痛い。

入間しゅか

痛い。

「痛い痛い」痛いが口癖になってしまいました。夏。全くもって夏の太陽。日傘をさしていてもなお、貫いて痛い夏の太陽。よりも痛いもの、それは心。心が痛い。もし心が身体から(体内にはないかもしれないが)取り出し可能な物質だったら、今すぐに取り出して傷口を消毒して絆創膏を貼ってあげたい。しかし、この痛みは本当に心の痛みでしょうか。そもそも心なんてあるのでしょうか。そんなことを考えているといつも青信号を渡りそびれるのです。

「あー、やってらんねぇ死ね」死ねは良くない。死ねは良くないけれど、言いたくなるから第二の口癖で間違いなさそうです。赤信号はなぜ長く感じるのでしょうか。

 仕事以外でメイクをしない私にしては珍しくおめかして、お気に入りの紺のフロントボタンワンピースなんか着て、どこへ向かうのかと言うと男のもとではなく、会いたくもないあの女との決着を付けるためにあの女が指定した駅から徒歩十五分もある(ひきこもりの私には大冒険だ)カフェチェーン店。

 いつだったかのバイトの休憩時間。あの女とロッカーで二人きりだった。あの女は屈託のない笑みを浮かべて私に言った。「さやかちゃんってさ、かわいいよね。なんか子供っぽくて」子供っぽくて悪かったな死ねと私は言い返さなかった。私はすまして(それはもう華麗にすまして)「そうかな。えへへ」とかなんとか言った気がします。あの女は私より二つ歳が下の二十歳。高卒でひきこもりの道を選んだ私と違って、優雅なキャンパスライフを送っている。ですが、私はキャンパスライフに憧れたりしない。人は群れを成す生き物だが、私に関しては違うらしいのです。人付き合いという言葉との付き合いが上手くいかない。一人が一番。友達とかめんどくさいじゃんってタイプの人間なのです。先週もせっかくの休日をあの女とその友達数人とカラオケに行くことになり、どれだけ私がげっそりして家路に着いたかあの女は知らない。息苦しくて仕方がなかった。歌いたくない歌を歌い、聴きたくもない人の歌になんとなく体を揺らしてリズムに乗ってみたり、一挙手一投足に神経を使った。あの女は言った。「さやかちゃんってホント歌上手いよね」うるせえ、帰らせろ死ねと私は言い返さなかった。私はすまして(それはもう華麗にすまして)「そうかな。えへへ」とかなんとか言った気がします。

 そう。あの女と関わるようになってから私は痛い痛いと言うようになってしまいました。私は好きでひきこもりになって、金がないから週三で仕方なくバイトを始めただけなのです。それがあの女の出現により、ひきこもりをさせてもらえなくなった。


 高校卒業と同時に仕事もお金もないのに、家を飛び出してちゃっかり両親の仕送りを貰いながら気ままなひきこもりライフを送っていました。日がな一日読書と映画鑑賞に耽り、それはもう我世の春!と言った具合に。ですが、二年で生活費のやりくりが厳しくなり働かざるを得ず。「簡単 高収入 バイト 女」で検索し真っ先に出たのが近所の駅からすぐのガールズバー。面接で店長は言いました。制服を着てカウンターで突っ立ってたらいいと。制服というのは中高生が着る学校の制服でした。少しも下調べをしなかったので学校をテーマにした店とは知りませんでした。様々なタイプの学生服の中から好きなものを着たらいいと言われました。スカートの丈が短いのが気に食わない。でも、突っ立ってるだけでお金が貰えるならと思いやってみることにしました。店長はその場で採用を告げると私に「さやか」という源氏名を付けた。

