね!」
「はい!」
こうして俺は、痴漢の被害を受けていた女性の身を守るため、同じ時間の電車に乗って護衛する事になった。
しかし、この時の俺は気づいていなかった。
通勤ラッシュの電車で女性を守るということが、どれだけ大変なことなのかということを……。
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