 私は人付き合いはできませんが、人当たりだけは評判がいい。だから、それなり仕事はできているのではないかと自己評価しています。突っ立ってるだけなのですが。

 お客さんはだいたい男性。店長に言われた通りに男性のお客さんにはわからないことにはわからないといい、わかることにもわからないといい、凄くなくてもすごいというを忠実に守るだけで、お客さんは勝手に喋ってくれました。酔っ払って喧嘩腰になるお客さんやスキンシップを強要するお客さんには店長やボーイの子がすぐに守ってくれました。女性のお客さんは逆に私の話を聞きたがりました。ひきこもりたくて、でもお金が無いから仕方なく働いていると正直に言うと大抵面白がってくれました。そんなこんなでまあまあ上手く生活が回り出した頃です。店長が新しい女の子にいろいろ教えてあげてほしいと私に紹介したのがあの女でした。


 私はひきこもる金さえあればそれでいいんですよ。お金になるなら、あの女に仕事を教えるくらいなんとも思わない。あの女は要領が良くて、なんでもそつ無くできたから、手間がかからなくて大変よろしい。その点に関しては何ら文句はない。ただひきこもりたい私を無理やり外に出させないでほしいのです。

「さやかちゃんどうせ暇でしょ?」どうせ暇なのだ。間違いない。仕事以外は何もやることはない。でも、私は何もしないがしたい。人生の八割は暇で出来ていると言っても過言ではないのです。いや、過言かも。予定を作ってせっせと暇をつぶさなければいけないほど暇はダメなのでしょうか。私は暇を愛しています。私のボーイフレンドは暇です。暇との逢瀬が叶わなくなってから心が痛い。意味もなく「痛い」と口から溢れるほど痛い。きっと、あの女が私をほっといてくれないからです。だから、今日をもってあの女と絶交するのです。えんがちょするのです。

 約束の時間丁度にカフェに着いた。じんわりと額に汗。効きすぎな空調に体が震える。ストールを持ってきてよかったと思う。見渡してみたけれどあの女はまだのようでした。「着いたよ」とだけ打ち込んでLINEを送信。アイスコーヒーを注文して、席を探しました。ほとんど座られていて、唯一窓際の二人がけの席が空いていたのでそこに座りました。店内にはジャスが流れ、それを上書きするように人々が思い思いに会話を楽しんでいる。いったい、人生において何をそんなに話すことがあるのでしょう。私はザワザワしている場所がてんでダメです。読書をしたり、パソコンで仕事をしている人には感心します。気が散らないのでしょうか。それでもLINEの返信がないので、本を読むことにします。バタイユの『眼球譚』です。さあ、読み始めようとした時に「おまたせー!ごめんね」と言ってあの女がフラペチーノと思われる物を持って私の向かいに座った。キャップを被り、アルファベットのロゴが入った黒のTシャツにクリーム色のワイドパンツ。ゆったりとしたボーイッシュな格好が良く似合っていました。だが、間が悪いので死ね。とは言わなかった。華麗にすまして「ううん、私もさっき来たとこ」と言った。いや、えんがちょするのなら死ねくらい言えばよかった。

「珍しいね、さやかちゃんからお茶しよって。初めてじゃない?」

「そうだね、初めてかも」そして、最初で最後だわ死ねとは言わなかった。

「さやかちゃんっていっつも本読んでるよね」と言ってあの女は私の持っている本をしげしげと眺めた。

「がんきゅう……なんて読むの?」

「たん」

「たん!漢字全然読めないから、たくさん本読めるさやかちゃん尊敬するわ」お前、尊敬も漢字で書けなさそうだもんなと思ったのに言わなかった。さっきから私はこれからえんがちょする相手に何を気にしているのかしら。痛い。チクチクする。

「お腹空いたぁ、なんか食べない?」あの女はメニューのランチのページを私に見せる。私は首を横に振る。

「ていうか、寒くない?今日暑かったから羽織るもの持ってきてない」と言ってあの女はメニューをペラペラとめくっています。ストールで冷房対策している自分が少し卑怯な気がしました。なぜだ。えんがちょするやつに情けは無用のはずなのですが。

 それから私たちはバイト先のお客さんの話をしました。あの女はとある男性客とアフターをしたらしく、それはそれは壮大な冒険物語を語るみたいに大仰な身振り手振りでその時の様子を語り始めました。私は何が楽しくて、仕事以外でお客さんと会う気になるのか気がしれませんでした。トラブルにでも巻き込まれたらどうするんだと思った瞬間、何でこいつの心配してるんだ!と直ぐに取り消しました。それにしても、お客さんに焼肉奢ってもらっただけでこんなにはしゃげるのはある意味才能かもしれませんね。確かに他人の金で食う焼肉は美味いでしょうけど。

 私は終始「そうなんだー」とか「いいなぁ」とか「やば」とか言って聞き流していました。

 ある程度話が一段落がつき、自然と二人の間に沈黙が訪れました。今こそ絶交を切り出す絶好のチャンスです。しかし、口から出た言葉は「痛い」でした。あの女はこちらを見て「どうかした?大丈夫?」と言いました。そんな目で、そんな心配そうな目で、見ないで欲しい。お前のせいで痛いんだ。ですが、「痛い、痛いよ」私の口からはもう痛い以外に出てきませんでした。

「どこが痛いの?」

 私は首を振るのがやっとでした。胸のどこかに何かが引っかかっているように苦しい。悔しい。何が悔しいのかわからないけれど猛烈に悔しい。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い?どこが?何が?何で?

「もう嫌だ。痛い。かえる」そう言って私はあの女を残してカフェを飛び出しました。


 私はおかしくなったのかもしれません。デタラメに歩きました。できるだけ知らないところに行きたくて。十分ほど歩くと人気のない公園に着きました。木がたくさん植えてあり、時折吹く風が心地よい。歩道脇にウォーキングコースと書かれたたてふだ。歩道に沿うように小さな川が流れていました。川をのぞき込む。私の顔が水に映る。「痛い。嫌い。死ね。痛い。嫌い。死ね」呪文のように何度も唱えました。すると、途端に涙が溢れました。悲しいのに、悲しい理由がわからない。「痛い。嫌い。死ね。痛い。嫌い。死ね」嫌いなんだ。大嫌い。あの女のことが。だから、悲しいの?何で悲しいの?わからないわからないわからない。

「ほっといてよ!」自分でも驚くほど大きな声が出ました。そしたら、余計に泣けてきました。私はその場に蹲り、わんわんと泣いた。こんなに訳の分からない涙は初めてでした。痛い。あの女のせいで、私は、痛い。

 突然、後ろから誰かに抱きしめられました。でも、私はすぐに誰かわかりました。あの女です。

「痛い。嫌い。死ね」やっと嫌いって言えた。やっと死ねって言えた。私は心からスっと痛いが消えるのを感じました。

「さやかちゃん」と耳元であの女は言いました。耳にかかるあの女の息がくすぐったくて、私の全身は熱を帯びる。私はゆっくり彼女の方へ体が向ける。あの女は何故か微笑んでいました。私は何も言えずあの女の顔見つめた。あの女は言いました。

「さやかちゃん、好きだよ」そして、私の頬に優しくキスしました。

「嫌い。死ね」もう何の躊躇いもなく言えました。私はあの女を抱き返して死ねと言いました。でも、涙は止まりませんでした。

 どれだけの時間が流れたのかわからない。抱き合ったまま。ぽろりと私の口からあの女の名前が出ました。とても小さな声で。あの女は静かに頷きました。それからぽんぽんと私の頭を優しく撫でた。私はまた名前を呼んだ。今度はもっとはっきりと。

「さやかちゃん」とあの女も私を呼ぶ。

「帰ろっか」あの女は立ち上がりに手を伸ばしました。私はその差し出された手をじっと見ていた。

「帰ろ」ともう一度あの女が言ったので、私は咄嗟にあの女の手を掴みました。


 私たちは手を繋いで帰りました。晴れやかな気持ちでした。ひきこもりになりたかったはずの帰り道。あの女に手を引かれながら私はもうどこも痛くないけれど、絶対にこいつを好きになってやらないと心に決めたのでした。

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痛い。 入間しゅか @illmachika

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